第39話 鈴木商店

文字数 3,287文字

 桜散る季節。春が終わり、段々と夏へ向けて季節は進む。佐賀は、デザインの良い看板の商店の前で、ポケットに手を突っ込んでそれを眺めている。今日で二度目だ。

「おおアンタ、この前の」

 鈴木商店、とゴシック調に書かれた何の変哲もない看板なのだが、その古めかしさといい、格調ある感じといい、一介の商店にしてはなかなか良いデザインのものを作ったな、と佐賀は思う。

「すみません」

 佐賀は店先で話しかけられてポケットから手を出し、そう返す。店主は六十くらいの、元気で快活な白髪交じりのオヤジだった。

「いいよどうせまたアレだろ。椅子でも出しといてやろう」

 店主は言うが早いが佐賀の反応を待たずどたどた二階へ上がって行って、簡易な丸椅子を持って降りてきた。

「ああいえ、すみません、ありがとうございます」

 断るのも野暮だなと思い、佐賀は謙虚な姿勢でそう言う。

「のど乾いたら言ってくれ。というかほら」

 店主は店内にある自分用の冷蔵庫からペットボトルのお茶を取って、佐賀に渡した。

「え、申し訳ない」

「いやいや、いいんだ」

何かと良くしてくれる店主。佐賀は鈴木商店の前に丸椅子を置き、それから一時間ほどすると、椅子を持って鈴木商店に入って行った。

「気は済んだかい」

 店主は佐賀に気付くと、煙草を灰皿に捻じりながらそう言った。

「はい、すみませんご迷惑をおかけして」

 佐賀は前回、この鈴木商店の看板の前に二時間も立ちつくしていた。なかなか入ってこない、黒の半袖長ズボンをした若い男に、そのとき店主はお店を出て、「何か面白いものがあるのかい」と佐賀に話しかけた。店主は佐賀の見ているところを振り返り気味に見上げてみる。

「ええ、あと何日か欲しいですね」

 佐賀は訳の分からないことを言って、店主の頭上にポカンとハテナマークを浮かばせた。視線の先にあるのは、何の変哲もない自分の店の看板だった。佐賀は「では、用事があるので」と言って、その日は帰った。

「前回もそうだが、気になるのかい、看板が」

 店主は聞いてみる。すると、「ええ、はい」と返ってくる。ああ、やはりか、と店主は前回のことを思い返している。

 佐賀は、「ありがとうございます」と言って、借りていた丸椅子を入り口の脇にそっと置いた。

「いや、いいんだけどさ。そんなことを言う人が、昔もいたもんだから」

 店主には戸惑いがあるが、同時になぜか嬉しさも見て取れた。

「あの看板についてですか?」

 そんなことを言う奴がいるんだなと思うが、それはブーメランとしてそのまま佐賀に帰ってくる。店主は頷く。

「昔そうやって、この看板は誰がつくったんだって言ってきて。ここは私の親父の代からやってるから知らなかったけど、調べたらフランスの設計士がつくっていたんだ、あの看板は」

 何となくそうだ。あれは何かこう、日本人がつくった、という感じが見えない。佐賀は「そうですか」と言う。

「やっぱり何か、分かるものなのかい。分かる人には」

 店主がそう聞いてくると、佐賀は「実は絵を描いていまして、よければ今度、浮世絵、佐賀、で調べてみて下さい」と続けた。

「ああ、絵」

 なんとなく、店主は腑に落ちた。この人は絵を描いているのだな。なんとなくやっぱり、普通じゃない、という感じはアイツと似ている。

「その方は、どんな方だったんでしょう」

 単純に、自分と同じことを言う人間がどのような人間なのか気になる佐賀。

「まあ、あいつは変な奴だったな」

 店主の言葉に佐賀は思わず吹き出し、「なんですかそれは」と言った。

「もう亡くなってしまったんだけどさ。安住英雄って、この街の人間じゃまあ、有名な名前だぜ」

「実はこのまえ、越してきたばかりで」

 アズミヒデオ。

 何かその名前に所々引っかかるところを覚える佐賀。この街じゃ有名な名前。そもそもいったいなんなのだろう、この街、とは。

「そうかい、そりゃ知らないわけだ。まあ、もう昔のことだし、あいつを知っているのは大人だけさ」

 店主は、昔を懐かしむように言う。アズミヒデオとは、そんなに有名な人物なのか。

「こんにちは」

 急に、声が聞こえてきた。佐賀はそれが一瞬で分かって、心臓がバクン、と跳ねた気がした。傍には千尋がいた。

「いらっしゃい、宮間さん」

 店主がそう言うと、千尋はニコ、と会釈を返して「こんにちは」と返す。

「ああ」

 佐賀は口がよく動かずに、そう、頼りない声で反応する。

——今日は月曜日なので。

 千尋は佐賀に小さくそう言って、店主に近づいていく。月曜と水曜は休みで、可哀そうな火曜日。佐賀は思い出す。

 店主は、千尋に対して「文房具を増やしてみたんだけどね」と言って、文房具のコーナーを千尋に見てもらうよう誘導する。まるで取引している営業のように千尋はそれに付いて行き、「わあ、いいと思います。最近は凝った文房具が流行りですものね。そうですね、配置とかこうしてみると、もっといいんじゃないかな」

 そう言って、慣れた手つきで、そして夢中な目で、サッサと配置を変えてみる。

「また勝手にやっちゃってすみませんが」

 千尋が勝手に変えた配置は、しかし佐賀もそれがベストだと思えるほど、整っていてより魅力的に見えた。

「なるほど。さすが宮間さんだ」

 店主はそう言って、いつもいつもそうさせられているうちの一つであるかのように、また今回も感服する。

 店主は、その文房具の配置をまじまじと眺めていたが、やがて、残されたもう一人の客、つまり佐賀に気を配って、

「ああ、この方はね、いつも来てくださる宮間さんといって。センスがいいんだ、凄く。お客さんなのに、いつからかな、配置とか、デザインのアドバイスをもらい始めて」

 と佐賀にその女性のことを説明した。

「そこの図書館で働かれてる。ウェブデザイナー、もやられてるんだっけな」

 店主の紹介を受けて、千尋は佐賀にしっかりと目を合わせて会釈した。ただの会釈ではない。それは、この場において店主だけが知らない真実について、彼の謙虚さや誠実さや人の良さに泥を塗らないべく、一芝居売って下さいね佐賀さん、とでも言いたげな会釈に佐賀には見えた。

「へえ、そうですか。確かにいいセンスだ。関心してしまう」

 佐賀は表情を広げて大袈裟にそう言ってみせる。しかし本心なのに変わりはなかった。千尋のセンスは、文房具の配置をサッサと変えただけで垣間見えるほど、佐賀からしてもなかなかいい。

「この方はね、絵を描いてらっしゃるそうで。最近、いらしてくださるんだけどね」

 店主はそう言ってみて、しかしこの人はウチの商品を買うわけでもなく、ただただ「看板が良いですね」なんて言ってウチの店の前でじーっと何時間もそれを眺めている変な人だ。ウチのお客さんでは今のところないし、でも、この人について変な説明をして、宮間さんのこの人に対する印象を悪くしてしまっては、彼の世間体として悪いしな。

 人の良い店主は色々と考え、とりあえず、「いい身体してらっしゃる」と言っておいた。言っておいて、これは女性に対して少し下世話に聞こえてしまったか? と顧みた。

「へえー、あ、確かに。何かされてるんですか?」

 千尋が意外にも興味をもって返答するので、店主は、ああよかったと、自分の果たした役目にほっと胸を撫で下ろす思いだ。

「最近の芸術家はパワーも必要なんですよ」

 佐賀の言った冗談に、店主は思わず噴き出す。なんだこの人、やっぱ変わってるよ。

「どんな絵をお描きなんでしょう」

 特に大きな反応もしないで、千尋はまた質問をする。店主には、初対面のはずなのに彼に対する反応が滑らかで、少し不思議だった。

「これでも割と有名な絵師なんです。そう簡単には見せられません」

 いつの間にか若い男女二人で話している。何か勘づき、店主は目のやり場に困って、近くの棚の商品を摘まんだりしてみる。

「でしたら何か手伝いましょうか? 今日は休みなんですよ、仕事」

 店主の耳は、恥ずかしいほど大きく開いている。ああそうだ、この子は困っている人とか、悩んでいる人を見ると放っておけない。無償で人に良くしてくれる、そういう子なのだ。
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