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文字数 3,712文字

この世界は壊れています。

人間を見ればわかります。

一日の始まりに、ラジオが憎悪を喚きます。
『いつから俺たちの世界は〈奴ら〉に乗っ取られちまったんだ!?』
『もともと〈奴ら〉は俺たちから隠れて暮らす存在だった。下水路を這い回るネズミ。ゴミ漁りの犬っころ。油ぎったゴキブリども。今も隠れているべきだ。ずっと隠れていなければならない。だが連中は人間づらして俺たちの中に溶け込んでいやがる』
『このラジオを聞いているお前らの中にもいるはずだ。隣に暮らす〈奴ら〉にいつ何をされるかと怯えながら暮らす者。不本意ながら〈奴ら〉のもとで働いてご機嫌取りをしなければならない者。逆に致し方なく〈奴ら〉に給料を支払わなければならない者』
『取り戻せ! 不潔な〈奴ら〉から俺たち人間の文明社会を取り戻せ! 怯えている者、思い詰めている者、もう我慢できない者、新生アースフィアに集い戦おう! さあ! 来い! 共にやるんだ! 世界を浄化しよう!』

テスが安ホテルの食堂に行くと、客の一人がラジオのスイッチを入れました。

食堂に管弦楽団が奏でる室内音楽が広がります。

ダイヤルを回す太い指を、テスは見守ります。

目当ての番組がなかったらしく、男はいらいらしながらテーブルに戻っていきました。

党の番組がやってない。
テーブルには女性が同席していました。雰囲気からして兄妹のようです。
零刻(れいこく)にやってたわ。

一時からもう一度やるはずだったんだ。

畜生、局の連中は〈奴ら〉の肩を持つのか?

売国奴(ばいこくど)め!

ここは人間の国だ!

もともと違法の番組だわ。
女はポタージュをすくった(さじ)を、スープボウルに戻しました。
それに電波ジャックは明らかに犯罪よ。ねえ、クェテ、いつまでこんな活動を続けるつもり?

もちろん〈奴ら〉を一掃するまでさ!

どうして消極的なことを言う、ニサ?

もともと党にはお前が先に入って活動してたじゃないか。

クェテは家族を大事にしなさすぎなのよ。

それに、クェテ……家のガレージで火炎瓶を作って、誰でも触れるような状態で放置したり、みんなでそれを投げたりすることが……私には、お父さんのお見舞いに行ったり、お母さんのお誕生日を祝うことより大切だとは思えないのよ。

それに、私が入れ込んでた頃の党と今の党は違うわ。

今は……あんな、ただの差別主義……。
ニサ、こういう場所じゃなかったらお前を殴ってる。
クェテはテーブルの上で拳を作り、ニサに見せつけました。
これは戦争なんだ。理念は純粋じゃなきゃいけないし、過激なくらいでなきゃ勝てない。甘ったれたことを言うな!
平和な時代に生まれ育って、よくそんなことが言えるわね。
ねえ、クェテ――あのね、とにかく火炎瓶のしまい場所だけは今すぐ考えてほしいの。ガレージの隣は私の寝室なのよ? もし私に何かあったらとかって考えないの?
そんなの、お前の問題じゃないか。じゃあどこにしまえばいいんだ? ガレージ以外にないだろう!
お願いだから考えて!

代案を出せって言ってんだよ。だってガレージに置くしか仕方ないだろ?

代わりにどこに置けばいいか教えてくれなきゃ、どうにもできないね。

ニサはズボンのポケットを探り、折り畳まれた布を取り出すと、開き、テーブルに叩きつけました。

それは両目と口の周りが白く縁取られた覆面で、青空みたいにきれいな水色でした。
ニサは再びクェテとしっかり目を合わせ、言い放ちました。

私、帰ったら党を抜けるわ。クェテも一緒に抜けて。
クェテはどんよりした目でロールパンを手に取り、まずそうに食べ始めました。
お前って、昔から飽きっぽいよな。
そういう話じゃないでしょ? 党に差別主義が蔓延してたり火炎瓶の隣で寝なきゃいけないのが飽き(しょう)とかの問題なわけないじゃない。
お前、そういうこと、他のみんなには言うなよ? 俺は身内だから寛容に聞いてやってるんだからな。
全然聞いてないじゃない! 聞いてよ!
とにかく――
クェテは溜め息をつき、唾で唇に張り付いていたパン屑をテーブルに落としました。
それから一気にまくし立てました。

――とにかく、今回の仕事はちゃんとやってくれ。わかってるな。ヒヤシンス通りの公会堂だ。

早く食えよ! 党集会に間に合わなくなったらどうするんだよ!

ああ、まったく、お前はほんとにお気楽だよな。別にお前は自分の好きにすればいいけど、俺の顔に泥を塗るような真似だけはするなよ。大体お前は昔から――

……………………。

ニサもまた、目の光を消して諦めきった顔をしました。

兄妹は喧嘩を続けました。喧嘩と言っても、クェテが一方的にニサの欠点をあげつらい、それをニサが死んだ目でただ聞くだけのものです。

テスは食事を終えて立ち上がりました。

クェテの後ろを通るとき、彼のズボンの尻ポケットにも同じ覆面が入っていることに気がつきました。

テスは、クェテが座る椅子の座面と背もたれの間からそれを()りました。

身支度を整え、安ホテルを出ます。
雑踏の声と音が、テスに降り注ぎます。

小さい子供が舗道に座り込み、泣いています。

シュークリーム、シュークリーム!

ママ、シュークリームぅ!

若い母親は、ケーキ屋の店先に座りこんで泣いている我が子に決して歩み寄ろうとせず、少し離れたところから子供に険しい声を叩きつけました。
だから、シュークリームか抱っこかどっちかにしろって言ってるじゃん! どっちなの! シュークリーム買うんだったらもう抱っこしてあげないからね!

子供は泣き続けました。

母親は抱っこどころか手を引いてやろうともせず、どうにでもなれとばかりに子供を置いて歩き始めました。

子供は慌てて立ち上がり、泣き喚きながら追っていきました。

ケーキ屋がある区画の角の家は、張り出し窓が開いており、その向こうでは夫が妻を殴りながら怒鳴っていて、覗きこむまでもなく筒抜けになっています。
二日間も俺の食事をどうするつもりなんだ! 洗濯は! 掃除は! えっ? 俺に飢えて死ねって言うのか!?
再び殴る音。その音に紛れて、ごめんなさい違います許してください、と泣きながらか細く繰り返す声が聞こえます。

ふん、わかったら二度と友達と旅行に行きたいなんて言うなよ! 大体誰だ、そんな非常識な――。

誘ってきた友達の名前を言ってみろ、俺が縁を切っておいてやる!

ぶつぶつと何かを言い返す女の声を、男のヒステリックな声がかき消しました。

お前のために言ってやってるんだろうが!

それとも言えないような相手か! えっ!?

まさか浮気じゃないだろうな!!

その家の通りを挟んだ向かいはちょっとした公園で、そこでは六、七歳の子供たちが花壇の隅に集まっており、一人の子供を座らせて、襟もとから服の中に花壇の土や、ミミズの類を入れて泣かせていました。

自転車に乗った男が公園の中を横切ろうとし、子供たちに声をかけました。

おっ、みんな今日も元気か?
あ、先生だ! こんにちは!
休みの日にもみんなで仲良く遊んでるのか。偉いな!

すると、いじめられていた子供が立ち上がり、縋るように両手を広げて自転車に乗った教師に駆け寄ろうとしました。他の子供たちがそれを捕まえて、後ろに投げ飛ばしました。
教師は笑いながら自転車を漕ぎだしました。

おいおい、悪ふざけもいいけど、やりすぎるなよ。

公園を過ぎると、路上にクレープ売りの屋台が出ていました。

若い男の店員が一人おり、一見身なりのいい老人が屋台の店員に話しかけました。

ちょっと、お兄さん、クレープっていうの? この皮、何でできとるんだね。
えっ、クレープの皮ですか? 小麦粉と……砂糖ですかね、ええ、まあ、小麦粉です。
なんだそのいい加減な答えは!!
老人が怒鳴ります。
何でできとるんだ! ちゃんと言わんか!

突然のクレーマーの出現に、若い店員は固まっています。

老人は屋台をがんがん蹴り始めました。

何で自分が売っとるものの商品知識をちゃんとしておかんのだ!

お客様に何かわからんものを食わせとるのか、この店は! えっ!?

お前じゃ話にならん! 責任者を呼べ!! 呼んで来い!!!

さらに歩くと、鈴の音を鳴らして、高級感のあるホテルのレストランのドアが開きました。

男の子と、男の人が出てきます。

おいしかったね、パパ!
親子は馬車が拾える通りへと向かっていきます。
次はキエンも来れるかな?
うん? あいつは駄目だ。失敗作だからな。パパ、恥になる子とは一緒に歩けないよ。
父親は、穏やかで、優しく、愛情深そうな口振りで息子を諭し聞かせました。
パパは、お前が学校のお勉強で特別な成果を出したから、今日こうして食事に連れてきたんだぞ。これからもパパの大事な息子でいたかったら、お勉強を頑張らないとな。
………………………………。
う……うん!

この世界は壊れています。

人間を見ればわかります――。

テスは空を見上げました。終わりの予感が重く垂れこめ、黄昏(たそがれ)は人の心を覆っています。
テスは奥歯に力を入れました。
テスは、これからも、記憶を失くしていきます。

青空だけは忘れたくない。

テスは願います。

テスは祈ります。

   ――青空だけは奪わないでほしい。

   ――運命に慈悲があるのなら、どうか……。

―つづく―
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