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文字数 4,089文字
ぼんやりしていたテスの目が焦点を結びます。
そして二人の目の前に、幅広の、果てが見えないほど長い大廊下が広がりました。
キシャの言葉の通り、廊下の中央には、赤い絨毯が敷かれています。
左右の側廊の窓から、廊下いっぱいに黄色い光が差しています。
その光を浴びながら、一体の
それはまだ、辛うじて人の形を保っていました。
ひどく不格好な巨人です。
巨人の頭部、目があるべき場所には、二つの白い光が点っていました。
テスの背丈の十倍ほどの高さから、その目で二人を見下ろしています。
光は白から赤に、赤から黄に、音もなく、七色に変化していきます。
巨人は自らの重みに耐えかねるように、猫背になっていました。
腕は異様に細く長く、指先が床につきそうです。
それほど体のバランスが悪いのに、支障なく二足歩行できそうに見えました。
そして、その体の色は――。
テスの声からぼんやりした調子が
二本の腕を、灰白色のマントの内側、腰の両側にやり、素早く
再びマントから現れたテスの両手には、鍔のない二本の小ぶりの半月刀が握られていました。
キシャの声を聞きながら、テスは右足を後ろに引きました。
化生に左半身を見せ、左手の半月刀の刃を右肩の上に、右手の半月刀の刃を左の脇腹におく構を取ります。
黒い巨人が左右に揺らめき、不器用に歩き始めました。
その厚い足が床に下ろされるたび、震動がテスの体に伝わります。
距離が縮まってきます。
圧倒されるほどの巨体です。
真っ黒い化生が腰を
テスの頭の高さで半円を描き、振り回し始めました。
テスが絨毯を蹴りました。
風が体を包みます。
質量が消えたように、テスの体が軽々と空中に舞い上がりました。
浮かび上がった足の下で、化生の黒い腕が空を切りました。腕が円柱の一つに当たり、それをへし折りました。
轟音、そして粉塵と石片が舞い散ります。
テスの右足が何もない空中を蹴ると、大気が白く濁り、固体化して足場となりました。
浮き上がった石片を回避し、左側へ大きく飛んで、今度は左足で、壊れていない柱を蹴りました。
体が更に高く浮き上がり――。
粉塵の中のテスの姿を、キシャは目を細め、手ですかして見ていました。
テスの暗緑色の髪は、窓を染める光を浴びて、青に、紫に、黒に、輝きを変えます。
灰白色のマントがばさり、ばさりと翼のようにはためき、その合間に褐色のストールと、衣服の青い袖が見えます。
黄色く光を跳ね返す刃は、絶えず獲物を漁る
自在に宙を舞うテスの本性が、キシャに見えました。
書物を抱き、口にします。
テスは既に、巨人の形をとる化生の頭と同じ高さにいました。
巨人の黒い頭がゆっくり動き、テスの動きを追っています。
七色に変化する二つの光、目の位置にあるその光を、テスは正面から覗きこみました。
無数の色彩が、光の中で揺れていました。
森の色がありました。
湖の色がありました。
街の色がありました。
この夕闇が支配するアースフィアとは異なる時空のアースフィアが見えました。
果てない昼が支配する、太陽の王国が見えました。
果てない夜が支配する、夜の王国が見えました。
飢えた人が見えました。
渇く人が見えました。
怯える人が見えました。
兵士たちに追い回されて、殺される人が見えました。
化生と呼ばれる化け物たちに、食われていく人が見えました……
大気が足場に、テスは強く空中を蹴りました。
巨人の眼前で両腕を広げ、腰を捻り、右手の半月刀を左の二の腕の外側にかざして体に回転を加え――
巨人の顔に振るいました。
肉を切り裂く手応えが右手に伝わってきました。
回転の勢いで、今度は左手の半月刀で同じ場所を斬りつけます。
テスの目に色彩が焼き付けられていきます。
水色の空。
整然と並ぶ街路樹。
高い建物。
町を貫くトラムの路線。
そして、それよりもずっと文明の退化した、
どこかの神殿。
重装備の神官兵が、メイスを手に駆けてきます。鬨の声をあげ、振りかぶり――。
散る色彩のモザイクが化生の右手に集まって、巨大な体にぴったりあう、巨大なメイスに姿を変えました。
金属製の鎚矛を持つ、本物です。
浮力が消え、テスの体が自由落下を始めました。
振り回されたメイスがテスの体の下で空振りし、二本の列柱を薙ぎ倒し、三本目の列柱に当たって止まりました。
空中で体を回転させ、ばさり、とマントの音をさせながら、テスは止まったメイスの持ち手に片膝をついて着地。そして再び蹴って飛び上がります。
巨人の二の腕を蹴り、続けて大気を蹴り、肩に飛び移り、巨人の背後に飛び上がり、次に破壊されていない柱を蹴り、黒い巨人の頭より、高く高く舞い上がります。
空中で体を寝かせ、腰を捩り、体の前面を下向きに変え。
腕を上げ、頭の上で両手首を交差させ。
再びの自由落下。
解き放つように両腕を勢いよく振り下ろし、テスは巨人の額に交差する傷を刻みました。
巨人の頬を蹴り、その肩に着地。
巨人がメイスを落とし、大理石を砕きます。
離れた位置にいるキシャには、怪我はないようです。
テスの二本の半月刀が閃くたびに、赤と黄と、青と緑と、紫と橙と、白と黒と、あらゆる色のグラデーションが化生の傷から噴き出します。
血のように。
身悶えている巨人の、足の甲を目掛け跳び、足首を半円に斬りつけて。
暴れ狂う巨人の足を避け、腕を避け、舞い上がり、背中を、首を、頭を、切り刻んでいきます。
色のモザイクが降ります。
その一つ一つが、食われた人間の記憶を宿しています。
腕に抱く赤子の記憶。
青空の下、どこまでも広がる芝生で風船を売る老人と群がる子供たち。
蝋燭の灯に照らされて祈る老修道女。
突進しながら、両手を組み、頭上高くに上げ、背中を仰け反らし――
テスへと振り下ろしました。
素早く真横に飛びのくテスを、キシャは表情を変えずに見守ります。
床を覆う石が
テスは壁と柱を三角に蹴り答えました。
そして、唇だけを動かして、声にならぬ言葉を発します。
――大気よ。
――散らせ。
風は、巨人の体内へと、傷口から入りこんでいきました。
送りこんだ風が、巨人の体内で、激しく渦を巻いきました。
喰らい溜めこんだ色彩を巻き上げ、傷口から体外へと散らし、色彩の器たる巨体を切り裂いていきます。
巨人の体が二つに裂けました。
テスはステップを踏むように素早く後ろに跳びのく間にも、キシャの鋭い声が続きます。
テスは大廊下を駆けて助走をつけ、高く飛び上がります。
高く、高く――
天井に届くまで。
更に大気を蹴ります。
頭と足が上下逆になります。
腰の後ろに右手を回した。黒光りする物を取り出し、両手に握りしめます。
銃です。
それを、裂けて倒れた巨人めがけて乱射します。
巨人がついぞ砕けて色のモザイクに還元されました。
全ての色が、窓の向こう、終わららない黄昏に、吸いこまれるように飛んでいきます。