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文字数 2,684文字

サラは押し黙っています。

彼女が出て行ってしまうのではないかとテスは恐れました。

一人にしておいてほしいと願っていたにも関わらず、今、サラに一人でいてほしくなかったのです。
迷った挙句(あげく)、サラを引き止めるためにテスは話しかけました。

サラは何も悪くない。

サラは少し顎を上げ、動揺しながらテスに目をくれます。

そしてまた、うなだれて何か迷い、迷いながら口を開きました。

あなたには信仰がありますか?

俺はこの世界に落ちてきて、記憶を失ったんだ。

その前に、何か信仰と呼べるものがあったことだけ覚えてる。

そうですか……でも、何かそういうものがあるんじゃないかって感じはしてました。
………………。

あなたは道に迷われた。それでも心に神を持つ人はみな兄弟、姉妹です。

あなたは私の兄弟です。

だとしても何も変わらない。
……?
俺やサラに信仰があったって、サラが神を信じていたって、サラが置かれた環境は何も変わらない。
………………。

目の前にサラがいる限り、あの男はサラを虐げるでしょう。

今日も、明日も、あさっても。

サラが神を信じようとも……。

それでも……いつかは…………
いつか来るのが善いものであるとは限らない。
サラ――
…………。
もしもある日悪魔が来て…………あの男を殺してやる、と言ったら……?
わからな……
……ううん、ダメ! 駄目ですよ、絶対! そんなの絶対絶対絶対断るに決まってるじゃないですか!
………………。
(じゃあ……もし俺が…………)
テスは、実行する気もないその言葉を飲み込みました。
あなたは私の言ってることを偽善だと思いますか?
どうだろう。
みんな言います。私のことを、きれいごとしか言わない偽善者だって。
どうして?
あの人たちは知ってるんです。

聖典に『汝の父母(ちちはは)を敬え』って書いてあること。

私がそれに従えないくせに神に従おうとするから、偽善者だって言うんです。

あの人を敬うなんて無理だろう。
でもそれが神の教えなんです、

なのに私にはどうしても従うことができません。

……それもこれも、私の心が悪いからです。

心が悪いから、本当らしいと思えることもきれいごとにしてしまう。

何を語られても、何を読んでも、それが私の口や行いから出てくるときには偽善になってしまうから……。

サラは嘘をついてるな。
サラは自分がそんなに悪くないことをわかってる。

あの男を敬えないことの責任はあの男にあるってわかってる。

むしろあの男を敬ったりしてはいけないことをわかってる。


………………。
サラはあの男を敬っていない。

敬うことができないからだし、敬ってはいけないからだ。

なのに自分が悪いふりをして、自分を責めるふりをして、本当はすごく相手を憎んでる。

………………。
そうやって自分で自分を傷つけていれば許されると……
そうよ。
…………。
私、毎日思ってる。

今日、あの男が死んでくれたらどんなに嬉しいだろうって。

………………。

あの男に油をかぶせて火をつける妄想を毎日しているわ。

いつもよ。

神に祈るときも。

先生の教えに耳を傾けるときも。

そのくせ敬虔なふりをして、聖典の言葉を語ってるの。

私は偽善者よ。わかってる。

でもね……。
……。
人間って、心が一つだけの生き物じゃないでしょう?
喜んで悪いことをしながらも、どこかでこんなことはやめたいって叫んでる。

誰かを憎みながら、同じ相手がいつか心の平和を得て、幸せになることを望んでる。

互いにひどいことをしあうときにさえ、頭の片隅で一緒に過ごした楽しい時間を思い出したりしている。

心がいくつにも裂かれて、そういう矛盾したことを、平気で同時にするの。

……そういう、ものでしょう……?
…………。

きれいなものと、汚いものがあったら、きれいなほうに歩み寄りたい。

ただそれだけなのよ。

……その結果…………

きれいなものをきれいごとに、善を偽善にするしかなくてもか?

結果じゃないわ。過程よ。
人の死を願うほどの憎しみが私の心にある限り、私の言うことはきれいごとになる。私のすることは偽善になる。

なんだって、必ず。でも……。

いつかは……前を向いていれば……きれいごとを越えた先の世界にたどり着けるかもしれない。
そうでなきゃ、生きてて惨めすぎるじゃないですか。
寂しすぎるじゃないですか……。
…………。

前を向くと言って、何ができる?

いま私にできることは……

ああいう家族と……

その中にいる自分を見つめることだけです。

胸の前で指を組み、サラは祈りました。

そして指を解くと、右手をテスの膝に添え、弱弱しく微笑みかけてきました。

膝にあるサラの手の重みを感じたとき、その手は温かく、柔らかいのではないかという気がしました。

ほとんど無意識の行動でした。

テスは左手を動かして、サラの手に重ねました。

自分一人が生きるために、何人もを(あや)めた手で。

汚れた手、血にまみれた手で。

サラの手は、思った通り、温かく、柔らかく、日々の労働で荒れているにもかかわらず、繊細でした。
あったかい……。
…………。
サラ。
自分のことを知ってほしいという願望が沸き起こり、止めることができませんでした。
テス。

……俺の名前。マリステス。

……テスさんですね。
不思議と疲労が癒えていき、感情が戻ってくるのをテスは感じました。
ふと、サラは何かに気付いたような顔をし、籠に右手を突っ込みます。

そして油紙で包んだパンを差し出しました。

……そうだ。

これ、食べてください。今朝焼いたものです。

ありがとう。
包みを受け取り、広げてパンの匂いを嗅ぐと、食欲などなかったはずなのに、それを食べたいと思いました。

ハムとチーズが挟んであります。

口に入れると、ちょうどよく胡椒がきいていました。

サラが再び胸の前で両手を組みました。

ああ……よかった。

テスさんが食べてくれた……。

おいしい。
テスは、サラの父親が彼女に酷いことを言ったのを思い出し、付け加えました。
サラは料理がうまいんだな。
サラは両手を組んだまま、顔を上げようとはせず、むしろ深くうなだれました。

鼻をすすり上げます。

息が震えます。


テスは痛ましく思いました。

もう一度手を触れあいたいと願いますが、サラがそれを望むことかどうか、わかりませんでした。

テスさん。
なんだ?
震える声に、テスは身を乗り出します。
雨がやむまでここにいてください。
不意に、外の羽音が遠のき始めました。

窓から光が射し、サラの姿に薄い光芒(こうぼう)が重なって、そして雲が割れました。

雨は続いていました。

僅かな雲の割れ目から光の柱が斜めに降り立ち、輝く雨のひとつひとつの雫に虹を宿らせました。

……虹。
光は目に新しく。
雨は無音でした。
―つづく―
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