第47話 彦山の表情
文字数 2,466文字
——二十年前——
「英雄。救世主。救いの神」
「どうした急に」
とは言ってみるものの、雲仙は遠い昔に同じような考え事をこの男がしていたのを思い出した。確かこの街を救う、みたいな、治安を良くする、みたいな。もうずっと前の話だが。
「選択肢が絞られてきた。やっぱり俺は、『英雄』だな」
一人で納得している安住。四十二歳、悔しいが、安住には大人としての渋みが出て来ていっそう格好良く、そして、何かとセンスも光る。骨董美術の魅力について、ここ最近、安住から教えてもらっている。何が悔しいかって、そんな風なのに変わらずこの男の思考はイカレたままだからだ。
「英雄って、何をするんだ」
名前の話はもう置いておいて、雲仙はその話について聞いた。
安住は、「別に何をするわけでもない。英雄としているだけだ」
「というと」
と雲仙がまた聞くと、
「というと?」
と安住は怪訝な顔で復唱する。まるで雲仙がなにかおかしなことでも言ったかのように。いつものことだが雲仙はそこでちょっと諦めずに、「いや、英雄をやるとして、、何をするんだ」
「英雄としているだけだ。まあ、そのなかでゴミを拾ったり、挨拶したりはするだろうな」
十年ほど前、鈴木商店の看板を見て「あれはちゃんと日本語を理解してない奴がつくった」と言っていたのを思い出す。果たして、それはほとんど真実だった。安住の目で「普通に分かること」とは、普通の人が一+一=二と分かるようなことで、思考とか論理とか、というのは逸脱している領域のことであるらしい。
「ああ、そうか」
この街を歩いて行けば、煙草の吸殻やお菓子の袋や何らかのプラスチックの包装など、ゴミというのは落ちているのが当然のことだ。そして、すれ違う人が挨拶することもほとんどなく、隣の家、部屋に住んでいる人とすれ違ったとしても、顔すら合わせない。挨拶など、それ以前の問題だ。
「もうすぐ準備ができるから、俺はそしたらちょっと店は川端さんに任せて、この街の英雄になってくる」
「はい?」
近くでテキパキと注文をさばいていたパートの川端さんは、カウンター越しに雲仙と話している安住を見て言った。
「ああ、ちょっとの間、この店は川端さんに任せると言ったんだ」
「いやいや、何の話ですか」
安住と同じ年齢の川端さん。もはや安住よりも仕事ができるようになっているように見えるが。
「ああ、言ってなかった。もうすぐ俺は英雄になるから、そしたらちょっとあのあいだ川端さんに喫茶アズミを任せるんだ」
「ちょっと言っている意味が分からないんですけど」
ああ、ここ十年の喫茶アズミは川端さんによってまともに経営が成り立ってきたのだな、とつくづく雲仙は感心する。
「ん、簡単な話さ。俺が店を空けている間、川端さんには代わりに」
はあ、と川端さんはため息を吐く。
「またこんど詳しくお願いします」
それでも完全に嫌気がさしてここを辞めないのは、川端さんも川端さんなりに、ここ喫茶アズミの居心地が良いからなのだろうなと雲仙は思う。
チリンチリン
——いらっしゃいませー
川端さんが案内しに行く。入ってきたのは、
「ご無沙汰してます」
「ああ、こちらこそ」
彦山だった。
「お、アンタ確か」
と言って記憶の道をたどる安住は、そうして辿り着いた先で「空手の日本チャンピオン」という標識を見つけたときにはすでに、その丁寧とは言い難い語調を改めるには手遅れだった。
「ご無沙汰しています」
彦山がそう一礼をやると、安住は、ああ、うん、というように、雲仙に「聞いていないぞ」という視線をチラとやる。当の雲仙は知らぬふりだ。安住はもう諦めて、いつものように接するとする。
「フレンチトースト。食うかい、いまじゃ一番の人気メニューだ」
安住としては、雲仙という親友にとっての要人が自分の店に来店するとなればもっと丁重にもてなしをしたいところだし、それぐらいのことはわきまえていないと、お店を経営するなんて無理な話だ。
「では、お願いします」
と言って、雲仙の席に座った。
「どなたですか?」
カウンター内で川端がその筋肉質の男について訊いてくる。川端はあの日、休みであの場にいなかった。まだそれほど人気店でもなく、安住一人で回せていたというのもある。
「雲仙の後輩で、空手の日本チャンピオン」
「ええ!」
「には見えないよな」
ひそひそと話しながら、安住はフライパンを火にかけて、バターを溶かし始める。フランスで時計職人をしていた時代に高級フレンチの厨房を盗み見たのをもとに完成させた秘伝のレシピだ。
「本物ってのは、得てして逆かもしれない」
そう言うと川端は「強く見えないってこと?」と返す。
「声が大きい」
安住は空手の日本チャンピオンがこっちを見ていないかと確認すると、何もなかったかのように仕込んであるフレンチトーストを焼き始める。
「見られてるぞ」
雲仙が彦山に言うと、「師匠に怒られますね、成ってない、と。何でも斬れる刃は、何でも封じる鞘に納めないと」
知らされなければこの彦山という男が空手で日本一になったとは思えないが、ひとたびそれを耳にすると、ああなるほど、とどこか、納得するところがある。ただの格闘家、ではなく、どちらかと言えば禅修行に重きを置いてきた、僧のようである。
「そうだな。昔は、お前はむき出しの刃みたいだった」
雲仙が言うと、彦山は「すみません」と少し笑って言う。しかしその少し笑う、という顔の動きには、同時に、以前にはなかった自虐にも似た嘲笑の意味が含まれており、その後も話してみて、若かりし頃の快活さがすっかりと消失してしまっていて、ふとしたときに深刻ささえ雲仙には見えた。
——らしくないな。雲仙はそう感じる。
「場所、変えたほうがいいか」
雲仙はそう提案してみる。見回すと、他にも客は大勢いる。喫茶アズミは、人気のお店だ。
「そう、ですね」
雲仙は彦山の顔を見る。一目じゃ分からないが、やはり微妙に翳りがあるのを雲仙は見抜く。
「ちょっと食べたら、ウチへ行こう」
二人は、人気のフレンチトーストを待った。
「英雄。救世主。救いの神」
「どうした急に」
とは言ってみるものの、雲仙は遠い昔に同じような考え事をこの男がしていたのを思い出した。確かこの街を救う、みたいな、治安を良くする、みたいな。もうずっと前の話だが。
「選択肢が絞られてきた。やっぱり俺は、『英雄』だな」
一人で納得している安住。四十二歳、悔しいが、安住には大人としての渋みが出て来ていっそう格好良く、そして、何かとセンスも光る。骨董美術の魅力について、ここ最近、安住から教えてもらっている。何が悔しいかって、そんな風なのに変わらずこの男の思考はイカレたままだからだ。
「英雄って、何をするんだ」
名前の話はもう置いておいて、雲仙はその話について聞いた。
安住は、「別に何をするわけでもない。英雄としているだけだ」
「というと」
と雲仙がまた聞くと、
「というと?」
と安住は怪訝な顔で復唱する。まるで雲仙がなにかおかしなことでも言ったかのように。いつものことだが雲仙はそこでちょっと諦めずに、「いや、英雄をやるとして、、何をするんだ」
「英雄としているだけだ。まあ、そのなかでゴミを拾ったり、挨拶したりはするだろうな」
十年ほど前、鈴木商店の看板を見て「あれはちゃんと日本語を理解してない奴がつくった」と言っていたのを思い出す。果たして、それはほとんど真実だった。安住の目で「普通に分かること」とは、普通の人が一+一=二と分かるようなことで、思考とか論理とか、というのは逸脱している領域のことであるらしい。
「ああ、そうか」
この街を歩いて行けば、煙草の吸殻やお菓子の袋や何らかのプラスチックの包装など、ゴミというのは落ちているのが当然のことだ。そして、すれ違う人が挨拶することもほとんどなく、隣の家、部屋に住んでいる人とすれ違ったとしても、顔すら合わせない。挨拶など、それ以前の問題だ。
「もうすぐ準備ができるから、俺はそしたらちょっと店は川端さんに任せて、この街の英雄になってくる」
「はい?」
近くでテキパキと注文をさばいていたパートの川端さんは、カウンター越しに雲仙と話している安住を見て言った。
「ああ、ちょっとの間、この店は川端さんに任せると言ったんだ」
「いやいや、何の話ですか」
安住と同じ年齢の川端さん。もはや安住よりも仕事ができるようになっているように見えるが。
「ああ、言ってなかった。もうすぐ俺は英雄になるから、そしたらちょっとあのあいだ川端さんに喫茶アズミを任せるんだ」
「ちょっと言っている意味が分からないんですけど」
ああ、ここ十年の喫茶アズミは川端さんによってまともに経営が成り立ってきたのだな、とつくづく雲仙は感心する。
「ん、簡単な話さ。俺が店を空けている間、川端さんには代わりに」
はあ、と川端さんはため息を吐く。
「またこんど詳しくお願いします」
それでも完全に嫌気がさしてここを辞めないのは、川端さんも川端さんなりに、ここ喫茶アズミの居心地が良いからなのだろうなと雲仙は思う。
チリンチリン
——いらっしゃいませー
川端さんが案内しに行く。入ってきたのは、
「ご無沙汰してます」
「ああ、こちらこそ」
彦山だった。
「お、アンタ確か」
と言って記憶の道をたどる安住は、そうして辿り着いた先で「空手の日本チャンピオン」という標識を見つけたときにはすでに、その丁寧とは言い難い語調を改めるには手遅れだった。
「ご無沙汰しています」
彦山がそう一礼をやると、安住は、ああ、うん、というように、雲仙に「聞いていないぞ」という視線をチラとやる。当の雲仙は知らぬふりだ。安住はもう諦めて、いつものように接するとする。
「フレンチトースト。食うかい、いまじゃ一番の人気メニューだ」
安住としては、雲仙という親友にとっての要人が自分の店に来店するとなればもっと丁重にもてなしをしたいところだし、それぐらいのことはわきまえていないと、お店を経営するなんて無理な話だ。
「では、お願いします」
と言って、雲仙の席に座った。
「どなたですか?」
カウンター内で川端がその筋肉質の男について訊いてくる。川端はあの日、休みであの場にいなかった。まだそれほど人気店でもなく、安住一人で回せていたというのもある。
「雲仙の後輩で、空手の日本チャンピオン」
「ええ!」
「には見えないよな」
ひそひそと話しながら、安住はフライパンを火にかけて、バターを溶かし始める。フランスで時計職人をしていた時代に高級フレンチの厨房を盗み見たのをもとに完成させた秘伝のレシピだ。
「本物ってのは、得てして逆かもしれない」
そう言うと川端は「強く見えないってこと?」と返す。
「声が大きい」
安住は空手の日本チャンピオンがこっちを見ていないかと確認すると、何もなかったかのように仕込んであるフレンチトーストを焼き始める。
「見られてるぞ」
雲仙が彦山に言うと、「師匠に怒られますね、成ってない、と。何でも斬れる刃は、何でも封じる鞘に納めないと」
知らされなければこの彦山という男が空手で日本一になったとは思えないが、ひとたびそれを耳にすると、ああなるほど、とどこか、納得するところがある。ただの格闘家、ではなく、どちらかと言えば禅修行に重きを置いてきた、僧のようである。
「そうだな。昔は、お前はむき出しの刃みたいだった」
雲仙が言うと、彦山は「すみません」と少し笑って言う。しかしその少し笑う、という顔の動きには、同時に、以前にはなかった自虐にも似た嘲笑の意味が含まれており、その後も話してみて、若かりし頃の快活さがすっかりと消失してしまっていて、ふとしたときに深刻ささえ雲仙には見えた。
——らしくないな。雲仙はそう感じる。
「場所、変えたほうがいいか」
雲仙はそう提案してみる。見回すと、他にも客は大勢いる。喫茶アズミは、人気のお店だ。
「そう、ですね」
雲仙は彦山の顔を見る。一目じゃ分からないが、やはり微妙に翳りがあるのを雲仙は見抜く。
「ちょっと食べたら、ウチへ行こう」
二人は、人気のフレンチトーストを待った。