第58話 「不穏な気」と「フィクションにおける未来」
文字数 3,945文字
不穏な気がする。
雲仙はその日の朝、そう思った。
まず、コップが割れた。真希は上京して大学で一人暮らしをしているから、割ったのは他でもない、雲仙だ。朝ご飯を作り、一人で食べ、シンクに持って行くときに重ねて持っていった。それが悪かった。細長い形状のコップだったから、バランスを崩して床に落とした。一発でコップは割れてしまった。
気がたるんでいる証拠だ。
そう自分を戒めながらコップの残骸を一人、黙って片付けた。
外を出ると、雲行きの怪しいのが向こうの空に分かった。彼方から邪悪な色をした雲が、街を覆ってやってくる感じ。それで雲仙は傘を持って行こうと思ったのだが、傘立てに傘が無いことに、そこで気が付いた。はっと雲仙は、先日、傘を喫茶アズミに忘れてきたことを思い出した。
不覚。
そう思いつつ、雲仙は帰りに喫茶アズミに寄って帰ることにしようと決め、駅へ向かった。途中で降ってくれば、コンビニかどこかで買うしかない。
「おはよう」
十月。一日の寒暖差が激しい季節だ。毎日、この街の英雄がこの駅の前で人々に挨拶をしていることを知っている雲仙は、ちょっと勇気を出して後ろから近寄ってそう言ってみた。
「おはよう!——」
とヘロは振り返って元気に言う。言った傍で、ああ、雲仙、みたいな表情になった。疎遠になってしまってから、初めてかもしれない。
「どこ行くんだ」
「骨董美術のオークションだ。あれは、買わなくても面白い」
「そんな金ないくせに」
「質素な暮らしが一番」
そこで会話が一段落付いて、
「じゃ」
「じゃ」
と離れた。雲仙は振り返らずに前を歩いた。今朝の不穏な気は、少しだけ和らいだ。
その日は面白い品もなく、雲仙はすぐに会場を出た。
自動ドアを抜けると、現世に戻ってきたような気がする。映画を見終わって照明が点いたときのような、あの戻ってきた感じだ。
なんとなくの気持ちでコンビニに入ると、商品が百円やそこらで売ってあるのが安すぎるように見える。つまり金銭感覚にバグが起こっている。
曇天の空。傘を買っておこうか、と思うが降らなければ勿体ないので缶コーヒーでも買う。すぐに飲んでゴミ箱に捨てる。
それにしても——
雲仙は自分の住む街以外の街の道を歩いていて、思ってみる。
ゴミが多いな。
そう、ゴミが多い。実際は多いのかと言えば、そう多いわけではない。しかしあの街に住んでいる者として見るならばそう、ここはゴミが多い。
ウチの街のなんと綺麗たることか——そう思いつつ雲仙は歩いて行く。
時刻は六時過ぎ。
電車で住まいの最寄りまで帰って来て、雲仙は忘れた傘を取りに喫茶アズミへの道を辿っていく。相変わらず曇天なのだが、雨は不思議と降らない。
扉の前に立つと、
「準備中」
という掛け看板が扉には掛けられていた。
準備中?
雲仙はそう声に出して言ってしまいそうだった。外観は普通に営業をしているようで、シャッターも下ろされていないし。中は電気が付いている様子。
急用か?
だったら鍵は閉まっているはずだと思い、雲仙は扉をグッと開けてみた。
すると——
チリンチリンッ!
閉まっているものだと思っていたので勢い余って大きく扉が開いた。
開いた。
そう思うのも束の間、雲仙は視界に異様なものを見る。
ヘロ——、いや、安住……!。
ズタボロの男が椅子に、天井を見上げて生気を失った様子で座っていた。自前の紅一色のスーツは砂や泥に汚れ、安住の頬には、抉れた傷が赤黒く生々しい。
「おいっ!」
雲仙は何よりもまず、声が出た。グワ、と目に血がいって、それから身体が動き出す。
「どうした!」
雲仙の焦燥、切迫感からは信じられないほど不釣り合いなボケッとした表情で、安住は「——あ?」と答えた。なんかいま聞こえたな、みたいな風合いだった。
「川端さんは!」
話が聞こえているのか分からない相手に、なおも雲仙は問いを続ける。しかし当の本人は、まるでそこに蝶々がとんでいるのか、何らかの文字が見えているのか、面白くもつまらなくもなさそうな目で中空を見ているだけだ。
ようやっと、雲仙は——話が通じない、という理解に思考が追いついた。すごく雲仙は、そのことに対して冷静に頭の中を整理することが出来た。それは精神科医として日ごろ、このような患者と保つべき距離というものを心得ているからなのかもしれない。
チリンチリン
扉が開けられた。振り返ると、川端が買い物袋を持って入ってくる。
「あら、雲仙さん」
川端さんの物言いは、やけに平生で、何か、もうすぐ行く特攻兵を見送る家族のような、そんな達観が不思議と感じられるものだった。
「酷い怪我だ! それに、頭もやられているかもしれない」
雲仙は川端さんに言う。肉迫する雲仙の空気感とは相いれない時空に安住と川端はいるようだ。それで川端さんはすたすたと黙って近づいて来て何を言うかと思えば、
「良くないですよ安住さん」
言って、買い物袋を「よいしょ」と安住の前のテーブルに置く。
「安住さん」
酔った連れ添いが風邪をひきそうな薄着で寝ているのを諦観とともに注意するような、そんな慣れた語調だった。
「——ぶはっ」
安住はそう堪え切れなくなったものが噴き出したかのように反応し、姿勢を取り戻す。
「頭がやられてる?」
安住は先ほどの魂の抜けたような様子からは一変して、いつものまともな——とは言い難いが——様子、言動になっている。
「は? あ?」
雲仙は自分がまんまとこの男の罠にかかったことを受け入れるのに、ちょっと思考の中で時間がかかった。
「大丈夫なのか?」
雲仙は少しそれを受け入れる門が心の中で開くと、確認をするようにそう言う。
「何言ってる。大丈夫だ」
川端さんは買い物袋から消毒液や包帯、サプリメントを取り出している。雲仙がこれほど感情をあらわにすることも珍しい。
「いや、頭の方は分かった、怪我の方だ。それはどう見ても、本物の怪我だろう」
そう言われて安住は初めてその怪我が己の怪我だったことを思い出したかのように、
「ああ、これな。痛え」
軽快な調子で言う安住だが、一瞬でも気を抜くとその顔は痛みに歪んでしまいそうな、そんな張り感を持っていた。傷は、隠しようもなく生々しい。
「大丈夫じゃないだろ」
いったい何があったのか。今朝、駅の前で会ったときは怪我などしていなかった。いつもの安住だった。
「誰にやられたんだ」
雲仙の口から出たその言葉は、大気の振動をピタ、と止めさせた。
「階段から落ちたんだ。だから誰にやられたのかと言えば、階段だ」
雲仙はそう言っている安住を黙ってじっと見つめていた。その無言の目が、「そんなはずないだろう」という雲仙の主張を十分に物語っていた。
「言ってどうなる」
安住は観念して言った。二人は親友だ。
「仇を取ってやる」
雲仙は返した。川端はその会話から少し遠い空気の中で、黙って消毒液や包帯の封を開けたりしている。
「頭の悪い考えだ。雲仙、俺はチンピラ集団に殴ったり蹴られたりされたわけじゃない。階段で押された、それだけだ」
「それだけ? それが核心だろ」
「いや、あれは事故だ」
「教えろ。どこでやられたんだ」
「雲仙」
安住は、三十年の付き合いの男の名を、一度、呼んだ。雲仙もその一言の重みには、口を閉じて静かにしなければならなかった。
「お前は分かっていない。俺は英雄じゃない」
「英雄じゃない?」
雲仙はそう言われてみて、何か、それを完全に否定することはできいない何かを、自分の中にある引っ掛かりとして感じた。しかし、
「英雄じゃないか。お前は英雄と呼ばれ、多くの人々から称えられている」
雲仙はそう返す。この場においてそれは意を外れている言動かもしれないと思っていたが、何か、譲ることができなかった。
「英雄はお前だよ雲仙」
安住は言った。高ぶっていた雲仙の胸には、このとき疾風が吹いた気がした。
「分かったんだ、お前の言っていることの意味が。この街は確かに、ここ十年で変わった。治安が悪かったのが良くなった。綺麗な街に変わった。それを人々は、俺のおかげだという。英雄のおかげだと。でも違う。この街を実際に変えたのは、この街に住む人々だ、この街に住む人々の行動、精神だ。俺はそこに影響することしかできない。皆、勘違いしている。俺は英雄じゃない。皆が英雄なんだ」
「——」
川端さんが消毒液を持って、安住の頬の傷口にピーと噴射する。いっ、と安住は瞬間的に反応するが、川端が手を止めないので、観念した安住は沁みる痛みを受け入れるしかない。
「これだけで済んだからいいですよ、まったく」
川端は既にその話を安住から聞いたのだろうか。そのときの感情は過去のものとして、いまを見れるだけの余裕があるみたいに思える。
「それと、その怪我の話は関係ないだろう」
雲仙は、安住のその話はいったん受け入れて、そう言った。胸に吹く疾風の中でも、その怪我を負わせた誰かから雲仙はまだ目を離すつもりはない。
「皆が英雄になる。俺の影響でそうなってくれる中で、どうしても、そこから取りこぼされる人間はいる。気持ちとか、根性とか、その次元の話じゃない。そういう人間に対して、俺はとても酷なことをしていると知ったんだ、今日」
雲仙は、ゴミなんてない、という普段の思考をなぞる。でも実際、ゴミはゴミのままだ。
「どういうことだ」
雲仙がそう聞き返すと、一瞬、川端さんの動きが蛇に睨まれたように止まった気がした。
「はあ」
安住は、風船の口から空気が抜けていくみたいに、深く息を漏らした。川端はそれで、安住をじっと見ている。
「何もしないと誓えよ」
安住はそう前置きを置いた。
「約束はしない」
雲仙は答えた。
「まあいい」
安住は話し始めた。
雲仙はその日の朝、そう思った。
まず、コップが割れた。真希は上京して大学で一人暮らしをしているから、割ったのは他でもない、雲仙だ。朝ご飯を作り、一人で食べ、シンクに持って行くときに重ねて持っていった。それが悪かった。細長い形状のコップだったから、バランスを崩して床に落とした。一発でコップは割れてしまった。
気がたるんでいる証拠だ。
そう自分を戒めながらコップの残骸を一人、黙って片付けた。
外を出ると、雲行きの怪しいのが向こうの空に分かった。彼方から邪悪な色をした雲が、街を覆ってやってくる感じ。それで雲仙は傘を持って行こうと思ったのだが、傘立てに傘が無いことに、そこで気が付いた。はっと雲仙は、先日、傘を喫茶アズミに忘れてきたことを思い出した。
不覚。
そう思いつつ、雲仙は帰りに喫茶アズミに寄って帰ることにしようと決め、駅へ向かった。途中で降ってくれば、コンビニかどこかで買うしかない。
「おはよう」
十月。一日の寒暖差が激しい季節だ。毎日、この街の英雄がこの駅の前で人々に挨拶をしていることを知っている雲仙は、ちょっと勇気を出して後ろから近寄ってそう言ってみた。
「おはよう!——」
とヘロは振り返って元気に言う。言った傍で、ああ、雲仙、みたいな表情になった。疎遠になってしまってから、初めてかもしれない。
「どこ行くんだ」
「骨董美術のオークションだ。あれは、買わなくても面白い」
「そんな金ないくせに」
「質素な暮らしが一番」
そこで会話が一段落付いて、
「じゃ」
「じゃ」
と離れた。雲仙は振り返らずに前を歩いた。今朝の不穏な気は、少しだけ和らいだ。
その日は面白い品もなく、雲仙はすぐに会場を出た。
自動ドアを抜けると、現世に戻ってきたような気がする。映画を見終わって照明が点いたときのような、あの戻ってきた感じだ。
なんとなくの気持ちでコンビニに入ると、商品が百円やそこらで売ってあるのが安すぎるように見える。つまり金銭感覚にバグが起こっている。
曇天の空。傘を買っておこうか、と思うが降らなければ勿体ないので缶コーヒーでも買う。すぐに飲んでゴミ箱に捨てる。
それにしても——
雲仙は自分の住む街以外の街の道を歩いていて、思ってみる。
ゴミが多いな。
そう、ゴミが多い。実際は多いのかと言えば、そう多いわけではない。しかしあの街に住んでいる者として見るならばそう、ここはゴミが多い。
ウチの街のなんと綺麗たることか——そう思いつつ雲仙は歩いて行く。
時刻は六時過ぎ。
電車で住まいの最寄りまで帰って来て、雲仙は忘れた傘を取りに喫茶アズミへの道を辿っていく。相変わらず曇天なのだが、雨は不思議と降らない。
扉の前に立つと、
「準備中」
という掛け看板が扉には掛けられていた。
準備中?
雲仙はそう声に出して言ってしまいそうだった。外観は普通に営業をしているようで、シャッターも下ろされていないし。中は電気が付いている様子。
急用か?
だったら鍵は閉まっているはずだと思い、雲仙は扉をグッと開けてみた。
すると——
チリンチリンッ!
閉まっているものだと思っていたので勢い余って大きく扉が開いた。
開いた。
そう思うのも束の間、雲仙は視界に異様なものを見る。
ヘロ——、いや、安住……!。
ズタボロの男が椅子に、天井を見上げて生気を失った様子で座っていた。自前の紅一色のスーツは砂や泥に汚れ、安住の頬には、抉れた傷が赤黒く生々しい。
「おいっ!」
雲仙は何よりもまず、声が出た。グワ、と目に血がいって、それから身体が動き出す。
「どうした!」
雲仙の焦燥、切迫感からは信じられないほど不釣り合いなボケッとした表情で、安住は「——あ?」と答えた。なんかいま聞こえたな、みたいな風合いだった。
「川端さんは!」
話が聞こえているのか分からない相手に、なおも雲仙は問いを続ける。しかし当の本人は、まるでそこに蝶々がとんでいるのか、何らかの文字が見えているのか、面白くもつまらなくもなさそうな目で中空を見ているだけだ。
ようやっと、雲仙は——話が通じない、という理解に思考が追いついた。すごく雲仙は、そのことに対して冷静に頭の中を整理することが出来た。それは精神科医として日ごろ、このような患者と保つべき距離というものを心得ているからなのかもしれない。
チリンチリン
扉が開けられた。振り返ると、川端が買い物袋を持って入ってくる。
「あら、雲仙さん」
川端さんの物言いは、やけに平生で、何か、もうすぐ行く特攻兵を見送る家族のような、そんな達観が不思議と感じられるものだった。
「酷い怪我だ! それに、頭もやられているかもしれない」
雲仙は川端さんに言う。肉迫する雲仙の空気感とは相いれない時空に安住と川端はいるようだ。それで川端さんはすたすたと黙って近づいて来て何を言うかと思えば、
「良くないですよ安住さん」
言って、買い物袋を「よいしょ」と安住の前のテーブルに置く。
「安住さん」
酔った連れ添いが風邪をひきそうな薄着で寝ているのを諦観とともに注意するような、そんな慣れた語調だった。
「——ぶはっ」
安住はそう堪え切れなくなったものが噴き出したかのように反応し、姿勢を取り戻す。
「頭がやられてる?」
安住は先ほどの魂の抜けたような様子からは一変して、いつものまともな——とは言い難いが——様子、言動になっている。
「は? あ?」
雲仙は自分がまんまとこの男の罠にかかったことを受け入れるのに、ちょっと思考の中で時間がかかった。
「大丈夫なのか?」
雲仙は少しそれを受け入れる門が心の中で開くと、確認をするようにそう言う。
「何言ってる。大丈夫だ」
川端さんは買い物袋から消毒液や包帯、サプリメントを取り出している。雲仙がこれほど感情をあらわにすることも珍しい。
「いや、頭の方は分かった、怪我の方だ。それはどう見ても、本物の怪我だろう」
そう言われて安住は初めてその怪我が己の怪我だったことを思い出したかのように、
「ああ、これな。痛え」
軽快な調子で言う安住だが、一瞬でも気を抜くとその顔は痛みに歪んでしまいそうな、そんな張り感を持っていた。傷は、隠しようもなく生々しい。
「大丈夫じゃないだろ」
いったい何があったのか。今朝、駅の前で会ったときは怪我などしていなかった。いつもの安住だった。
「誰にやられたんだ」
雲仙の口から出たその言葉は、大気の振動をピタ、と止めさせた。
「階段から落ちたんだ。だから誰にやられたのかと言えば、階段だ」
雲仙はそう言っている安住を黙ってじっと見つめていた。その無言の目が、「そんなはずないだろう」という雲仙の主張を十分に物語っていた。
「言ってどうなる」
安住は観念して言った。二人は親友だ。
「仇を取ってやる」
雲仙は返した。川端はその会話から少し遠い空気の中で、黙って消毒液や包帯の封を開けたりしている。
「頭の悪い考えだ。雲仙、俺はチンピラ集団に殴ったり蹴られたりされたわけじゃない。階段で押された、それだけだ」
「それだけ? それが核心だろ」
「いや、あれは事故だ」
「教えろ。どこでやられたんだ」
「雲仙」
安住は、三十年の付き合いの男の名を、一度、呼んだ。雲仙もその一言の重みには、口を閉じて静かにしなければならなかった。
「お前は分かっていない。俺は英雄じゃない」
「英雄じゃない?」
雲仙はそう言われてみて、何か、それを完全に否定することはできいない何かを、自分の中にある引っ掛かりとして感じた。しかし、
「英雄じゃないか。お前は英雄と呼ばれ、多くの人々から称えられている」
雲仙はそう返す。この場においてそれは意を外れている言動かもしれないと思っていたが、何か、譲ることができなかった。
「英雄はお前だよ雲仙」
安住は言った。高ぶっていた雲仙の胸には、このとき疾風が吹いた気がした。
「分かったんだ、お前の言っていることの意味が。この街は確かに、ここ十年で変わった。治安が悪かったのが良くなった。綺麗な街に変わった。それを人々は、俺のおかげだという。英雄のおかげだと。でも違う。この街を実際に変えたのは、この街に住む人々だ、この街に住む人々の行動、精神だ。俺はそこに影響することしかできない。皆、勘違いしている。俺は英雄じゃない。皆が英雄なんだ」
「——」
川端さんが消毒液を持って、安住の頬の傷口にピーと噴射する。いっ、と安住は瞬間的に反応するが、川端が手を止めないので、観念した安住は沁みる痛みを受け入れるしかない。
「これだけで済んだからいいですよ、まったく」
川端は既にその話を安住から聞いたのだろうか。そのときの感情は過去のものとして、いまを見れるだけの余裕があるみたいに思える。
「それと、その怪我の話は関係ないだろう」
雲仙は、安住のその話はいったん受け入れて、そう言った。胸に吹く疾風の中でも、その怪我を負わせた誰かから雲仙はまだ目を離すつもりはない。
「皆が英雄になる。俺の影響でそうなってくれる中で、どうしても、そこから取りこぼされる人間はいる。気持ちとか、根性とか、その次元の話じゃない。そういう人間に対して、俺はとても酷なことをしていると知ったんだ、今日」
雲仙は、ゴミなんてない、という普段の思考をなぞる。でも実際、ゴミはゴミのままだ。
「どういうことだ」
雲仙がそう聞き返すと、一瞬、川端さんの動きが蛇に睨まれたように止まった気がした。
「はあ」
安住は、風船の口から空気が抜けていくみたいに、深く息を漏らした。川端はそれで、安住をじっと見ている。
「何もしないと誓えよ」
安住はそう前置きを置いた。
「約束はしない」
雲仙は答えた。
「まあいい」
安住は話し始めた。