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文字数 2,205文字

壁にもたれかかっていたはずが、気付けば敷布(しきふ)に横たわっていました。

眠っても眠っても眠く、もっとずっと寝ていたいとテスは思いました。

異様な眠さとだるさですが、起きて歩き、飲むものと、食べるものを探さなければなりません。

テスは寒さに震えながら、敷布に手をついて起き上がりました。

座り込んで指で髪を整え、縛ります。

(キシャ……キシャと話した気がする。夢だったのか? ……本当だったのか……?)

テスはアルネカが消えた街の、中枢と呼ばれる場所にいました。

たとえ廃墟と化していても、祈りの場にいると安心できました。

何もない部屋を出て、窓から差し込む朱色の光で染まった廊下を歩きます。

隣の部屋は広く、足踏みミシンがいくつも並んでいました。

その部屋の先の階段を上ると、白塗りの鉄扉(てっぴ)に行き当たり、開けると屋上に出ました。

屋上は洗い場で、かつてこの建物で働いていた女たち、テスの服を洗ってくれた女たちが生き残っているような錯覚に陥りましたが、気配を探っても、見つけられるわけがありません。

屋上に(もう)けられた歩廊を渡り、警備のための小塔まで行きました。

錆び付いた梯子(はしご)を上り、警鐘の下に立ちます。
そこからは街を一望できました。

左手には一対の円錐の屋根を持つ主郭(しゅかく)(そび)え、右手には、丘の向こうに灌漑(かんがい)された村があります。

更に丘を挟んだ向こうには、海が広々と展開されています。

真後ろには――

化生(けしょう)!)

地平線と空の間を黒く塗る、化生の大群でした。

これほどの大群は見たことがありません。

右を向いても左を向いても、その端は見えません。

鳥か虫のような、飛ぶものの形をしています。

それがこちらにやって来ます。

それだけではありません。

四台のジープが来ます。

一列に連なって、中枢の外、水道橋に沿って延びる道路を走っています。

(化生……と、人間)

化生よりも人間を、テスは恐れました。

テスは人間が好きでした。

人と一緒にいたかったのです。

仲間に入れてもらえなくても、そばにいさせてもらえればよかったのです。

人に笑っていてほしかった。

楽しく生きていてほしかった。

今は違います。

人はテスを殺す。

テスも人を殺す。

敵同士になってしまったのです。

(追っ手だろうか?)
(違うかもしれない……丘の向こうの村の人たちかもしれない……なら、化生の危機を告げないと)

テスは大気をまとって塔から飛び降りました。

着地の寸前で静止し、爪先をゆっくり地につけます。

中枢を横切り水道橋へ向かいました。

中枢を囲む城壁から民家の屋根に飛び降り、その後は、屋根の上を通って移動し、水道橋に飛び乗ります。

アーチ型の橋を上下左右に積み重ねた形の水道橋は、長い間風に洗われ、砂一粒落ちていません。

ただ時折雲間から差す光によって落ちる自分の長い影に気をつけながら、テスは走りました。

果たしてテスの体もテスの影も見咎(みとが)められることなく、ジープに乗ってきた一団を見つけました。三人ずつに分かれて散っていきます。

テスは気配をたどり、水道橋から飛び降りました。

音もなく屋根の上に降り立つと、声が聞こえてきました。
しゃがんで気配を消し、屋根の上を移動します。
ついにはっきり聞こえるようになりました。

堕落ってどういうことだ?
テスは屋根に伏せました。屋根の縁までたどり着き、そっと顔を覗かせます。
二人の男がいました。
一人はジュンハでした。機関車の中で会ったサイアの父親です。彼もテスの顔を覚えているはずです。
もう一人の男も、機関車で会った男です。若く、体つきががっしりした、赤毛の男です。
だからさ、言葉が神ならば、俺たちは神の力を、あんたはその銃で、神を模した力を使っているわけだ。
連れの女はいないようです。

でも実際に起きていることときたらどうだ?

その力を誰もが自分のために使ってる。俺も、あんたも、あの緑髪も。

その結果いがみあって、殺しあって、そうだろ?

誰にも正しいことはできない。

この力で何かを悟ることもない。

むしろ力によって道を踏み外してる。

…………。

この街でかつて起きたことだってそうだ。

こんな小さな共同体の中でさえ、いがみあって、殺しあって、滅んでしまった。

ミスリル……お前の言いたいことはわかる。

何度も言われたさ、犠牲が必要だったって。俺のしようとしていることに意味はないって。

(サイア)が犠牲にならなければ……そうしなければ……列車に乗っていた全員が死んでたってな。

…………。
………………。

あの緑髪が正しいとまで言われたんだ。俺の娘を殺したことが正しいって!

乗客たちはあの男に感謝さえしていたんだ!!

サイアを……

サイアを…………

殺したことが……正しいって……善いことだったって…………。

ミスリル……お前もそう思うのか……?
俺にはわからない。
このままサイアを忘れることが善いことなのか?

俺が仇を討とうとしないなら、誰がサイアの尊厳を守るんだ?

それとも、俺が一人で泣き寝入りするのがそんなに正しいことなのか?

善いことが何故できる?

いがみあって殺しあうことをどうして止められる?

何の罪もない一人娘を殺されて、どうしてその相手を殺さずにいられるんだ?

そこまで聞くと、テスは屋根の上を更に後ずさって、二人から遠ざかりました。
化生から、追っ手から、逃れなければなりません。
あとは運命が、彼らと自分をどうにかするでしょう。
―つづく―
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