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文字数 4,685文字

集会所の戸が開け放たれて、村の男が六人入ってきました。

二十代の若者に見えるのは一人しかおらず、中年は二人、あとの三人は老人でした。
彼らはテスとサラを取り囲み、見下ろします。

テスはうなだれて椅子に腰掛けたまま、顔を上げる気も起きませんでした。

どこから来た?
最初の質問が放たれて、あとは沈黙が続きました。
名前は?

雨音が円い室内に満ち、テスはまた眠くなってきました。

――どうしてこんなに眠いのだろう。

――眠ってばかりいたい。

――眠り続けたい。

言葉つかいか?
テスは目を閉じます。
やっぱりそうだ、こいつ。
災厄だ。言葉つかいだ。
あの街がまた姿を現したのも、お前が関係してるんじゃないのか?
誰かが椅子の脚を蹴りました。
おい、答えろ。

やめて。

この人は口もきけないほど疲れてるの。

テスは目を開け、ぼんやりしながら瞬きました。
間近にいるサラの緊張が伝わってきます。
仕方なく口を開きました。
化生(けしょう)が去ったら出ていく。

言葉つかいなら化生なんてどうにでもできるだろう。

今すぐ出ていきやがれ。

お願いだから! 雨が降ってる間だけでも……。

このまま外に出したら、この人は死んでしまうかもしれない。

知ったことか!
言葉つかいの肩を持とうだなんて、お前は村をどうしたいんだ?

どうもしないわよ。

お願い。必要な物は私の家で(まかな)うし、迷惑はかけないから。

ろくな稼ぎもねぇ小娘が!
質問ではなく、嘲るために言葉が放たれます。
お前の親父も報われねぇな。
そして、入ってきたときと同じように、男たちは不機嫌そうに集会所を出ていき、戸を閉めました。

彼らの足音が聞こえなくなると、集会所には、再び雨音が満ちるだけとなりました。
サラはテスの目の前に(ひざまず)き、テスの右手を自分の両手で包み込みました。

テスの両目は開かれているけれど、何も見えていません。

…………傷口を洗いましょう。

穏やかに声をかけ、サラは立ち上がりました。

集会所を横切り、出ていきます。

テスは一人になりました。

ジュンハはどうなっただろうと、テスは何となく思いました。

生きているかもしれないし、死んでしまったかもしれない。

彼の娘はテスのせいで死にました。

ジュンハによって罰を受けるべきだと心のどこかで思っていました。

むしろ願ってさえいたかもしれません。

そうでありながら、むしろジュンハを死の危険の中に残して逃げてきてしまったのです。

自分が何をしているのか、テスにはわかりません。

望む善いことをせず、望まない悪いことばかりをしている。

……きっと、アルカディエーラがそうだったように。

自分はいっそ殺されるべき罪人(つみびと)なのだろう。

そう思うのです。

サラが戻ってきました。

小さな水瓶と、膏薬(こうやく)の瓶、包帯が入った(かご)を抱えています。

歩み寄ってきて、テスの足許(あしもと)にそれらを並べました。

包帯を収めた籠から(はさみ)を出し、テスの手首に巻き付いた布を()ち切っていきます。

籠の中には、他に、油紙に包んだパンがありました。
サラは手を休めずに尋ねました。

目眩(めまい)はしませんか?

テスは答えません。

サラは濡らした水で傷口を拭き、膏薬を塗っていきます。

平気なふりを装っていますが、手には迷いがあります。

皮膚をずたずたにしたこの傷がどういうものなのか、何故こんなことになったのか、想像するだけで恐いのでしょう。

そのうちに、遠くから羽音がきて、たちまち大音量となって空を覆いました。

雨音がかき消され、窓の外が真っ暗になります。

化生です。
ここには結界があります。私たちも慣れていますし、怖がらないでください。
サラの顔を照らすのは、ストーブの火のみとなりました。

……でも、ここまで大規模な群れを見るのは初めてです。

やっぱりちょっと怖いかな。

テスはだんだん、サラの穏やかさや親切さが耐えられなくなってきました。

この村には、二人組の若い言葉つかいの行商が来るんです。男の人と、女の人で……。

今は南部に買い付けに行っているのですが、そろそろ戻ってくるはずなんです。

あの人たちのことが心配です。

……指を消毒しましょう。それが終わったら、他のお怪我を見せてください。それか、お顔のお怪我に触れてもよろしいですか?

テスは最後の一言に応じようとせず、沈黙を続けました。

サラは黙って答えを待っています。

なので、首を横に振りました。

遠慮なんてしないでください。

これは私が好きですることですから。

どうして、ここまで親切にするのだろう……?

テスはその疑問を、最も短い聞きかたで尋ねました。

どうして。
聖典の教えです。
テスが喋ったのが嬉しいのか、サラはテスをまっすぐ見上げて微笑みました。
そして、一語一語をゆっくり暗誦(あんしょう)します。
『兄弟愛が保たれますように。手厚く旅人をもてなすことを忘れてはなりません。そうすることによって、ある人々は、知らずにみ使いたちをもてなしました』
み使い?
テスは虚しく繰り返します。
俺はお前が思っているようなものじゃない。
テスは突き放すように付け加えます。
俺に構わないほうがいい。ろくなことにならない。

肉体よりも精神的な疲労のほうが酷く感じられました。
人の親切を受け入れるのも、心の強さや力の一つらしいとテスは知りました。

今やそんな力さえ失われていました。

ただただ一人にして、放っておいてほしいのです。

さっきは、約束を破ってしまいました。
……。

ごめんなさい。もう、あなたが何をして、どうしてここに来たかは問いません。

ただあなたが痛ましいのです。ですから……。

不意に何もかも打ち明けてしまいたいとテスは思いました。
そうしたら、彼女は自分を軽蔑してくれるはずだという、卑しい願いでした。
俺は罪を犯してここに来た。
衝動的にそう言うと、サラはただ頷きました。
あなたが希望を失うほどの罪ですか?
ああ。
ならば希望は、再び与えられます。私はそう思います。
どうしてそう思うんだ?

あなたがしたことを私は知りませんが、私も日々罪を犯しますから。

それでも希望が与えられない日はありません。

私は毎日、およそ神のみ(むね)に添わぬ、罪深い思いを抱きます。

村に来る宣教師の先生にも打ち明けられぬ思いです。

そして、私は聖典をよく読み、罪について祈りました。

そしたら何が起きたと思いますか?

何が起きたんだ?
答えがあったのです。おかしなことを言っていると思われるかもしれませんが……。

テスは何となく、この娘を胡散臭(うさんくさ)く思いました。

それでもサラは、確信に満ちた目で続けます。

泣き濡れて眠るとき、人ならざるものの声を聞きました。

声は私に言いました。

『希望は、罪と堕落を知る者に与えられます。それは、残りが僅かなときにこそ、強く輝きます』、と。

サラは跪いたままテスをじっと見上げ、反応を待っています。

ですが、頭も心も麻痺し、テスには何も言えませんでした。

化生は村の上に止まり、羽音も影も去らぬまま。

少しして、サラは微笑みました。

ごめんなさい。おかしいですよね。でも、私にとっては本当なんです。

それは、聖典の言葉なのか?
いいえ。私だけが聞いた言葉です。
……ところで、聖典ってどんな聖典なんだ?

外の世界からもたらされたものです。

地球人の聖典だったものを下敷きに、外の世界の女預言者が編み直したものとされています。

宣教師の先生のお話では、ひどく迫害された宗教だそうです。

でも、私は気にしません。

そんな貴重な聖典の文が、どんな形であれ残っているというのはありがたいことだと思いますから。

ふと心に引っ掛かりを覚え、テスは疑問を口にします。

その女預言者の名は?

何故そんなことが気になったのかはわかりません。

ですが答えは得られました。

キシャ・ウィングボウ。
テスの頭の中の霧が、一瞬にして晴れました。
目に光が戻ります。
キシャ――
その変化に驚いた様子で、サラは顔を強ばらせました。
またも、この雨の中を誰かが歩いてきます。
戸が開け放たれると同時に、雨音と、羽音と、嫌な気配がなだれこんできました。
サラ!

男の怒鳴り声で、サラは初めて怯えた顔を見せました。

外は暗く、部屋の中央のストーブからも離れているため、戸口に立つ男の姿はよく見えません。

それでも、上半身が裸で、しまりなく太っていることはわかります。

何やってんだ、お前。

不機嫌に言いたてながら、大股で入ってきます。

サラは、包帯を替えたばかりのテスの手首に手を添えたままでした。

その指先が(こわ)ばるのが、テスに伝わりました。

今日の井戸掃除の担当がどこかわかってんのか。
ごめんなさい、うちです、お父さん。わかってるわ。雨がやんだら、すぐに――
それだけじゃない!
男はなお近付いてきます。
飯! 掃除!
待ってて、これが終わったら――
これって何だ。

そして十分に近付くと、青ざめて目を伏せるサラと、テスの前に立ち、サラを冷酷に見下ろしました。

これって何だ、言ってみろ。

男はズボン下を履いており、その下に下着が見えています。

だらしない、ひどく醜い格好です。

お前よう。

よそものの男と、家のことと、どっちが大事なんだ?

この人は疲れてるわ。

貧血気味のようなの。顔色も悪いし……。

お前は男の前ではいい顔をするよなあ。
男は口にするのも憚られるような品性下劣な言葉でひとしきりサラを侮辱してから、更に言い立てました。
それともなんだ? またアレか? 変な宗教の本に書いてあることを言い訳にするつもりか?
変な宗教なんかじゃないわ。私はするべきだと思うことをしてるだけよ。

ふん、まあそれがお前には相応(ふさわ)しいかもな。

いまどき宗教に手を出す奴なんて、大概頭が悪いか、心が弱いんだ。

せいぜい一生懸命努力して、無駄なことやってろ。

やめて。

サラが立ち上がります。
つられて顔を上げたテスは、ひどく下卑(げび)た笑いを男の顔に見ました。

男が手を上げたとき、おかしなちょっかいをかけるつもりだと瞬時に理解しました。

視界の端で、サラが息をのみ、腕で胸を庇うのが見えました。

疲れ果てていたにも関わらず、憎悪にも似た強い怒りがテスの心に閃きました。
がたりと椅子が音を立てます。
男と目があいます。

男は、テスがいつでも立ち上がれることと、その目の鋭い光に気がついて、(ひる)んで手を引っ込めました。

それからテスを睨み返しましたが、いざとなったら勝てぬという程度のことはわかるのでしょう。

神がいるなら救ってみやがれってんだ!
ばつが悪そうに吐き捨て、
サラよう。
テスが放つ張り詰めた空気に緊張しながら、サラは横目で男を見ました。

男にどんなに()び売ったってなあ、お父さん、知ってるんだぞ?

お前が毎日俺に便所を覗かれてるメス犬だってな。

サラの顔が一瞬で真っ赤になるのを見て、男は大声で嘲笑い、背を向けました。

戸口にたどり着くと振り返り、わざとらしい優しさを込めて言い放ちます。

サラ、お父さんがこの程度で済ませてるうちに家のことをしたほうがいいぞ。
喋りながら戸に手をかけました。
ま、腹を()かせて待ったところで、所詮(しょせん)メス犬の料理はメス犬の餌並みにまずいんだけどな!

ようやく男は出て行きました。

戸が開いて外の羽音が大きくなり、閉まると小さくなりました。

あとに沈黙が残り――
………………。
………………。
…………………………。
それは、本当に微かな声……。
………………あの男、死ねばいい……。

まず聞こえるはずもないような声。

息の音にもかき消されそうな微かな声。

それでもテスは。
過敏な聴覚によって。
読唇(とくしん)の技術によって。
確かに聞き届けました。
―つづく―
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