第42話 すべては鏡
文字数 3,319文字
「どうかね、調子は」
雲仙はまたやって来た例の男に問う。
「いえ、僕はやはりああいうお店には行きたくないので……。前回と何も変わらず、妻には殴られるの毎日です」
また新たな痣を二の腕に作っている男がそう言うと、雲仙は「いや、それは君の選択だ。それでいい」と淡々と言う。
「すみません。でも……」
「何に謝るんだ。一つ進めば、二つ目に進めばいいだろう」
雲仙は冷静に話す。ただただ、この男とその妻が幸せになるためにはどうすればいいのかを、真剣に考えている。その雲仙の姿勢に、俯いていた男は顔をあげた。
「やっぱり、妻に暴力を止めてもらうには、ここに連れてきたほうがいいのでしょうか。なにか、精神的な治療を受けさせるとか」
雲仙は薄々思っていたが、どうやらこの男は、怒るとか反抗するといった類の感情に欠けているようだ。確かにその妻からすればこの夫と接していると、虐げたり暴行を加えたりしたくなる情動を駆られるような、そんなスイッチのように感じるのかもしれない。
「それができたらそれでいい。いつでもここに連れて来なさい」
男は、ちゃんとした話をしてくれる雲仙に、この前のちゃんとしていない話も、本当は凄くよく考えてのことだったのではないかと思い始める。そして実際、それはそうだった。
「しかし奥さんの話はそのときにすればいい。いまはわざわざ来ているんだ、君の話をしよう」
雲仙が表情一つ変えることなく話すのを、男は説法でも聞くみたいな顔で聞いている。
「鏡だ。君以外のもの、全て」
「鏡、ですか」
雲仙は一つ、ゆっくりと頷く。
「君の奥さんも、君を映す鏡。奥さんの暴力行為は、君の何かを鏡として映している。だから、いいか」
雲仙は少し間を開けて、「大事なのは君がどうするか、だ」と言う。「他の人に暴力を振るったりは?」
「いえ、見たことがありません」
「子供にもしないと言ったね」
「はい」
「君だけが奥さんからそれを引き出してしまっている。それはなぜか、と考えるんだ」
なぜか。この男を見ていると、それは何となく分かる。そのことにこの男自身が気づいているかどうかが重用だ。
「そうですね、僕のこういう感じが、妻に暴力をふるわせていたのかもしれません」
「ああ、だったらそこを改善していけばいい。そしてダメだったら、また来ればいい。三つ目に進めばいい」
雲仙は、なおも淡々とした口でそう言葉を発する。男は、なにか大きなものに包まれているような、そんな温かさを感じて「ありがとうございます」と言った。
「また来なさい。いつでも」
男は暖簾をくぐって一度頭を下げ、出て行った。願うことなら、もう来ないで欲しい。そのまま順調に行けば、ここに来る必要なんてないのだ。
金曜日か。雲仙はカレンダーを見て、そう思う。隣の大部屋では、空手の稽古が行われる日である。自分が稽古をつけていた日々が懐かしい。もう引退して、いまは精神科医と、趣味の骨董美術だけだ、やることと言えば。
「最近やけに気合が入っているな。真希」
営業後の掃除も終わり、他の従業員が帰ったあと、道着姿の真希を見て雲仙は言う。以前よりも雰囲気、オーラが違うように見える。
「私次第ですから。子供たちの心が良い成長をして、それが評価される社会をつくるのは」
後ろできつく髪を結った真希の眼光は鋭い。日常では愛想があって元気で周りから好かれやすい気質だが、道着に黒帯を結ぶと途端に、真希は威力を持つ。
「頑張りすぎないように」
せめて雲仙はそう言う。頑張れ、とは言わない。なぜなら彼女は頑張っている。頑張っている人間に掛けてやれる言葉は少ない。
「ありがとうございます。私にできる範囲で頑張ります」
雲仙は満足げに頷きたいところだったが、口を固く閉ざして一つ、重たい相槌を打つにとどめておいた。
「お先に失礼します」
真希は礼をして、そのまま玄関の方へ行く。雲仙は娘の立派な背中を見送ってやりながら、考え事をする。
彼女は、自分の力で何かを変えることが出来ると信じているし、私もそれを完全に否定したりはしない。可能性がゼロというのは、真理としてありえないからだ。
——お願いします!
玄関の方向から、真希の稲妻のような挨拶が轟いて来る。雲仙はそれに対して、少し、心配してしまう。
そう簡単には動かない、動かせない、そういうものがちゃんとこの世にはある。それがこの世の中、現実なのだ。それと対峙したとき、いかに自分の思想が冷酷なものだったか、弱者をないがしろにするものだったか、知らしめされることになる。自分はそっち側ではないと思っていたのに、知らぬ間にそっち側へ加担してしまっていたと後になって気づいたとき、その衝撃をどうやって自分の中で処理するのか。どうやって改善を図るのか。変えられるのは、自分だけなのだから。
そもそも、こんなことを考えるのは加齢による弊害かもしれない。雲仙は、久しぶりにあいつのコーヒーが飲みたいなと思った。
「いらっしゃ……あら雲仙さん。お久しぶり」
喫茶アズミの入り口を開けると、カウンターから出ながら川端裕子がそう挨拶した。喫茶アズミの現在のマスターだ。
「ああ、久しぶりだ。コーヒー、頼むよ」
雲仙はそう言って、空いているカウンター席に座る。夕方の六時、店内は混雑ではないが、空いてもいない状況。仕事終わりにくつろいでいるサラリーマンの姿が目立つ。
「はい、コーヒーね」
カウンターの向こうから特製コーヒー、それと伝票が一緒に雲仙の前へ置かれる。
「ありがとう」
雲仙がそう言っても、川端は特に何も返すわけではない。客と店主だが、二人は古くからの知人であり、そこで間に生じる不快な響きも、特にない。
コーヒーを一口、口に含む雲仙。
不味い。正直な話、この歳になってもコーヒーの味は好きじゃない。しかし今日は、これを飲みに来た。
「それと、ああ、アズミセット」
カウンター越しに注文する雲仙。すると川端は、「すみません、今日はもう仕込みが無くなっちゃって」
「ああ、そう。また後で何か頼むよ」
雲仙はそう言って、不味くて熱い汁を口に含む。
「すみません」
「いやいや」
特に気にせず雲仙は手を振る。それから三十分ほど経って、店内は空いてきた。ちょうど雲仙が入ったのが、夕方のピークだったようだ。
他に客がいなくなり、川端は空いたコップやお皿などの片づけをしている。人気の喫茶店を一人で切り盛りしているとなれば、かなり忙しいのだろうな、などと思ってみる。精神科医をしながらほとんど隠居のような生活をしている自分とは大きく違う。
「お忙しいんですか? 最近、来られなかったから」
ある程度、片付けが終わって洗った食器を拭きながら、川端は向こうから話しかける。
「ああ、考えることが多く」
雲仙はそう答える。コーヒーは二杯目も半分まで減り、店に入ってもうすぐ一時間が経過する。たぶんもう、食事は頼まない。体重はここ最近、少し減った。
「お店は、人気みたいだ」
雲仙がそう言うと、川端は顔の前で軽く手を振って、「安住さんのを継いでるだけですから」と笑いながら言う。
安住。
「フレンチトースト、やっぱり出るかい」
雲仙はでも、ちょっと残念だった。あのフレンチトーストは、安住が開発したレシピで作られている。今日は、安住を思い出したかった。あのイカレた人間のことを。
「ええ、アズミセットにしか出ないのに」
「久しぶりに食べたかったが、残念だ」
「またお願いします」
顔をクシャ、とした笑顔で、川端は申し訳なさを表現した。時刻はもうすぐ夜の七時。この時間でも、外はまだ明るい。
「まだ動くのか。あの振り子時計は」
時計を確認したついでに、雲仙はそう話しかけた。大きな振り子時計だ。
「たまに壊れちゃうんですけどね。そのたびに修理です」
「そうかい」
「結構高いんですよ、修理費。あの時計は、安住さんの手作りですから」
チリンチリン。
——いらっしゃいませー。どうぞ空いている席へ。
川端がカウンターを出て案内に行く。
そうか、この時計ももう寿命か。
雲仙は不味くて黒い汁を口に含みつつ、その大きくて荘厳な造りの振り子時計を眺めている。雲仙は安住英雄を思い出す。
雲仙はまたやって来た例の男に問う。
「いえ、僕はやはりああいうお店には行きたくないので……。前回と何も変わらず、妻には殴られるの毎日です」
また新たな痣を二の腕に作っている男がそう言うと、雲仙は「いや、それは君の選択だ。それでいい」と淡々と言う。
「すみません。でも……」
「何に謝るんだ。一つ進めば、二つ目に進めばいいだろう」
雲仙は冷静に話す。ただただ、この男とその妻が幸せになるためにはどうすればいいのかを、真剣に考えている。その雲仙の姿勢に、俯いていた男は顔をあげた。
「やっぱり、妻に暴力を止めてもらうには、ここに連れてきたほうがいいのでしょうか。なにか、精神的な治療を受けさせるとか」
雲仙は薄々思っていたが、どうやらこの男は、怒るとか反抗するといった類の感情に欠けているようだ。確かにその妻からすればこの夫と接していると、虐げたり暴行を加えたりしたくなる情動を駆られるような、そんなスイッチのように感じるのかもしれない。
「それができたらそれでいい。いつでもここに連れて来なさい」
男は、ちゃんとした話をしてくれる雲仙に、この前のちゃんとしていない話も、本当は凄くよく考えてのことだったのではないかと思い始める。そして実際、それはそうだった。
「しかし奥さんの話はそのときにすればいい。いまはわざわざ来ているんだ、君の話をしよう」
雲仙が表情一つ変えることなく話すのを、男は説法でも聞くみたいな顔で聞いている。
「鏡だ。君以外のもの、全て」
「鏡、ですか」
雲仙は一つ、ゆっくりと頷く。
「君の奥さんも、君を映す鏡。奥さんの暴力行為は、君の何かを鏡として映している。だから、いいか」
雲仙は少し間を開けて、「大事なのは君がどうするか、だ」と言う。「他の人に暴力を振るったりは?」
「いえ、見たことがありません」
「子供にもしないと言ったね」
「はい」
「君だけが奥さんからそれを引き出してしまっている。それはなぜか、と考えるんだ」
なぜか。この男を見ていると、それは何となく分かる。そのことにこの男自身が気づいているかどうかが重用だ。
「そうですね、僕のこういう感じが、妻に暴力をふるわせていたのかもしれません」
「ああ、だったらそこを改善していけばいい。そしてダメだったら、また来ればいい。三つ目に進めばいい」
雲仙は、なおも淡々とした口でそう言葉を発する。男は、なにか大きなものに包まれているような、そんな温かさを感じて「ありがとうございます」と言った。
「また来なさい。いつでも」
男は暖簾をくぐって一度頭を下げ、出て行った。願うことなら、もう来ないで欲しい。そのまま順調に行けば、ここに来る必要なんてないのだ。
金曜日か。雲仙はカレンダーを見て、そう思う。隣の大部屋では、空手の稽古が行われる日である。自分が稽古をつけていた日々が懐かしい。もう引退して、いまは精神科医と、趣味の骨董美術だけだ、やることと言えば。
「最近やけに気合が入っているな。真希」
営業後の掃除も終わり、他の従業員が帰ったあと、道着姿の真希を見て雲仙は言う。以前よりも雰囲気、オーラが違うように見える。
「私次第ですから。子供たちの心が良い成長をして、それが評価される社会をつくるのは」
後ろできつく髪を結った真希の眼光は鋭い。日常では愛想があって元気で周りから好かれやすい気質だが、道着に黒帯を結ぶと途端に、真希は威力を持つ。
「頑張りすぎないように」
せめて雲仙はそう言う。頑張れ、とは言わない。なぜなら彼女は頑張っている。頑張っている人間に掛けてやれる言葉は少ない。
「ありがとうございます。私にできる範囲で頑張ります」
雲仙は満足げに頷きたいところだったが、口を固く閉ざして一つ、重たい相槌を打つにとどめておいた。
「お先に失礼します」
真希は礼をして、そのまま玄関の方へ行く。雲仙は娘の立派な背中を見送ってやりながら、考え事をする。
彼女は、自分の力で何かを変えることが出来ると信じているし、私もそれを完全に否定したりはしない。可能性がゼロというのは、真理としてありえないからだ。
——お願いします!
玄関の方向から、真希の稲妻のような挨拶が轟いて来る。雲仙はそれに対して、少し、心配してしまう。
そう簡単には動かない、動かせない、そういうものがちゃんとこの世にはある。それがこの世の中、現実なのだ。それと対峙したとき、いかに自分の思想が冷酷なものだったか、弱者をないがしろにするものだったか、知らしめされることになる。自分はそっち側ではないと思っていたのに、知らぬ間にそっち側へ加担してしまっていたと後になって気づいたとき、その衝撃をどうやって自分の中で処理するのか。どうやって改善を図るのか。変えられるのは、自分だけなのだから。
そもそも、こんなことを考えるのは加齢による弊害かもしれない。雲仙は、久しぶりにあいつのコーヒーが飲みたいなと思った。
「いらっしゃ……あら雲仙さん。お久しぶり」
喫茶アズミの入り口を開けると、カウンターから出ながら川端裕子がそう挨拶した。喫茶アズミの現在のマスターだ。
「ああ、久しぶりだ。コーヒー、頼むよ」
雲仙はそう言って、空いているカウンター席に座る。夕方の六時、店内は混雑ではないが、空いてもいない状況。仕事終わりにくつろいでいるサラリーマンの姿が目立つ。
「はい、コーヒーね」
カウンターの向こうから特製コーヒー、それと伝票が一緒に雲仙の前へ置かれる。
「ありがとう」
雲仙がそう言っても、川端は特に何も返すわけではない。客と店主だが、二人は古くからの知人であり、そこで間に生じる不快な響きも、特にない。
コーヒーを一口、口に含む雲仙。
不味い。正直な話、この歳になってもコーヒーの味は好きじゃない。しかし今日は、これを飲みに来た。
「それと、ああ、アズミセット」
カウンター越しに注文する雲仙。すると川端は、「すみません、今日はもう仕込みが無くなっちゃって」
「ああ、そう。また後で何か頼むよ」
雲仙はそう言って、不味くて熱い汁を口に含む。
「すみません」
「いやいや」
特に気にせず雲仙は手を振る。それから三十分ほど経って、店内は空いてきた。ちょうど雲仙が入ったのが、夕方のピークだったようだ。
他に客がいなくなり、川端は空いたコップやお皿などの片づけをしている。人気の喫茶店を一人で切り盛りしているとなれば、かなり忙しいのだろうな、などと思ってみる。精神科医をしながらほとんど隠居のような生活をしている自分とは大きく違う。
「お忙しいんですか? 最近、来られなかったから」
ある程度、片付けが終わって洗った食器を拭きながら、川端は向こうから話しかける。
「ああ、考えることが多く」
雲仙はそう答える。コーヒーは二杯目も半分まで減り、店に入ってもうすぐ一時間が経過する。たぶんもう、食事は頼まない。体重はここ最近、少し減った。
「お店は、人気みたいだ」
雲仙がそう言うと、川端は顔の前で軽く手を振って、「安住さんのを継いでるだけですから」と笑いながら言う。
安住。
「フレンチトースト、やっぱり出るかい」
雲仙はでも、ちょっと残念だった。あのフレンチトーストは、安住が開発したレシピで作られている。今日は、安住を思い出したかった。あのイカレた人間のことを。
「ええ、アズミセットにしか出ないのに」
「久しぶりに食べたかったが、残念だ」
「またお願いします」
顔をクシャ、とした笑顔で、川端は申し訳なさを表現した。時刻はもうすぐ夜の七時。この時間でも、外はまだ明るい。
「まだ動くのか。あの振り子時計は」
時計を確認したついでに、雲仙はそう話しかけた。大きな振り子時計だ。
「たまに壊れちゃうんですけどね。そのたびに修理です」
「そうかい」
「結構高いんですよ、修理費。あの時計は、安住さんの手作りですから」
チリンチリン。
——いらっしゃいませー。どうぞ空いている席へ。
川端がカウンターを出て案内に行く。
そうか、この時計ももう寿命か。
雲仙は不味くて黒い汁を口に含みつつ、その大きくて荘厳な造りの振り子時計を眺めている。雲仙は安住英雄を思い出す。