第68話 二人は服を買いに行く

文字数 3,169文字

 千尋がパソコンで何かの作業を終えるころ、出勤してきた他の司書と交代した。時刻は九時前だった。

 佐賀は、開館前の準備を全て千尋にやらせているのだから、他の司書たちはさぞやる気のない、冷たくて酷い連中なのだろうなと思っていたが、その交代した三十代ぐらいの司書女は愛想よく、「ごめんねいつも」と千尋に申し訳ない表情をして言っていたものだから、ああきっと家事とか送り迎えとか、その人その人で事情がある中で、千尋は自分には何ができるかと考えているのだろう、と感じた。千尋はそちらこそ申し訳なさそうに「いえいえとんでも」と返していた。だからこそ千尋はいろんな人から大事にされるのだな、と思えた。

「行きましょう」

 千尋は言って、適当に本を読んで待っていた佐賀に声をかける。三十代の司書女は不思議そうに佐賀のことを見ていたが、千尋の方を見て、なるほどね、とでも言いたげに微笑むのだった。

 朝の電車に乗る。通勤のピークを過ぎた頃で、乗客はそれほど多いわけではなく、二人は並んで座った。

「そういえばこの前、五十嵐と合ったんだ」

「五十嵐君ですか? どこで」

 小さな声で二人は話す。立っている人はいない。

「電車に乗ろうとしたら、電車から出てきた」

「へえ、凄い偶然ですね」

「ああ」

 そのとき、スーツの裾から見えた痣のようなものの話は、しないほうがいいかと思ってしなかった。

「こう見ているとまあ、人々、群衆っていうのはさ、大きな流れを持っているように感じるときがある。もちろん俺もその中にいる。あの祭りのことだ」

 佐賀は言う。千尋は聞いている。車内は空いている。

「ハンカチを落としたんじゃないかって、君は声を掛けられた。違うと言っても、たぶんその不器用な男は『そうですか』って下がれなかったんだ。その様子を五十嵐が違和感に感じて仲裁に入ると、そこから段々、波が大きくなった」

 千尋はその話を聞いていて思い出す。確かにあれは何気ないことが発端して、大きなことになってしまった。

「そこに次に入ったのは、俺の先輩の椎名さんっていう人だ。それで相手も何が何だか分からない中で、とっさに収納ナイフを出してしまった。普段から持ち歩いているのもおかしいけど、何もなければ、出すこともなかったんだろう。それで事態は収拾がつかなくなった。周りには群衆ができて、騒がしくなった。『危ない!』とか、『逃げろ!』とか、群衆はそう叫んだ。その様子を見ていて、俺はもう、構わず蹴った。それが最適だと思った。すると事態は簡単に解決して、群衆は散らばった。要はさ」

 千尋は千尋なりに、あれから考えていた。あれは本当は、深刻なことでも、なんでもないのだ。ただただ、小さな歯車が何度か噛み合わなくて、でも、それを取りまく群衆の流れがあって、波が大きくなって、最初はゆらゆらした凪だったのが、いつの間にか激しい大波に変わっていった。その様子を後ろから見ていた千尋には、それは見ていて収拾のつかない、少し、怖いことだった。

 佐賀は言葉を続ける。

「要は、そういったものを解決するのは暴力しかないのかって。いまでも普通に、思うんだ」

 何か問題があって、そこに人々の流れがあって、もうどう考えても収拾がつかない、この流れは誰にも変えられない、本当にそうなったときだ。たった一回の蹴り、たった一発の銃弾、爆弾。それらの圧倒的な暴力がこの流れに加わったとき、他のあらゆる言説よりもはるかに爽快な力を持って、流れを変えることができるのではないか。

「それは、そういうものだと思います」

 千尋は普通に、そう返す。千尋もあれから、考えている。いたって冷静に、賢明に。

「やっぱり、根本的に大きな力を持っているのはその、暴力なんだと思います。物理的な力には誰も逆らえません。佐賀さんもあの時は、あれでよかったんだと思います。そのときにできる最善のことなら。でも」

 あれで本当によかったのか。佐賀がそう思っていると、

「でも、それ以外にも何か手段はあるんだって、そこを信じることを止めてはいけないと思います。本当にあるかどうかは分かりませんが、あるんだって、信じるというか。この方法以外にもあるかもしれない、でもいまはこれしかできないから仕方がない、だから次のためにこれからも考えることを止めてはいけない、というか」

 千尋はそう言った。ああ、と佐賀は思った。この女性は掬おうとしているな、と佐賀には見えた。

「ラインを引いてしまえば、その先を見る努力を怠る。そうだ、掬うというのは、考え続けるということだろう」

 佐賀が独り言のようにそう言うと、それから静かに、二人は電車に揺られていた。佐賀はあの後、佐賀が帽子の男のこめかみに蹴りを入れた後、千尋が自分のことをじっと見ていたことを思い出していた。その目は救いのヒーローを見るような目ではなかったように思う。本当にそれ以外の手段はなかったのかと、じっと考える目だった。

「ヘロさんは、もう亡くなったんです」

 電車を降りて二人で歩いていると、千尋は急にそう言った。佐賀は「え?」と聞き返した。駅を降りたここは、英雄のいない街だ。

「もう今年の初めから、ヘロさんは一度も姿を見せていません」

 紅一色のスーツ、白い髪、じゃああれは誰だ、と佐賀は思う。

「何のこと?」

佐賀は聞き返す。理解が追い付かない。

「そうですね、佐賀さんは本当に偶然、というか。よく分からないですけど」

 千尋は、ヘロが去年まで普通に、その時間、その場所に現れていたのが、まるで亡くなってしまったかのように今年の始めから、その姿を見せなくなったということを話した。佐賀の思考のパズルが、物凄いスピードで噛み合っていく。

「誰も何も言わないですけど、本当は皆、決心していたんです、この半年間。やっぱり、英雄にずっと頼っていてはいけないって。この街の綺麗さ、治安の良さを守っていくのは、英雄ではなくて私たち。私たちこそ英雄にならなければいけないんだって。この半年、大事な時期だったんです」

 大事な時期。何も、掛けてやれる言葉はない。頑張っている人間に対して。

「私も、それで凄く悩んだんです。私はそんなに強い人間でもないですし、これまでその精神性の後ろ盾をヘロさんに頼っていたのが、これからは一人でやって行けるのかって」

 強い目。図書館で初めて近くでその目を見たとき、そう、その目は強かった。

「そんな中です。ヘロさんが現れました。偶然にも、佐賀さんと一緒にいたあの時です。私、ひっそりと亡くなられたんだと思っていたので。思わず声が出ました。『あ』って」

 英雄の姿を見て、「あ」と言ってしまう千尋。

 ずっと別の思考軸で考えている絵の制作が、このとき、確かな輪郭を持って佐賀の目の奥に現れた。そうか、あの表情は、そういうことか。人々の目は、そういうことか。

「ヘロは、亡くなったと思っていたんだ。この街の人たちは」

 佐賀から、そんなセリフが出て来る。自分は何か、壮大なものを見ている気がする。そしてその大きな文脈に、関わっている気がする。喫茶女房から聞いた。その話をもとに考えると、昔も、似たようなことがあった。それが引き継がれて、同じようなことがいま起こっている。

「はい、でも皆もう、ヘロさんには頼りません。本当は笑顔でフランクで接したくても、強い芯をもって、そう、固い決断をした半年でしたから」

 佐賀の中で、全ての合点が行く気がする。これまで集めていたパズルのピースとピースが、ピタピタピタピタと次々にはまっていく。思わす「ああ」と声が出てしまう。

「そうか。暴力なんて、くだらない」

 佐賀は急に、笑えてきた。千尋は、何か面白いことでもあったかな? とでも言うように、でも笑っている佐賀のことを、面白そうに窺っている。二人は服を買いに行く。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み