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文字数 4,052文字
沼から離れるにつれ、霧が薄れていきます。
道が分岐しました。
道しるべによれば、坂を右へ下る太い道は、遠くの港町に通じており、正面にまっすぐ続く細い道は、三十分も歩くと小さな村に出るようです。
テスは正面の道を選びました。
葦原を抜けると、キシャが言う
伏せた浅いボウルを浮かべたように、大きな黒い影が一つの村全体に覆い被さっていました。
その影は形が定まっていません。
つまり、どのような形を取って、どのような攻撃を仕掛けてくるかわかりません。
聖堂で戦った化生とは比較にならないほどの大きさです。
それでも化生は、今は自らが覆い被さる村に目を凝らしている様子で、テスとキシャには気付いていませんでした。
確かに、キシャの言う杭がテスの目にも見えましたが、いくつかは折れて倒れており、何本もまとめて倒されてしまっている箇所もあります。
その箇所が『破れ』です。
近付くほどに、化生の姿が次第にはっきり見えてきます。
通常、
ですが、村に覆い被さって浮かぶそれは、どの生物でもなく、同時にどのような生き物でもありました。
その黒さに目を凝らせば、馬のたてがみや鯨の髭、人髪のようなものが見え、更にあらゆる動物の目が、村に視線を注いでいることまでがわかります。
離れていても見えるわけは、目だけは光を放っており、そして巨大だからです。
十を越す彩喰いの目が、一斉にテスへと動きました。
折しもテスは、後ろにキシャを連れて、結界の破れた区間に入りこんだところでした。
テスはマントの内側に手を入れ、腰の後ろから銃を抜きました。
走りながら両手で銃を構え、撃ちます。
弾の当たった箇所が
そのすべてが別個の意志を持ち、テスへと飛んできます。
銃をしまい、今度は二つの半月刀を抜きました。
半月刀を夢中で振るい、テスは次の結界の中に駆け込みました。
続けてキシャが、化生の群れの中を平然と歩いて結界に入ってきます。
分裂した化生たちはテスを見失い、あたりを飛び回りますが、結界で囲まれた道の中には入りこめないようです。
羽ばたくすべての化生が、二人の頭上で再び黒い布のような形を取りました。
手を伸ばせば届きそうなその高さが、結界の高さの上限だとわかりました。
次の結界までの距離は遠く、百歩はありそうです。
その結界の入り口までを隔てる道に、黒く、化生の体の一部が滴り落ちてきました。
本体からちぎれ落ちたそれは、人間の形になりながら立ち上がります。
十体。
二十体。
柄頭に連結器がついているのです。
二本の半月刀は、一振りの小型のブーメランになりました。
祈りの句を唱えて武器に風をまとわせ、結界の内側から投げ放ちました。
十体近くの化生の胴を分断し、ブーメランはテスの
ちぎれた化生は舗道を這い、道の真ん中で融合し、一つになろうとしていました。
上からは、変わらず化生の体の一部が降り、人型になり続けています。
人間の形をしている化生を、テスのブーメランが更に切り刻み――。
戻ってきたブーメランが、木の杭に当たりました。
木っ端が散り、杭が傾きました。
地面に深く刺さっていなかったのです。
テスがブーメランを取ると、杭はゆっくり倒れ……。
結界が壊れました。
真っ黒い肉塊が降る道を、テスは次の結界へと急ぎました。
化生を相手にするつもりはありませんでしたが、五、六体の人型の化生が、行く手に立ちはだかりました。
壁をなし、迫ってきます。
その壁の奥にも、数え切れない化生が蠢いています。
背丈はみなテスと同じくらいでした。
俺を模倣したんだ、
と、テスは冷静に思いました。
化生たちの頭上より、高く飛び上がります。
空から絨毯ほどもある掌が下りてきて、テスを鷲掴みにしようとしました。
大気を蹴って前方にかわし、くるりと体を丸めて回転させ、バランスを取るテスの後ろで、テスを取り逃がした掌が拳の形になりました。
化生の群れの中に、円く空いた空間を見つけ、テスはそこに着地しました。人型の化生の数は、視界に入るだけでも既に五十体を越えています。それが一斉にテスに殺到し、円が狭まってきます。
少し荒い手つきで、再び半月刀の柄頭をぶつけ合わせました。
左足を軸に、左方向へ体を回転させながら、ブーメランを後ろに投げました。
直後に銃を抜き、前に向き直ります。
そして、狙いもつけずに乱射しました。
威力は高いけれど、反動の大きな銃です。撃つのをやめて戻ってきたブーメランを掴んだテスは、少しだけよろめきました。
敵の数は減りません。
化生は自分の体の一部だった仲間が倒れるのを見て逃げもせず、恐怖も抱きません。
テスはただ、目の前の道を開くべく、すぐさま今度は前方にブーメランを投げました。
キシャの声が聞こえた気がしました。
頭上に不穏な気配。
大気の流れをイメージし、それに意識と体を乗せ、斜め前へ飛びました。
空中で銃を撃ちながら、テスは地面に振り下ろされた黒い拳と、めくれて舞い上がる舗道の石、そして正体不明の光を目にしました。
空を覆う化生。
その黒い体から伸びる拳と、こぶしを支える腕。
その腕の向こうに、金色の輝きがありました。
……テスはそれを、聞き間違いか、と思いました。
ですが、様子がおかしいのです。
分かたれて人の形となったすべての化生が動きを止めているのです。
地は静まり返っていました。
静寂の中に、少女の絶叫がヒステリックに響きました。
マントの音を立て、テスは地上に舞い下りました。
銃を収め、ブーメランを拾い上げ、解体し、二本の半月刀で化生を斬り捨てながらキシャを探しました。
化生を斬ると、紙のような感触が手に伝わります。命の重みは感じません。
化生に命はありません。
嫌な感触です。
見つけたキシャは、本を抱えていませんでした。
空中の光を見上げる横顔から、先刻までの冷たい知性が消えていました。
今のキシャは、極限まで目を見開き、口を開け、恐怖のあまり呆然とした、ただの少女でした。
テスは走りながら、少女と自分の間に立ちはだかる最後の一体の化生を斬りました。障害物が消え、テスは右手の半月刀を右に振った姿勢のまま、大きな目でキシャを凝視しました。
テスは目を、少女から、空中の光へ移し――
光こそが、少女の抱えていた本だと理解しました。
眩しくて見極められなくても、直観でそうわかります。
一際強い光に目を射られ、テスは目を閉じて俯きました。
顔の前に腕をかざし、目をきつく閉ざしても、光は目に届きました。
キシャが失明するのではないか、テスには心配です。
光は十秒とせず消えました。
薄目を開けると、少女の体がゆっくり前後によろめいているのが見えました。すかさず右腕を伸ばし、少女を胸に抱えこみました。
少女は意識を失っており、化生は消えていました。
腕も、拳も、人の形をしたものもなく、空を覆う化生は消えていないものの、凍りついています。
テスは武器を鞘に納め、両腕で少女を横抱きにしました。
結界の中に駆けこむと、思い出したように、空の化生が蠢き始めました。
それでも、助けられたことは確かです。テスは少女を背負い、村へと歩き始めました。
そこにまだ人間の形をした人間がいて、助けてくれることに賭けるしかありません。
やはり、出会ったときのキシャではありません。
あの書物、『亡国記』は消えてしまったのです。
テスの肩を強く押して、少女はテスの背から飛び降りました。
もしテスが、彼女の膝の後ろに通した腕を放すのが遅れたら、彼女は上半身を舗道に叩きつけていたところです。