第31話 世間は思っているよりも狭いものだな
文字数 2,163文字
すれ違った真希から「どうですか? 稽古」という誘われたのだが、それもまた断る。
「忙しいですか?」
小首を傾げるようにして下から見上げてくる真希に、佐賀は「ええ、そうなんです」と返す。本当はただ、それに参加するのが嫌なだけだ。
「よかったら相談に乗りますけど」
思わず佐賀は鼻で吹いてしまった。
「冗談はよしてください」
真希は一応、佐賀謙という浮世絵師が何者なのか、いまの芸術界における認知度や実力など、雲仙からは知らされているはずだ。それを踏まえて真希からそのセリフが出てきたのなら、なかなか冗談のセンスがある、それか思慮が浅いかのどちらかだ。
「でもマーシャル・アーツと言うじゃないですか、武術のことを。かの宮本武蔵も晩年は画家として、重要文化財に指定される絵を描いています」
「二天一流の」
佐賀が言うと、「独行道の」と真希が続ける。
「武術を志す者が芸術に行きつく。よくある話です。つまり、武術家は芸術家の卵と言えます」
「芸術家の卵」
確かに、武術には芸術的な神秘が備わっている。武術をやっていて知らず知らずのうちに芸術性が培われている。それは佐賀自身にも言えているかもしれない。なんだ思慮深いな、と佐賀は思う。
「それで芸術家の卵が、本物の芸術家の相談に乗って下さるということですか」
冗談として伝わるように佐賀が真希にそう伝えると、しかし真希は、「え? ああ、そうですね、失礼じゃなければ」と手を後ろに組んで言う。
なんだ?
佐賀は一瞬だけした会話の流れのぎこちなさに、心の中で首を傾げた。
「ああ、稽古があるんでしょう」
佐賀が思い出したように聞くと、
「今日は休みですよ。土曜日ですし」
何食わぬ顔で返して来る真希に、「ん、じゃあさっきの誘いは、稽古の」と返す佐賀。
「ハーワーユーって聞くじゃないですか」
何のことだ、と佐賀は思う。真希の英語はいわゆるカタカナ英語だ。
「アイムファインって返しますね」
「はい。そんなところです」
訳が分からない。なるほど確かに、芸術家の卵かもしれない。
どこに行くかも分からないまま、とりあえず階段を降りていく。長い階段を降りるにつれ、見える景色がどんどん低くなっていく。
「彦山先生」
真希の口から、意外な人物の名が出てくる。
「え?」
「佐賀さんのお師匠様ですね。会ったことはあるんです、あまり覚えていませんが」
「会ったって、どこで?」
「どこでって、ここでですよ」
真希は横にいる佐賀を見ながら、下を指さして言った。「正確にはこの階段じゃなくて頂上の家ですけど」
「先生が、何でここに」
佐賀には驚きだった。真希が変な嘘を言う必要はない。だからその発言は信憑性が高い。つまりもう雲仙は彦山の先輩として、そして佐賀が思っていたよりも深い関係があると考えるべきだということが、いまここで決まったのだ。
「それはあまり知らないんですけど。でも父と何か、話されていましたね。小学生のころ、私は彦山先生の隣で時々教えてもらいながら宿題をしていたので聞いていなかったんですけど、結構真剣な話だったようです」
佐賀は話を聞きながら、確かに彦山が雲仙を慕う後輩だとするならば、何らかのきっかけでお世話になった先輩のところへ挨拶しに行くのはあり得る話だ。それに、真希がいま話した彦山の人物像も、佐賀の知る実際の彦山の姿としっくりくる。稽古中の彦山は鬼だが、日常の彦山は、子供にはめっぽう優しい人物だ。
「亡くなられたんですよね、何年か前」
「ああ、それもご存じで」
「父も私も葬儀に参加しましたから」
そうか、世間は思っているより狭いものだなと佐賀は思う。
「僕は参加できませ——」
「あっ、ちょっと」
階段の中腹あたりで、真希が誰かにそう声をかけた。声をかけたのは、帽子を深く被って目元の見えない、普通ならそっとしておいた方がいい類の男性だった。
振り返り気味に声をかけた真希に対して、帽子の男はそれがまったく聞こえなかったかのように階段を上っていく。真希もそれ以上は、関わろうとしない。どこかで見たことがあるかもしれないぞ、そう佐賀は思ったが、このような人間は一年に数回ほどの頻度で目にするものだな、とも思う。
「今日の営業は終わりなんですけどね」
なるほど、ここの患者だったかもしれないということか、と佐賀は考える。今日はもう閉まっています、と真希は声を掛けようとしたわけだ。
「入門に来たのかもしれない」
佐賀は言ってみて、それはないか、と顧みる。真希は何も答えなかった。
「それで、葬儀は参加できなかったんですか?」
真希は興味、というよりも心配、という気持ちでさっきの話を続ける。
「はい、知らなかったので。先生が亡くなったと知ったのは、それから何ヶ月かしてからでした」
パノラマだった景色が手の届く立体として目の前にある。つまり階段を降りきった。
「そのお話聞いてもいいですか?」
真希は手を後ろにして、遠慮がちに聞いてくる。桜並木は、いつの間にか満開を迎えている。
「ええ。ちょっと長くなるのでまた今度」
佐賀はリラックスしていた。一年のうち最もそういう季節であるし、彦山に会ったことがある、久しぶりのそういう人物と出会ったのもあるだろう。だから「ウチすぐそこなので」と向こうを指さした真希に、佐賀はついて行ったのだろう。
「忙しいですか?」
小首を傾げるようにして下から見上げてくる真希に、佐賀は「ええ、そうなんです」と返す。本当はただ、それに参加するのが嫌なだけだ。
「よかったら相談に乗りますけど」
思わず佐賀は鼻で吹いてしまった。
「冗談はよしてください」
真希は一応、佐賀謙という浮世絵師が何者なのか、いまの芸術界における認知度や実力など、雲仙からは知らされているはずだ。それを踏まえて真希からそのセリフが出てきたのなら、なかなか冗談のセンスがある、それか思慮が浅いかのどちらかだ。
「でもマーシャル・アーツと言うじゃないですか、武術のことを。かの宮本武蔵も晩年は画家として、重要文化財に指定される絵を描いています」
「二天一流の」
佐賀が言うと、「独行道の」と真希が続ける。
「武術を志す者が芸術に行きつく。よくある話です。つまり、武術家は芸術家の卵と言えます」
「芸術家の卵」
確かに、武術には芸術的な神秘が備わっている。武術をやっていて知らず知らずのうちに芸術性が培われている。それは佐賀自身にも言えているかもしれない。なんだ思慮深いな、と佐賀は思う。
「それで芸術家の卵が、本物の芸術家の相談に乗って下さるということですか」
冗談として伝わるように佐賀が真希にそう伝えると、しかし真希は、「え? ああ、そうですね、失礼じゃなければ」と手を後ろに組んで言う。
なんだ?
佐賀は一瞬だけした会話の流れのぎこちなさに、心の中で首を傾げた。
「ああ、稽古があるんでしょう」
佐賀が思い出したように聞くと、
「今日は休みですよ。土曜日ですし」
何食わぬ顔で返して来る真希に、「ん、じゃあさっきの誘いは、稽古の」と返す佐賀。
「ハーワーユーって聞くじゃないですか」
何のことだ、と佐賀は思う。真希の英語はいわゆるカタカナ英語だ。
「アイムファインって返しますね」
「はい。そんなところです」
訳が分からない。なるほど確かに、芸術家の卵かもしれない。
どこに行くかも分からないまま、とりあえず階段を降りていく。長い階段を降りるにつれ、見える景色がどんどん低くなっていく。
「彦山先生」
真希の口から、意外な人物の名が出てくる。
「え?」
「佐賀さんのお師匠様ですね。会ったことはあるんです、あまり覚えていませんが」
「会ったって、どこで?」
「どこでって、ここでですよ」
真希は横にいる佐賀を見ながら、下を指さして言った。「正確にはこの階段じゃなくて頂上の家ですけど」
「先生が、何でここに」
佐賀には驚きだった。真希が変な嘘を言う必要はない。だからその発言は信憑性が高い。つまりもう雲仙は彦山の先輩として、そして佐賀が思っていたよりも深い関係があると考えるべきだということが、いまここで決まったのだ。
「それはあまり知らないんですけど。でも父と何か、話されていましたね。小学生のころ、私は彦山先生の隣で時々教えてもらいながら宿題をしていたので聞いていなかったんですけど、結構真剣な話だったようです」
佐賀は話を聞きながら、確かに彦山が雲仙を慕う後輩だとするならば、何らかのきっかけでお世話になった先輩のところへ挨拶しに行くのはあり得る話だ。それに、真希がいま話した彦山の人物像も、佐賀の知る実際の彦山の姿としっくりくる。稽古中の彦山は鬼だが、日常の彦山は、子供にはめっぽう優しい人物だ。
「亡くなられたんですよね、何年か前」
「ああ、それもご存じで」
「父も私も葬儀に参加しましたから」
そうか、世間は思っているより狭いものだなと佐賀は思う。
「僕は参加できませ——」
「あっ、ちょっと」
階段の中腹あたりで、真希が誰かにそう声をかけた。声をかけたのは、帽子を深く被って目元の見えない、普通ならそっとしておいた方がいい類の男性だった。
振り返り気味に声をかけた真希に対して、帽子の男はそれがまったく聞こえなかったかのように階段を上っていく。真希もそれ以上は、関わろうとしない。どこかで見たことがあるかもしれないぞ、そう佐賀は思ったが、このような人間は一年に数回ほどの頻度で目にするものだな、とも思う。
「今日の営業は終わりなんですけどね」
なるほど、ここの患者だったかもしれないということか、と佐賀は考える。今日はもう閉まっています、と真希は声を掛けようとしたわけだ。
「入門に来たのかもしれない」
佐賀は言ってみて、それはないか、と顧みる。真希は何も答えなかった。
「それで、葬儀は参加できなかったんですか?」
真希は興味、というよりも心配、という気持ちでさっきの話を続ける。
「はい、知らなかったので。先生が亡くなったと知ったのは、それから何ヶ月かしてからでした」
パノラマだった景色が手の届く立体として目の前にある。つまり階段を降りきった。
「そのお話聞いてもいいですか?」
真希は手を後ろにして、遠慮がちに聞いてくる。桜並木は、いつの間にか満開を迎えている。
「ええ。ちょっと長くなるのでまた今度」
佐賀はリラックスしていた。一年のうち最もそういう季節であるし、彦山に会ったことがある、久しぶりのそういう人物と出会ったのもあるだろう。だから「ウチすぐそこなので」と向こうを指さした真希に、佐賀はついて行ったのだろう。