第22話 論理の糸とそのほつれ

文字数 2,603文字

 千尋は少し間を開けて、「ヘロさんが遅れても来たというのは、あのときが初めてです」と言った。

「あのときが?」
「はい、ここには」
「じゃあ奇跡的に、俺はその日に立ち会ったというわけかい」

 佐賀は言いながら、違う思考軸の中で常に考えている絵の構想を透かし見る。

「はい、本当にたまたま」

「あ」と口を開けて誰かを見ている女性。
 その絵の中の女性が何を見てそう「あ」と口を開けているのか。

「へえ」

 空想の美術館に展示されている下書き。そこに吹き込む答えは、「八時に来るはずのヘロという人物が八時五分に来て、そのことに少し反応したから」なのか——。

「でも、おかしくないかい」
 佐賀はそれほど期待したものではなかった答えを受け、がっかり視線を落とすのではなく、寧ろその違和感に少し眼力を強める。千尋は、うん? という反応をする。

「ヘロは基本的に同じ時間に、その場所その場所に現れると言ったね」
 千尋のアズミセットもだいぶ減ってきている。
「はい」
「基本的に、と言ったのはきっと、基本をズレることがあったからだ。それは、この前のたった一回のことなのかもしれないが」
 論理的思考が十分に育まれている人間の言葉は一本の丈夫な糸で紡がれている。この宮間千尋という人物がその論理的思考を高度に持っている種の人間だと認めているからこそ、佐賀は千尋のさっき言ったセリフに出てきた気になる糸のほつれを摘まみ出す。

「そうですね。本当にあの時だけです」
「だったら、なぜ君はいまも、それほどヘロを信頼しているのか」
 佐賀は、なぜ自分はそんなことをこの女性に聞いているのか、と口を動かしながら思う。
「え?」
「この前は五分。今日はまだ二分だった、細かいが、重要な部分だ。英雄でも少なくとも五分は遅れることがある、と分かったなら、もしかしたら今日、二分の時点でも来る可能性はまだ完全には否めなかった。でも、君は『もう来ない』と断言したね。それはそれほど、ヘロが時間通りにやって来るはずだという信頼の高さを意味していると俺には思えた。それはかなりの高い信頼だ。なぜそんなに高いのか」

 なぜこんなことを聞いているのだ。佐賀は違う思考軸を追う。「あ」と遠くを見る女性。何を見ているのか。その「あ」の意味は。

「たぶんですが、佐賀さんが思っている以上に、ヘロさんは凄い人なんです」
 千尋は、佐賀への侮蔑が出ないように配慮をした言い方で説明する。
「ヘロさんは、本当に時間ピッタリに現れるんですよ。それは、この街で英雄として生きるなかで、みなさんの日常の一部となるためだと思うんです。鉄道みたいなものです」
「鉄道?」
 佐賀はつい復唱してしまう。
「はい。鉄道って、私たちの日常の一部じゃないですか。一分の遅れもなく、その場所、その場所にやってきます。それが、ヘロさんはこれまで、遅れて現れるということは一度もありませんでした。つまりたまに遅延する鉄道よりもはるかに信頼性が高いというわけです。なので、この前のたった一回の遅れだけで今日も遅れて現れても来るかもしないとはまだ考えにくいです。二分も遅れたら、もう今日は来ないんです」
「なるほど、それは確かに」

 もし今日も遅れて現れるとするなら。それは明日や明後日も遅れてやって来る、その可能性がグッと高まるが、この前のたった一回だけでは、それまで積みあがってきた信頼は崩れない。つまりそれほど、ヘロは少なくとも千尋にとっては、信頼ができる存在ということになる。

「あ」と英雄を見る千尋。

 確かに、それほど信頼している存在が遅れてもここにやって来たということに対して、驚くのは当然と言えば当然だが。しかし、あの時の表情は、驚き、ではない、もっと他の感情が大きかったように思う。——「あ」。

「君にとって、何者なんだい。ヘロは」
「英雄です。そのまま」
「というと?」
 その即答に千尋の頭の回転の速さというより、千尋の普段からの思慮深さが感じられた。
「存在だけで勇気が出ます。味方です」

 味方。佐賀は、これまでぼやりとしていた概念に、ちゃんとした名前がつけられるような感覚がした。確かに、あの紅一色のスーツに白髪のヘロは、味方という感じがする。何に対しても、どんな人間に対しても、ヘロは味方でいる。その存在があるというだけで、それは個人にとってとても強いものがある。

「偉大だな」
 佐賀は実直にそう思う。それほどの信頼があって当然だ。

「もしヘロがいなかったら、どうだろう」
 佐賀は、なんともなしにそんなことを聞いてみた。すると千尋は一瞬だけ、しかし明らかにナイフとフォークを持つ手を止めて、思考の深淵に落ちるような目をした。

「どうでしょう」
 千尋は視線を下に落としている。佐賀は集中する。——何か、ある。

「この街は、ヘロが来る前から綺麗だったと聞いたけど。治安も良かったらしい」
 その道を迷うことなく進んでいく。なぜこんなことをするのか。別の思考では、絵の思索がずっと進んでいる。そう、これは仕事だ。桜を見て綺麗だと言うだけでいいのに、桜を見てこの街の地理や地形や人々に与える影響まで考えるという、本当ならしないことをしている。これは依頼を受けた、仕事なのだ。

「そこは、ちょっと私にも分かりません。私が大学を出て司書としてここに配属されたときには、もうこの街にはヘロさんがいたので」
「ああ。そうか」

 佐賀は、この女性の表情を見てみた。何か、があるとは確かに思った。しかしそれを突き止めていくというのは、いくら仕事でも許されることなのか、という迷いがこのとき生じた。その顔を曇らせることが、許されることか。

「まあ今日は、そのヘロはもう来ないと」
 コト、とコーヒーカップをテーブルに置く佐賀。まだ半分ほど残っている。
「そうですね」
 フレンチトーストを食べる千尋。店に入って来たときの上機嫌は、僅かにではあるが、下がっているように見えた。

 この女性は何か、隠していることがある。それはきっと、この街の人々が同じように抱えていることに違いない。英雄のいる、この街に住む人々が。

「困った、ヘロに会いに来たというのに。今日は何をしよう」
 困った。一流の仕事人として、かなり。

「散歩でもしましょうか」
「ああ」

 佐賀は千尋のいま言った言葉と、自分の心の内からすんなり出て言った言葉の関係性を三秒ほどたってから理解して、
「え?」
 と隙だらけの反応をした。
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