第18話 恋

文字数 1,521文字

 部屋の電気を点け、携帯電話をポケットから机に置く。六畳一間、雲仙が佐賀のために用意したこのアパートの一室には、冷蔵庫も洗濯機もテレビもない、あるのは、作業用の座卓一つである。

 さて、どう進めて行こうか。

 佐賀以外に動くもののない部屋。時がピタ、と止まる。机上にはこの前、用意した和紙と筆がそのまま置いてあるという状態だ。つまりそこから何も変わっていない。
やはり、まだ描けない。

 軽く三時間が経って、佐賀はそう思い至った。

 あれからこれまで、何度か筆を手に取って描き始めようとしてきた。しかし毎回毎回このようにして、一向に描ける気がしないと思い至るのである。

 もうぐしゃぐしゃに丸めてゴミ袋に捨ててしまった、引っ越してきて早くも二週間のうちに描いたあの二枚の絵。交差点の人ごみの中に麒麟が息を潜めている絵と、森の野生動物が開く宴を、少し離れたところから森の主である孤狼が見ている絵。
 あれらは、佐賀がひとまず描きあげて雲仙に候補として見せていたものだ。なんとなくこの街を俯瞰して、想像で描いてみたという感じ。絵師として版元に仕掛ける営業だ。

 この短期間にこれほどまでの完成度の仕事を、二つも仕上げてくる絵師。

 営業とはつまり、版元に「コイツはできる人間」であると認識させることで、多少の強引さや勝手な行動を、大目に見てもらえるように仕掛けるという佐賀なりの仕事のテクニックである。あの二枚の絵は、佐賀の仕事の速さと技術と完成度を披露するための手段という意味が強い。

 しかしこれから描く絵は。

 佐賀は筆を置く。

 交差点の人ごみの中、麒麟が息を潜めている絵。森の宴を、離れたところから孤狼が見ている絵。それらは佐賀が英雄という存在を知らない状態で、この街の様子を観察して描いたものである。いま振り返れば、麒麟や孤狼というのは、人々の心の中に空いているように見えた部分を埋めるためのピースとして佐賀が用意した存在であるが、それが英雄という具現としてこの街に実在していると知った以上は、よりその文脈に沿って深めていく必要がある。だからあの二枚は弔って、次へ進まねばならないのだ。

 静かに時間が流れていく。

 やはり、まだ描き始めるには、描き始めるなりの知識とか目的とか、そういうあやふやで実体のない、しかし背骨のしっかりとした体系的な概念が、佐賀の中に十分に育まれていない。

 確かにそれはそうだな、と佐賀は俯瞰して思ってみる。宮間千尋に会ったのは先日のあの日だけであるし、ヘロとは割と長く行動したが、それでもその日だけのこと。そもそも佐賀はこの街に越してきてまだ一ヶ月と経っていない。まだ佐賀はこの街の住人になれていない。つまりは、これから描こうとしている絵について、佐賀自身、あまりよく分かっていないのだ。

 自分に分からないものなど絵にすることが出来るか。

 こんな至極簡単な教訓に辿り着く前に、しかし佐賀はこれまで何度も筆を手にとっては、さあ描こう、いざ描こう、と机上の和紙に向かってきたわけである。

 その理由はなぜか。

 早く描きたい! と発奮気味に上がる気持ちで佐賀は筆を取り、まだ描くことはできない、と落胆気味に下がる気持ちで筆を置く。

 そんな繰り返しをしている理由はなぜか。

 佐賀は座った姿勢から後ろに寝そべり、両手を頭の裏に持って来た。天井に仰向けの状態で、照明が明るい。段々と春へ近づいていく季節、桜は徐々に満開へ近づく季節、心地のよい夜だ。

 じーっと、照明を見る。綺麗な真っ白をしている照明。

 何日かまえ、こうやって照明を見上げて目が覚めたんだ。

 そのときのことを思い出しながらそのまま何分か、佐賀は静かに照明を見上げて千尋を思っていた。
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