第59話 その目

文字数 1,919文字

 一日のルートは決まっている。誰も起きていない深夜から清掃活動を始め、始発が来る頃から通勤の時間帯が終わる頃までは駅前で元気に挨拶、たまに喫茶アズミに行ったり、近くの幼稚園で子どもたちとハイタッチをする。それが終わるとまた清掃活動と、すれ違う人とは元気に挨拶。これが夕方まで延々と続いてヘロの一日は終わり、次の日に備える。

 今日は朝から曇天だったが、昼になっても雨は降らなかった。雨の日でも構いなくやるから、降ってくれずにいてありがたい。ヘロはいつも通り、ルートを辿っていくのだが、

 やはり雨が降り出すといけないと思い、いつも回るところを端折って切り上げた。結果的には雨が降ることはなく、ただただ今日は、早めに活動を終えるに至った。

雲仙のところへ行ってみよう。

 そう思い、UNZENメンタルヘルスケアへ続く階段を上っていく。少し疎遠になっていた最近、期せずして今朝、会うことができた。雲仙とは、これからも仲良くやっていきたいと考えている。

 この街の人々が英雄をどう見ているのか、とか、これからどうしたらいいかとか、そういうことを雲仙に相談したかった。あの男は、いつでも禅修行みたいな達観とした雰囲気でいて、芯を穿っている。

 もしいま、英雄がいなくなればどうなるだろうか。

 そんなことを考えながら、階段を上っていく。そんなことも今日、雲仙と話してみたかった。仲直りの確認をして、これまでよりちょっと、素直になってみて。

——ああ、そうだった。

 階段をほとんど上り切るころ、ヘロは思い出した。

雲仙、あいつ今朝、駅で会ったんだ。オークションへ行くとか言って。まだ帰って来てないかもしれない。

 案の定、扉を開けようとすると鍵がかかっていて、インターホンを押しても、返答がなかった。病院自体は、今日は休みだ。

 また今度だな。

 そう思い、ヘロは振り返ってちょっと、そこから見える景色に目が行った。今日は朝からずっと曇天が続いている。

 ——綺麗な街。治安のよい街。

 ——英雄のいる街。

 悪くはない。ただ、危惧するのは、いま英雄が消える場合だ。果たして、人々がどのような行動をとるのか。自分たちこそ英雄だと、ちゃんと気づくことができるのか。俺は、本当は英雄なんかじゃない。

 あ。

 誰かが、階段を上って来た。

「誰もいないみたいだ」

 ヘロはその男に言った。この階段を上ってきたということは、UNZENメンタルヘルスケアに用があるということだろう。この頂上には、それ以外何もない。

「……」

 帽子を深く被った男だった。視線は見えず、表情も読めない。年齢も、若くも見えるし、老けても見える。ただ一目で、ちょっと危ない人物であることは分かる。

「……変わりたい」

 ヘロは、確かにその男が、そう言ったように聞こえた。

「え?」

 しかし何のことか、ヘロには分からない。ぼそ、と独り言を言っただけで、その帽子の男は階段を引き返した。

「なんて言ったんだ」

 ヘロは無性に、彼に何かしてやりたくなった。そもそも、安住英雄がヘロをしている理由は、夜ラーメンを食べに行くためでもなく、街の治安を良くした英雄として称賛されるためでもない。ただただ、この安住という人物の精魂が、治安の悪かったこの街を良くしたいと、切に願ったからだ。

「連絡しようか。そこの院長と知り合いなんだ俺」

 ヘロは階段をタッタッタと降り、彼を追い越して前まで来ると、見上げるようにそう言った。

 ——目が合った。深刻な目だった。

 刹那——

「え……」

 ヘロは突き飛ばされた。まるで、お前は近寄るな! とでも言うかのように。

 そのまま階段を転げ落ちていく中で、ヘロは、意識が朦朧としてきた。長い階段だ。

——変わりたい。

 彼はさっき、そう言った。

 彼をどうにかできないか。彼を救えないか。

 その間、ヘロはそう思った。それは傲慢だと思った。彼を変えることはできない。結局、俺は影響を与えることしかできない。変わるのは彼でしかない。

 意識が遠のいていく。

 その中で、さっき見た目を思い出す。

 絶望の目。冷たいものを見る目。

 俺は、冷たい人間なのではないか。彼みたいな人間を、俺はこれまで完全に、度外視してきたのではないか。何か物凄い勘違いをして。気を付けてきたつもりだったのに。

「安住さん!」

 下まで転げ落ちると、川端の声が聞こえた。たまたま、通りかかったらしい。

「どうされたんですか!」

 川端が緊迫した声色でそう聞いてくる。

「ああ」

 改めて見ると、それほどの酷い怪我ではない。ただ、抉れた皮膚が見える頬は、かなり痛々しく見える。意識が保てているのも、毎日快活に動いているからこそだろう。

「英雄は、もう終わりだ」

 安住はそう言った。
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