第19話 朝の空気

文字数 1,755文字

 朝、起きる。
 歯を磨く。髭を剃る。

 こういう静かな朝の営みをするのは何年振りかと、良い気分の中で佐賀は思ってみる。

 佐賀は高校を卒業したのち美術大学に入り、そこから一人暮らしを始めたのだが、生活がとてつもなく下手くそだということがそこで発覚した。実家から持ってきた荷物は永遠に荷ほどきされることなく部屋の隅に積まれていた。一日三食のご飯は、一日一食の大盛りに置き換えられた。夕方に起床し、日が昇る頃に寝付くのが基本的な生活になっていった。それまでが修行中心のストイックな生活だったのに対し、そこから修行が抜けて残った本来の佐賀の生活がそれだった。しかしながら、そんな生活が芸術家にとっては都合の良い部分も多くあり、そのため、それを積極的に改善していこうとした試しはこれまでになかったのもある。

 しかし今日の佐賀は、朝起きる、歯を磨く、髭を剃る、といった朝の営みが、朝という時間帯にきっちりと行われた。行ってみると気分は良いものだな、と佐賀は思った。鏡を見て、髪の毛を整えてみる。服はまあ、これしかないから仕方がない。黒のTシャツに黒のカーディガンに黒の長ズボン。佐賀は一年中、この格好をしている。

 財布や鍵など、必要なものをポケットにしまって、アパートのドアを開けた。

 ああ、空気がいい。

 開いた世界に、まず佐賀はそう思った。実家暮らしでまともな生活をしていたころにタイムリープしたみたいだった。

 チュンチュン、鳥が鳴いている。

 朝のアスファルトには、前日の人々の疲れが羽毛みたく積もっているように佐賀には見えた。もうすぐ街が動き始めると、この羽毛がまた宙を舞い始めて、人々を疲れさせる。俺はそんな羽毛の上に靴を履いてそっと歩いている。そんな想像をしつつ、少し緊張もしながら佐賀は喫茶アズミへと歩いていく。



 入り口扉の取っ手を掴む。力を入れてそれを引っ張るまでの数秒、佐賀は店内の様子を想像した。

 洒落の利いた店内。

 何人かの客。

 カウンターにいる喫茶女房。

 その想像が極めて不確かなものであると思い至ったとき、佐賀は、扉の向こうにある世界というのは、その扉を開けてみないと分からないのだな、と当たり前のことを思った。

 ——手に握力を込めて軽く、グ、と引っ張る。佐賀はこう見えて怪力だ。

 チリンチリン、と鈴の音とともに視界に映る店内、カウンターの中からテレビを見上げていた喫茶女房はこちらを見て「いらっしゃいませー」と言った。客は誰もいない、まるで見知らぬ他人の居間に上がりこんだ気持になる。そう、さっきの想像は、不確かなものだった。

「注文お決まりになりましたら呼んでください」
 おしぼりを持って来て、そう言う喫茶女房。佐賀は軽く会釈を返して、メニュー表を開く。

 この前はトーストセットだったから、あのフレンチトーストはちょっと気になる。単品で頼んでみようか、と佐賀は思ったり、メニュー表をペラペラと、三回ほど目を通す。佐賀が気にしているのは値段と、あとはどんな経験ができるかだ。

「すいません」
 佐賀が振り返り気味に手を挙げて言うと、テレビを見上げていた喫茶女房は「はーい」と言って、伝票をもって佐賀のところへ行く。六十ほどだろうが、可愛らしい方だ。

「お決まりですか?」
「はい、ちょっと気になったんですけども」
 佐賀は言って、まるで自分の所有物であるかのように、喫茶女房にメニュー表の開いたページを見せる。
「このフレンチトースト、このまえ友人が美味しそうに食べていたので注文したいなと思ったのですが」
 友人か、と思考の端で余計なことを考えつつ、佐賀は、セットメニューの書かれたページと、単品もののページを交互に見せる。

「このアズミセットを注文しないとフレンチトーストは食べれないですかね」
 佐賀が聞いているのは、この写真のフレンチトーストはアズミセットだけのもので、単品では注文することができないのですかということだった。

 すると、
「そうですね。すみませんが単品ではやっていなくて」

 喫茶女房は対応の鑑みたいにちょうどよいテンションでそう返す。ああきっと原価や仕込みの兼ね合いなどがあるのだろうな、と思った佐賀は、「いえいえ、ちょっと気になっただけですので。じゃあ、アズミセットでお願いします」と注文をした。
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