第43話 これが安住英雄

文字数 2,428文字

 ——三十年前——

「ヒーロー、じゃダメなんだよな」

 喫茶アズミのマスター、安住英雄はカウンターの向こうで煙草を灰皿にねじりながら、カウンター席に座っている雲仙にそう言った。二人の人生にはこれといった接点も無く、安住は三十で脱サラして喫茶店のマスター、雲仙は一族の持っている土地に三十という若さにして病院と空手道場を開いたエリート、性格も真反対で安住は行き当たりばったりの行動派、雲仙は思考に思考を重ねて確実に実行に移す慎重派で、共通点と言えば年齢ぐらい、それと、芸術に理解があること、これは大きい。

「あ?」

 雲仙はそう返す。三十二歳、雲仙もその頃は分厚くてしなやかな筋肉が身体を覆い、幼いころから質実剛健を絵に描いてその歳になったという武人の屈強さが印象的だ。

「英雄、と言った方がいい。俺の名前と被るけど」

 アズミヒデオ。「ヒデオ」の漢字を音読みすると確かに「えいゆう」になるが。

 英雄、ヒーロー。

「何の話だ」

 雲仙には全く、安住が何を言い出したのか分からなかった。もっとも、この安住英雄という頭のおかしい人間の話を理解できたことは、これまでそう多くはないが。

「ネーミング。やっぱり、英雄と言った方がいいだろう」

「んん。じゃあ、他の候補は」

 雲仙は折れて受け入れ、よく分からないまま会話を掘る。

「勇者、超人、スーパーマン」

「ああ、もういい。何のための名前だ」

 おお、いい質問だ、と言って安住は新しい煙草に火をつける。一つ、煙を吸って吐いて、「こんど俺がこの街を変える、その姿をどうイメージするかって、そのときの名前だよ」

「言ってる意味が一ミリも分からない。街を変える?」

 雲仙は一口コーヒーを飲んだ。不味い。安住特製のコーヒーは色々こだわって精製しているらしいが、コーヒーとして不味いのに変わりない。しかし不味いものを格好つけて飲む、コーヒーとはそういうものだと雲仙は思っている。

「治安悪すぎだろこの街よ」

 安住は躊躇なく言った。言った本人はけろんとしているのに、雲仙の方がゾワ、と背中が粟立つ思いだった。他にも、客はいるのだ。

「それがどうした」

 ちょっと小声気味になって言う雲仙の配慮も虚しく、安住は声質を変えることなく「ラーメンが食えねえだろ」となぜか怒り気味にそう答える。安住はこの喫茶店のマスターである。

「喫茶店てのはよ、朝は早くから客の来ねえ間もずっと店を開けて、夕方過ぎまで閉めることはできねえんだ。そしたらいつラーメンを食いに行く? 夜しかねえだろ」

 ああ、やっぱり頭おかしい、そういう変な論理を他に客のいる店内で大っぴら気に言うことは。この男はきっと、細胞レベルでイカレている。

「あえてじゃあラーメンを食うなとは言わないが、それとさっきのネーミングの話と、どう関係がある」

 雲仙がそう言うと安住は「いいか、治安を良くすればいいだけだ。簡単だ」と、何の懸念もなくそう言った。

「治安を良くする?」

 雲仙は繰り返して言う。この街で「治安」と言えば、続く下の句は「悪い」だと、この街で育つものなら学校に入る前に周囲の人間から教えられることだ。

 安住は「簡単だ」と言ったきり、悪役が不適に笑うような表情で何も言わなかった。雲仙もあえて掘り下げようとはしない。まったくこの男は、何を考えているのか分からない。

 ぞろぞろと他の客が会計を済ませていく。一人、また一人と店を出て行き、最後に残った雲仙も、会計を済ませていた。

「浮かない顔をしていると思ったが、よく考えればいつものことだった」

 安住はレジからお釣りを取り出しながら、雲仙にそう言った。雲仙は「ん? ああ」と言って、「精神科医とは、そんなもんさ」と続けて言った。

「そうか、それは納得だ」

 どこになにを納得するところがあったのか知らないが、雲仙は「また」と言ってチラ、と荘厳な造りの時計を見てから店を出て行く。

「気を付けて。またらっしゃい」

 安住は言って、雲仙の背中を見送った。

 気を付けて。

 この街じゃ、誰かと別れる際には必ずと言っていいほど相手からかけられる言葉だ。

 チリンチリン、と扉を開けて店を出て行く。チラ、とさっき時計を確認すると八時前で、喫茶アズミは閉店の時間だ。

 ——プルルルル——プルルルル

 夜道を歩いていると、ポケットの携帯電話から着信が鳴った。開いてみると、彦山総司、の四文字だった。彦山は修行時代の後輩であるが。

「もしもし、どうした」

 何事か、と雲仙は思った。何か、こんな自分に電話を掛けなければならないような事態が起こったのか、と想像して、少し緊張する。

【もしもし、ご無沙汰してます、彦山総司です】

 声質から、雲仙の知るあの触れたら火傷をするような男とはあまりにも似ていない気がしたので、「ああ、彦山」ととりあえず間をつなぐことしか言えない雲仙。彦山は、修行時代に雲仙が在籍していた道場に十八歳のころ現れ、いつの日からか、雲仙も含めすべての年上たちを超えていき、たった二年で日本一になった男。

 その彦山がいったい自分に、何の用か。

【雲仙さん、僕ももうすぐ道場を開くことになりまして】

 彦山は八つ下だから、いま二十四歳。それにしても二十四歳、か。八つも下の後輩に少し緊張を感じている自分に対して、彼が生まれる前から空手をしてきているのにな、と少し情けなさを感じる雲仙。

「ああ、それはおめでとう」

【ありがとうございます。それで、雲仙さんに相談したいと思いまして、今度そちらで会えませんでしょうか】

 彦山の口調はとても丁寧だった。道場を卒業し、精神科医として生き始めた雲仙は、ここ二、三年ほどの彦山を知らない。雲仙の知る彦山は、触れるな危険、の男だ。

「ああ、そういうことなら今度、会おう。追ってまた、メールしておく」

【はい、よろしくお願いします】

 短い電話だった。電話口の声は彦山っぽくなかったが、無駄なものをなるべくそぎ落とした簡潔な会話は、確かに彦山らしいな、と雲仙は思う。
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