第67話 英雄死亡説

文字数 2,138文字

 カーテンを開けた部屋。

 明るい静かな部屋。

 夏の朝の微風がゆらゆらとレースを揺らす。

 微風は部屋を舞う。ほとんど何もない部屋を、ゆったりと、自由に。

 そこに佐賀謙が座っている。

 瞑想をしていた。

 正座をして、部屋で、一人で。眠りから覚めたばかり、しかし佐賀の顔は、その目は、瞼の裏からでさえその先にある物の芯を一ミリのズレなく突くという気迫を持っている。そして同時に、今すぐ爆笑でもしてしまいそうな、そんな余裕感もある。佐賀の心はいま、開けている。

 彼の前、机の上には、一枚の和紙。そして愛用の筆。

 これから、絵を仕上げると決めている。その準備が整っている。

 佐賀は目を開けた。瞑想は一分かもしれなかった。一時間かもしれなかった。脳は冴え渡っていた。

 暗闇ではない。明るい部屋。佐賀は筆を手に持った。



 三日三晩、描き続けた。

 ああ、これで終わりか。

 佐賀は出来上がった直後、そんな感想を持った。夜が明けて、朝になっている。今日の夕方にでもこれを雲仙のところに持って行けば、もう佐賀の仕事はほとんど終わり。あとは彫師の溝口、摺師の中川へと作業工程が進む中で、少し指示を加えるくらい。

 あっけなく終わってしまったな。

 恐ろしい集中力の果てに、振り返ってみると、もうちょっと時間をかけて描いた方が良かったか、と燃えカスのような思考で思ってみる。しかし自分にとって千尋がモデルの女性を描くには、圧倒的な集中力をもって短い間に描き切る、それがこの女性に抱いている佐賀の熱情を作品に投影するという意味では、必然のことだった。

——この街を描いてもらいたい。

 版元から受けたこの依頼に対して、現代の浮世絵師、佐賀謙は、

——「あ」と口を開けて、英雄が姿を現した様子を見ている女性。この女性は、その英雄が亡くなったと思っていた。それが急にその日、現れて、驚いた。

その様子を表現した。

——このテーマは、この街に住む多くの人々を不幸にするのではないか。

 以前、佐賀が抱いていた懸念だ。それは、この街が隠していることがあるのを探って暴けば、人々に不幸を寄与するのではないかという懸念だった。しかし、佐賀は見誤っていた。この街の人々は、そんなにやわじゃない。弱さによって怯えながら何かを隠していたのではない。強さによって自制しながら何かを隠していた。それは超然として温かみのある、あまりにも美し過ぎる隠し事だ。

超然とした温かさ。

 佐賀は意識が朦朧とする中で、雲仙観という男のことを想像する。この仕事の依頼主、雲仙。今日の夕方、この絵を持って行く。あの無表情な初老の男に、聞きたいことがいくつかある。佐賀は笑いそうになる。三日三晩、寝ずに作業して満身創痍ではあるのに、その表情は豊かな微笑みを含んでいる。佐賀はそのまま、倒れるように眠った。



「できたのか」

 佐賀が鞄から取り出してきた一枚の和紙。それが完成の絵だと説明しても、雲仙の表情は変わらない。寝て、起きて、佐賀はもうスッキリしている。

「はい」

 三日三晩描き続けた、それはやはりこの佐賀謙という若き芸術家の気迫、凄みを感じずにはいられない。彦山もそんなやつだったな、と雲仙は思い出す。

 雲仙は、叡智が込められた水晶を目に光らせて、それを鑑賞した。

「斬新だ。この街を描いてくれという依頼に対して」

 雲仙は考察する。

「普通なら英雄を描く。しかし君はこの女性を描いた。英雄のいる街の浮世を表現するために」

 この女性、と雲仙の示しているのは、千尋をモデルにした女性だ。必然的に、千尋本人と似てしまっている。佐賀は、素直な人間だ。

「これはある場所で、直感した瞬間をモデルにしています」

 雲仙は頷きながら思考を巡らせる。

「その瞬間、君は女性の方を見ていた。つまりその時点でまだ君は、この女性が誰を見てこのような表情になっているのか、知らないわけだ」

「はい」

「しかしその直感は、英雄というこの街を象徴する存在へと結びついている」

 雲仙は、その絵をまじまじと見つめている。

「見事だ」

 雲仙は一言、そう言った。それは佐賀が自分の師匠、彦山に褒められるときのような、そんな深さ、重み、温度をもって、佐賀の心を包んだ。

「いえ」

 佐賀は謙遜する。佐賀謙、謙虚の『謙』だ。

「一つ、質問です」

 佐賀は、絵を鑑賞している雲仙に問う。雲仙はチラ、と佐賀を見る。

「なぜヘロはあの日、僕のもとに現れたのでしょうか」

 佐賀はあの日のことを思い出す。佐賀の前に現れたヘロ。あの後、この街を案内してくれると言ってヘロはいろいろと話してくれた。あれ以来ヘロを見たのは、千尋と公園を散歩した、あの時だけ。それ以外は、一度も見ていない。

——。

 雲仙は、答えない。しかしそれは、答えるつもりがないというよりは、答えて良いものか、答えるにはどう整理して伝えたほうが良いか、その超然とした表情には、そうやって判断している思考の流れみたいなものが見えた。

「質問で返してすまないが」

 雲仙は言う。

「この作品の題名は」

 雲仙は、佐賀と目を合わせる。強い目だ。そして温かい。そう、この街の多くが、強い目をしている。

「英雄死亡説」

 ですと佐賀は答えた。雲仙はそれを聞くと「そうか」と言って一つ頷き、絵を机に置いた。
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