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文字数 4,059文字

第一甲板からテスを見上げる男は、テスの半月刀を見て顔色を変えました。

観測甲板から男を見下ろすテスも、また驚きを覚えました。

自ら勝負を吹っかけておきながら、その男は武器を何も持っていなかったのです。

……何だ、お前は。何なんだ?
……?
昨日の言葉つかいだ。

嘘をつけ!

言葉つかいが物理武器など使うものか!

お前は新生アースフィアの党員か!? そうだな!?

わからない。

何のことだ?

しらばっくれるな、裏切り者の言葉つかいめ!
男は聞く耳を持たぬようで……。

視界の限りの空が、水平線の彼方から、黒く変じていきます。

黒さが黄昏を駆逐して、空を塗りつぶしました。

そして、光が差しました。

温かい光ではありません。

優しい光ではありません。

悪意であれ、憎悪であれ、在るものの在るがままを明からしめるだけの光です。

光の出所を探そうとしたテスの足許で、観測甲板が消失しました。

テスは大気を蹴り、空中でくるりと体を丸めて回転。

バランスを取り、爪先から第一甲板に着地。

その時、光は雲の中の二つの光点から放たれていることがわかりました。

光を反射する雲が、目の持ち主である黒い巨人の姿を、包みこみ照らしています。

その巨人は船のかたわらにいるのですが、海は消えていました。

あるのは虚無。

やみわだの(おもて)を、船が漂います。

言葉で世界をいじり回して何になる。

こんなことはやめるんだ!

黙れ! やめる前に、お前だけは殺す!

この男は何か誤解をしているようです。

殺したいほどの憎悪というのは、単に生意気な年少者、気に食わないだけの相手に対する感情ではないはず。

男はテスを憎んでいるけれど、それはお門違いの憎悪です。

ですが、誤解を解く間もなく、第一甲板が足許から崩壊し始めました。

テスは目を閉じ、足の裏に甲板の存在があると信じます。

キシャによる沼と大地の消失が行われた際、櫂に当たる水の感触を信じたように。

そして、それをもとにテスの主観による世界を復元したように。

靴越しの甲板の感触を頼りに、船と海の復元を試みました。

そんなことはさせない。戦う理由などない。

太陽を求めて、テスは右手の半月刀をしまい、空を指しました。どうか目を開けたときに、その指の真上に太陽があれと願いました。

目を開けます。

顎を上げ、空を見上げます。

雲は厚いけれど、その奥に、輝くほの白い円盤が見えました。

太陽。

黒くない。

堕ちていない太陽。

テスは船があることを望みます。

誰もこの言葉つかいの世界に巻きこまれず、恐怖を感じずにいられることを望みます。

海があることを望みます。

雲間から、光が太い剣のようにおりて海を刺しました。

海はその切っ先を砕き、紺碧のヴェールに散らしました。

海は一本のリボンのように横たわり、その中心を、線路を往く列車のごとく船が進んでいきます。

チッ!

海を囲む深淵の底から、二体の巨人が浮かび上がってきました。

船と海を左右から挟みこみ、みるみる高さを増して、頭が雲に入りました。それはなお浮き上がって高さを増し、足場の高さをテスたちが立つ第一甲板と同じくしました。

巨人たちの足の指は、テスの身長以上の厚みがありました。

何十、もしかしたら何百という数の巨人が次々現れて、雲越しの光に照らされます。

苛立ちと害意をこめた巨人のうめき声が、雪崩のように降り注ぎます。

声の重みを実際に感じ、テスはその場でよろめきました。

巨人は、男の言葉でできています。

そのうめきが人の言語ではなくても、意味がわかるのです。

〈あなたを嫌います、消えてください〉
言葉は、文字として目に見えたようであるし、声として耳に聞こえたようでもあり、自分自身の思考として頭に浮かんだようでもありました。
〈あなたを拒みます、消えてください〉

凄まじい被害妄想が、意志に反してテスの心に起こりました。

この世界で出会った全ての人が自分を憎んでいると思えてきました。

これまでに浴びせられた全ての視線が冷たい視線で、全ての言葉が嫌悪を孕んでいたように思えました。

何気ない一言にも、侮蔑の意味が隠されていたのではないか。

みんな、自分を嫌い、蔑み、嘲笑っているのではないか……。

違う……。違う。

こんなのは嫌だ……。

このまま圧し潰してやる!
言葉つかいの声に呼応して、降り注ぐ巨人のうめき声が大きくなっていきます。
〈私の前にとどまる限り、あなたには私を認め尊敬し愛する義務があります。私を愛しなさい〉
足許(あしもと)がぐらつきます。
〈あなたが義務を拒むなら、死によって罰します〉
愛は義務じゃない……
罰なんて必要ない!

天を指し続ける右手がひどく震えます。

指先で岩を支えているみたいです。

でも、そうすることをやめたら、太陽が消えてしまうとテスは思いました。

海も船も消え、自分は闇に消えると。

そして、海や船に代わって巨人が自分にとっての実在となり、それに殺されると。

〈崇めなさい、恥辱を与えます〉

さてはお前、甘やかされて育ったガキだな?

上に立つ奴は、下の人間に罰を与えるもんだ。でなきゃ、つけあがるだろうが。お前みたいにな。

俺とお前は違うんだ、甘ちゃんめ!

つけあがってなど――
より一層強く押さえつけるように、言葉が降り注ぎます。
〈思考を止めなさい、支配を与えます〉

海が消えそうです。

船が消えそうです。

一瞬の油断で、この男の言葉の世界に自我は飲みこまれ、二度と戻れないでしょう。

どうしてお前は言葉つかいに刃向かった? 言葉の力に、俺にさえ従っていれば、神の力を手に入れられたのに!
神?
偶然放たれたその言葉に、テスは意識を集中します。
   ――神……。
……いいや。

俺とお前は違わない。

言語生命体はみんな同じだ。

みんな、この化け物みたいな被害妄想まみれの地球人(おや)のもとに生まれた子供なんだ。

テスは声に出さず、唇の動きだけで囁きます。

「神」

雲の向こうで鈍く光る円盤、太陽が輝きを増します。
だから、より切実に、まことの創造主(かみ)を求めなければならない。地球人より切実に……。

テスは大きな目をしっかり見開きました。

雲が割れ、茶色の瞳が一瞬、青空を映しました。

次の瞬間、巨人の真っ黒い拳が視界を塞ぎました。

テスは右腕をおろし、代わりに左手の半月刀を頭上にかざします。

巨人を見るのをやめ、真正面の男を見据えました。

奴を殺せ!!!

半月刀の刀身が、巨人の拳を受け止めました。

その半月刀に触れた端から、巨人はテスの言葉に書き換えられました。

巨人の腕が鳥の群れに変わり、羽音を立てて飛び立っていきます。

テスは無数の羽根を浴びながら、まっすぐ男の視線を受け止め、見返しました。

殺す必要なんてない。
鳥たちの翼に、テスは風の力を乗せます。

雲が(まる)く開いきます。

青空がのぞきます。

青空へ、鳥たちが、殺到していきます――

――その青空を、巨人たちが身を乗り出して隠しました。

鳥たちを、鷲掴みにし、口に押し込んで食っていきます。

やめろ、
ばちん、と音を立て、テスの中の衝動が弾けました。
やめろ! 鳥たちを殺すな!

鳥たちは逃げ場を求めて中空で輪を描いています。巨人たちから逃れようとして……。

こっちに来い!
テスは鳥たちに向けて両腕を広げました。
みんな俺が守る! 一緒に行こう!! 一緒に生きよう!!!

悲鳴のように鳴きながら、鳥たちが剣のように鋭く、一直線にテスへと向かって飛んできます。

テスはそれを体で受け止めました。

かつて、死の沼の鳥たちを瞳に吸いこんだように、体の中に招じ入れます。

共に生きる意志を持つ鳥を。

この世界の鳥を、今この場にいる限り、最後の一羽まで。

言葉つかいが甲板を蹴り、殴りかかってくるのが見えました。

テスは瞬時に判断しました。

殴ることで直接ショックを与え、隙を作らせるつもりだろうと。

腰の後ろに右手をやり――。

銃を抜きました。

――――――――――!!!

銃声がして、男が腹を押さえました。

男が目の前で、左右に揺らめいています。

何か言いたげな目でテスを見ながら口を開きます。

ですが、一言も喋らずに、腹を押さえて横ざまに倒れました。

自分の存在を支える言葉を求めて、巨人たちが腰を屈めて甲板の男に殺到します。
……ぐしゃ、と音がしました。

同時に巨人たちが消えました。

男の姿も消えました。

鳥たちも。

青空も。

不変の黄昏が、テスの頭上を憂鬱に支配していました。

船は変わらず航海を続けていました。

甲板での出来事を何も知らずに、何も起きなかったかのように。

テスは目眩をこらえます。

最初から、一人でここに立っていただけで、一部始終は夢だった。

そうであってほしい願いました。
ですが、観測甲板から降りてきたキシャが、冷酷に現実を告げました。

殺したな。

テスは振り向きもせずに、男が倒れたはずの地点に目を注ぎ続けます。

血の一滴さえ残っていません。

キシャを見ず、首を横に振りました。

あの人は死にたかったんだ。俺に殺されるようにした。
くだらない自己弁護だ。

いいや……そうなんだ。

うまく言えないけど、あの言葉つかいの世界、被害妄想の言葉の世界を見てわかった……彼は死にたがってた。

辛かったんだ。

自分の言葉に潰された。

自分でも知らないうちに、自分で自分が死ぬようにしたんだ。

それにしてはおまえ、撃つのになんの躊躇もなかったな。

かなり殺し慣れているだろう。

記憶をなくす前、人を殺して生きていたんだ。

恥ずかしさと居たたまれなさで、テスの頬が染まります。
言葉つかいの世界を覗くのは、楽しくはなかっただろう?
ああ。
言葉つかいは言葉喰い、著しく変質させる者……。

だから、言葉つかいこそが言喰いだと主張する者たちが、行く先の大陸に少なからずいる。

気をつけろ。旅は長い

キシャが離れていきます。

その足音が、人が倒れる音に変わりました。

慌てて振り向くと、キシャに憑依されていた、心を病んだ赤毛の女が甲板に倒れていました。

『亡国記』は消え失せており、女の顔には生気がありません。

テスは女の姿勢を回復体位に整えてやりました。

誰かが彼女を見つけてくれることでしょう。

水平線の向こうに、陸が見え始めていました。
―つづく―
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