第26話 現代の浮世絵師
文字数 1,196文字
曇天から雨が降り出したその日、佐賀はこれまで何度か仕事を共にしてきた彫師の溝口のところへ出向いていた。
「佐賀さんが言うからワシも引き受けたんやけどな」
齢五十三の彫師、溝口は寺の坊主のように丸い頭で、丸縁眼鏡をかけている。仕事場へお邪魔したことはあるが、家に上がるのは初めてだ。
「ええ、すみません。今回の仕事は」
溝口の奥さんからお茶を出され、佐賀は「すみません」とまた言って軽く頭を下げる。
「そう簡単にはいかないと踏んでいるんです」
でしょうな、と溝口は卓上にあるお菓子を取りながら言う。
「あなたという絵師がこんな片田舎のワシのところに相談しにやってきとる時点で。だいたい、絵の制作のために引っ越しや生活まで金の面倒を見るとは、雲仙ってのは何者だ」
ツテのない雲仙に代わって、浮世絵制作に必要な職人である残り、彫師と摺師は、佐賀が依頼した。そのため、彼らは今回の版元がどういう人物像なのか、まだよく分かっていないのが実情だ。
佐賀は、雲仙観という男が旧家で精神科医で骨董美術のバイヤーで、「それと空手家です」ということを説明した。
「空手家か。佐賀さんもやってたんだっけな」
「ええ、高校まで。それと」
佐賀は、この雲仙が、自分の師匠である彦山総司の先輩かもしれないということを説明した。
「彦山先生。佐賀さんの崇拝する方だ。そんで『かもしれない』? とはどういうことで」
溝口は気になる部分を聞き出す。
「いえ、何となく彦山先生と雰囲気が似ていますしきっと本当なんでしょうけど、証明するものがないのでいまはそう思っているだけです。彦山先生は驚異の勢いで空手界を上り詰めて日本一になった伝説の方なので、空手界では顔が広くて」
「大会で一回喋っただけで彦山先生の先輩やと抜かしとるんちゃうかと」
「その可能性もあるということです」
溝口は、雲仙というまだ得体の知れない版元についての懐疑心を隠さない。終始、佐賀の側についている。
「それにしても怪しいねえその雲仙ってのは。浮世絵に関しての素人が佐賀謙という浮世絵師に仕事を依頼しとるというのも、その金のかけ方も」
溝口の言い分に佐賀はうまく返す言葉が見つからず、苦笑いをする。ただ、溝口が佐賀のことを高く評価してくれているのは、誇りに思っている。
「どんな版元でも、依頼があれば描きます。それが仕事ですから」
佐賀がそう言うと「さすがだ」と溝口は返す。
現代の浮世絵師、佐賀謙。
その名が日本の美術界で知れ渡るのは、いまから五年前の話に始まる。
「君が描いたのですか」
そう、青い目の男から流暢な日本語で話しかけられた。黒いスーツを着て、黒いコートを手に提げている、肌が白くて青い目の男。スキンヘッドで、手には黒のハットと黒い鞄を持っている、黒づくめの格好だ。
当時、留年したのち美術大を卒業する手前の秋に退学した二十三歳の佐賀は、若かった。
「誰だあんた」
「佐賀さんが言うからワシも引き受けたんやけどな」
齢五十三の彫師、溝口は寺の坊主のように丸い頭で、丸縁眼鏡をかけている。仕事場へお邪魔したことはあるが、家に上がるのは初めてだ。
「ええ、すみません。今回の仕事は」
溝口の奥さんからお茶を出され、佐賀は「すみません」とまた言って軽く頭を下げる。
「そう簡単にはいかないと踏んでいるんです」
でしょうな、と溝口は卓上にあるお菓子を取りながら言う。
「あなたという絵師がこんな片田舎のワシのところに相談しにやってきとる時点で。だいたい、絵の制作のために引っ越しや生活まで金の面倒を見るとは、雲仙ってのは何者だ」
ツテのない雲仙に代わって、浮世絵制作に必要な職人である残り、彫師と摺師は、佐賀が依頼した。そのため、彼らは今回の版元がどういう人物像なのか、まだよく分かっていないのが実情だ。
佐賀は、雲仙観という男が旧家で精神科医で骨董美術のバイヤーで、「それと空手家です」ということを説明した。
「空手家か。佐賀さんもやってたんだっけな」
「ええ、高校まで。それと」
佐賀は、この雲仙が、自分の師匠である彦山総司の先輩かもしれないということを説明した。
「彦山先生。佐賀さんの崇拝する方だ。そんで『かもしれない』? とはどういうことで」
溝口は気になる部分を聞き出す。
「いえ、何となく彦山先生と雰囲気が似ていますしきっと本当なんでしょうけど、証明するものがないのでいまはそう思っているだけです。彦山先生は驚異の勢いで空手界を上り詰めて日本一になった伝説の方なので、空手界では顔が広くて」
「大会で一回喋っただけで彦山先生の先輩やと抜かしとるんちゃうかと」
「その可能性もあるということです」
溝口は、雲仙というまだ得体の知れない版元についての懐疑心を隠さない。終始、佐賀の側についている。
「それにしても怪しいねえその雲仙ってのは。浮世絵に関しての素人が佐賀謙という浮世絵師に仕事を依頼しとるというのも、その金のかけ方も」
溝口の言い分に佐賀はうまく返す言葉が見つからず、苦笑いをする。ただ、溝口が佐賀のことを高く評価してくれているのは、誇りに思っている。
「どんな版元でも、依頼があれば描きます。それが仕事ですから」
佐賀がそう言うと「さすがだ」と溝口は返す。
現代の浮世絵師、佐賀謙。
その名が日本の美術界で知れ渡るのは、いまから五年前の話に始まる。
「君が描いたのですか」
そう、青い目の男から流暢な日本語で話しかけられた。黒いスーツを着て、黒いコートを手に提げている、肌が白くて青い目の男。スキンヘッドで、手には黒のハットと黒い鞄を持っている、黒づくめの格好だ。
当時、留年したのち美術大を卒業する手前の秋に退学した二十三歳の佐賀は、若かった。
「誰だあんた」