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文字数 4,059文字
第一甲板からテスを見上げる男は、テスの半月刀を見て顔色を変えました。
観測甲板から男を見下ろすテスも、また驚きを覚えました。
自ら勝負を吹っかけておきながら、その男は武器を何も持っていなかったのです。
視界の限りの空が、水平線の彼方から、黒く変じていきます。
黒さが黄昏を駆逐して、空を塗りつぶしました。
そして、光が差しました。
温かい光ではありません。
優しい光ではありません。
悪意であれ、憎悪であれ、在るものの在るがままを明からしめるだけの光です。
光の出所を探そうとしたテスの足許で、観測甲板が消失しました。
テスは大気を蹴り、空中でくるりと体を丸めて回転。
バランスを取り、爪先から第一甲板に着地。
その時、光は雲の中の二つの光点から放たれていることがわかりました。
光を反射する雲が、目の持ち主である黒い巨人の姿を、包みこみ照らしています。
その巨人は船のかたわらにいるのですが、海は消えていました。
あるのは虚無。
やみわだの
この男は何か誤解をしているようです。
殺したいほどの憎悪というのは、単に生意気な年少者、気に食わないだけの相手に対する感情ではないはず。
男はテスを憎んでいるけれど、それはお門違いの憎悪です。
ですが、誤解を解く間もなく、第一甲板が足許から崩壊し始めました。
テスは目を閉じ、足の裏に甲板の存在があると信じます。
キシャによる沼と大地の消失が行われた際、櫂に当たる水の感触を信じたように。
そして、それをもとにテスの主観による世界を復元したように。
靴越しの甲板の感触を頼りに、船と海の復元を試みました。
太陽を求めて、テスは右手の半月刀をしまい、空を指しました。どうか目を開けたときに、その指の真上に太陽があれと願いました。
目を開けます。
顎を上げ、空を見上げます。
雲は厚いけれど、その奥に、輝くほの白い円盤が見えました。
太陽。
黒くない。
堕ちていない太陽。
テスは船があることを望みます。
誰もこの言葉つかいの世界に巻きこまれず、恐怖を感じずにいられることを望みます。
海があることを望みます。
雲間から、光が太い剣のようにおりて海を刺しました。
海はその切っ先を砕き、紺碧のヴェールに散らしました。
海は一本のリボンのように横たわり、その中心を、線路を往く列車のごとく船が進んでいきます。
海を囲む深淵の底から、二体の巨人が浮かび上がってきました。
船と海を左右から挟みこみ、みるみる高さを増して、頭が雲に入りました。それはなお浮き上がって高さを増し、足場の高さをテスたちが立つ第一甲板と同じくしました。
巨人たちの足の指は、テスの身長以上の厚みがありました。
苛立ちと害意をこめた巨人のうめき声が、雪崩のように降り注ぎます。
声の重みを実際に感じ、テスはその場でよろめきました。
巨人は、男の言葉でできています。
そのうめきが人の言語ではなくても、意味がわかるのです。
凄まじい被害妄想が、意志に反してテスの心に起こりました。
この世界で出会った全ての人が自分を憎んでいると思えてきました。
これまでに浴びせられた全ての視線が冷たい視線で、全ての言葉が嫌悪を孕んでいたように思えました。
何気ない一言にも、侮蔑の意味が隠されていたのではないか。
みんな、自分を嫌い、蔑み、嘲笑っているのではないか……。
天を指し続ける右手がひどく震えます。
指先で岩を支えているみたいです。
でも、そうすることをやめたら、太陽が消えてしまうとテスは思いました。
海も船も消え、自分は闇に消えると。
そして、海や船に代わって巨人が自分にとっての実在となり、それに殺されると。
海が消えそうです。
船が消えそうです。
一瞬の油断で、この男の言葉の世界に自我は飲みこまれ、二度と戻れないでしょう。
テスは声に出さず、唇の動きだけで囁きます。
「神」
テスは大きな目をしっかり見開きました。
雲が割れ、茶色の瞳が一瞬、青空を映しました。
次の瞬間、巨人の真っ黒い拳が視界を塞ぎました。
テスは右腕をおろし、代わりに左手の半月刀を頭上にかざします。
巨人を見るのをやめ、真正面の男を見据えました。
半月刀の刀身が、巨人の拳を受け止めました。
その半月刀に触れた端から、巨人はテスの言葉に書き換えられました。
巨人の腕が鳥の群れに変わり、羽音を立てて飛び立っていきます。
テスは無数の羽根を浴びながら、まっすぐ男の視線を受け止め、見返しました。
雲が
青空がのぞきます。
青空へ、鳥たちが、殺到していきます――
――その青空を、巨人たちが身を乗り出して隠しました。
鳥たちを、鷲掴みにし、口に押し込んで食っていきます。
鳥たちは逃げ場を求めて中空で輪を描いています。巨人たちから逃れようとして……。
悲鳴のように鳴きながら、鳥たちが剣のように鋭く、一直線にテスへと向かって飛んできます。
テスはそれを体で受け止めました。
かつて、死の沼の鳥たちを瞳に吸いこんだように、体の中に招じ入れます。
共に生きる意志を持つ鳥を。
この世界の鳥を、今この場にいる限り、最後の一羽まで。
テスは瞬時に判断しました。
殴ることで直接ショックを与え、隙を作らせるつもりだろうと。
腰の後ろに右手をやり――。
銃を抜きました。
銃声がして、男が腹を押さえました。
男が目の前で、左右に揺らめいています。
何か言いたげな目でテスを見ながら口を開きます。
ですが、一言も喋らずに、腹を押さえて横ざまに倒れました。
自分の存在を支える言葉を求めて、巨人たちが腰を屈めて甲板の男に殺到します。
……ぐしゃ、と音がしました。
同時に巨人たちが消えました。
男の姿も消えました。
鳥たちも。
青空も。
不変の黄昏が、テスの頭上を憂鬱に支配していました。
船は変わらず航海を続けていました。
甲板での出来事を何も知らずに、何も起きなかったかのように。
テスは目眩をこらえます。
最初から、一人でここに立っていただけで、一部始終は夢だった。
そうであってほしい願いました。
ですが、観測甲板から降りてきたキシャが、冷酷に現実を告げました。
テスは振り向きもせずに、男が倒れたはずの地点に目を注ぎ続けます。
血の一滴さえ残っていません。
キシャを見ず、首を横に振りました。
いいや……そうなんだ。
うまく言えないけど、あの言葉つかいの世界、被害妄想の言葉の世界を見てわかった……彼は死にたがってた。
辛かったんだ。
自分の言葉に潰された。
自分でも知らないうちに、自分で自分が死ぬようにしたんだ。
キシャが離れていきます。
その足音が、人が倒れる音に変わりました。
慌てて振り向くと、キシャに憑依されていた、心を病んだ赤毛の女が甲板に倒れていました。
『亡国記』は消え失せており、女の顔には生気がありません。
テスは女の姿勢を回復体位に整えてやりました。
誰かが彼女を見つけてくれることでしょう。