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文字数 2,753文字

ようやく赤毛の女の客室にたどり着きました。

テスはベッドに女を寝かせ、靴を脱がせてやりました。

女はうつ伏せになって、ぴくりとも動きません。

布団をかけてやりました。その布団は、テスが泊まる二等客室のものより厚く、ふかふかで、温かいので、テスは羨ましく思いました。

どうしてあんな危険を冒したの。
あたしを置いていけばよかったのに。
そんなことはできない。
どうして。
あの人たちは必ず乱暴なことをするから。

あいつら、あたしじゃなしに、あんたに乱暴なことをするって決めたみたいね。

明日、あいつらは寄ってたかってあんたを痛めつけて、それでも気が済まなければ殺すわ。

あんた、あたしにそれだけの値打ちがあると思う?

今は自分の心配をしたほうがいい。水を持ってくる。
あんたは二等客室の客ね。一等客室では人に持ってこさせればいいのよ。
誰にどうやって頼めばいい?
ねえ、あんた。
名前はなんて言うの?
テス。
テスって本名?

心臓が強く脈打ち、テスは枕に広がる女の赤い髪を凝視しました。

女はテスに背を向けて横向きになっており、窓の外の海を見ています。

(どうしてそんなことを聞くんだ……?)
……ああ、本名だ。
あたしはキシャ。
テスは足音を立てずに女のベッドに近付いていきました。
…………………………。

…………なあ……。

…………『キシャ』って、よくある名前なのか?

すると、女はベッドから飛び起きようとして失敗し、体をベッドの上で跳ねさせると、床に向かって身を乗り出して盛大に吐きました。

あたしは特別なの!

名前だって特別よ!

ありふれてなんかないわ!

屈みこんで背中を撫でてやろうとしたが、キシャは身をよじって嫌がりました。
すまなかった。同じ名前の知り合いがいたから。
そいつはどこにいるのよ!
聞いてどうするんだ?
八つ裂きにしてやるッ!!!
(うわあ)

女はまた吐き、そして元通り、ベッドにぐったりうつ伏せになりました。

枕に顔をつけ、泣き始めました。著しく情緒不安定です。

テスがベッドから離れようとすると、

う……うう……ひっく……ひっく……ううっ……

…………行かないで……。

テスはドレッサーの椅子に腰を下ろしました。

ひっく……

…………あんた……ううっ……よくこんな奴に親切にできるわね…………ひっく……

俺は何もしていない。
したじゃない。こんないろんな意味で重い女を部屋まで運んだりしてさ。
(いろんな意味?)

重くなかった。むしろ身長に対して軽すぎる。

もっと適切な食事を心がけたほうがいい。

……そうよ……あたしは重いのよ……ひっく……どこに行っても重いお荷物なのよ……。
(俺の話を聞いてくれ)
あたし、すごく重い荷物を運んだことがあるわ。
子供の頃、昔……。

その頃、ママはあたしよりもお兄ちゃんといることを好んだわ。

道を歩くとき、手をつないであげるのも、お話をしながらとなりあって歩くのも、あたしよりお兄ちゃんを選んでた。

あたしはいつも二人の後ろを歩いたわ。

その日はママのお手伝いで、軽い買い物の荷物を持ったの。

軽いのを、ママが持たせた。

でもあたし、重たいふりをして、引きずるように歩いたわ。いつも通り、二人の後ろを。

重かったわけじゃないの。

振り向いてほしかったの。

大丈夫? って聞いてほしかったの。

……それから?

ママは振り向いて、ママの買い物袋をあたしに持たせたわ。

そしたら、それは本当に、すごく重かった。

日が照ってて、暑くて、人や車が自転車が周りをたくさん通ってた。

今度こそ引きずるように歩いた。

ママとお兄ちゃんは、どんどん先に行ってしまった。

振り向いてくれたわよ、ママは。

早くしなさい、早く来なさいって言うために。

それから、わざとらしいことをしたらこうなるのよって、すごく冷たい目で言った。

でもね、あたしはただ、一緒に隣を歩きたいだけだったの。

小さかったのよ。

そんなの、お前は全然悪くない。
遅いのよ。

もう遅いわ。あたしは悪いって思い続けた結果がこれよ。

あたしは本当に、悪い、価値のない人間になってしまった。

価値ってなんだ?
…………………………。
キシャは何度も鼻を啜りながら、泣き続けました。

………………。

とにかく水をもらってくる。すぐに戻る。

相変わらずのお人好しだね。
その鋭い声に、テスは立ち上がったまま動きを止めました。
………………。
……本物のキシャだな?

キシャは、泥酔しているとはとても思えない機敏な動作で起きあがり、右手で髪を後ろに払い、ベッドの上に座りました。

左手は、『亡国記』を抱えて胸に押しつけていました。

そうさ。

で、おまえは一体何のつもりだ? 戦う気か?

言葉つかいの力を甘く見ているようだな。ましてあの男はおまえよりずっと熟練だ。

それはそうだろうな。
この女を見捨てていけばよかったんだ。
テスは首を横に振りました。
……まあ、おまえなら、やり直せたとしても繰り返すだろうな。
なあ、キシャ、もし知ってたら教えてほしい。
何だ。
俺がいつも寒さに耐えなければならないのは、言葉つかいの力を得た代償だろうか。

明日に役立つことを聞くかと思いきや、そんなことか。

知らないな。そうなんじゃないのか?

で、何でそんなことを気にする。

さっきの男が何を失ったか気になった。
他人のことは放っておけばいい。

テスはベッドから離れ、窓辺に向かいました。

白く泡立つ波と黒い海を、天が弧を描いて包んでいます。

空はどこにいても、いつまでも黄昏です。

太陽はありません。

キシャの言うとおりです。()み飽きた世界は滅ぶのです。

寒いのは辛い。

でも、あの男はもっと大きな代償を払ったんだ。人として大事な何かを。

それを思えば、俺はこの程度で済んだ。

もともとああいう人間性かもしれないぞ?
……そうかも、しれないな。

いずれにしろ、テスはこれからも記憶を失い続けるのです。

半月刀の柄頭、そこに彫られた名を思い返します。

『アラク』

この名は自分の出自に関する手がかりです。

この人のことを、できれば思い出したいとテスは思いました。

何よりその名がもたらす温かい気持ちを失いたくないのです。

その名について思い出せず、また、その名がいかなる感情ももたらさなくなった時、自分はそのことで嫌な気分にはならないだろうと予測できました。

何とも思わないはずだと。

それが嫌でした。

キシャ。記憶を失って――

本性(ほんせい)を知ることで、人はどうなる?

神に近付く。

じゃあ、どうして全ての人が神に近付かないんだ? 人は神から遠ざかりもする。

そうさせる力は何だ?

テスは海と黄昏の彼方に遠い目を向けて、返事を待ちました。

答えはなかなか返ってきません。

そっと肩越しに振り向くと、赤毛の女はキシャであることをやめ、あの書物も失われ、蒼白な顔でベッドに横たわっていました。歩み寄り、呼吸を確かめました。
大丈夫。ちゃんと生きていました。
―つづく―
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