第60話 傲慢でなく事実
文字数 1,643文字
「帽子を深く被った男」
説明を受けた雲仙は復唱する。
「なんだ、お前のとこの患者じゃないのか」
「初診で来たのかもしれない。少なくともそんな人物に心当たりはない、がしかし」
雲仙は、何か自分の中にもそうした人間を度外視しているような、そんな引っ掛かりを覚える。だから完全にその人物を否定することができない。
「どこへ行ったんだ、そいつは」
雲仙が聞くと、安住は「知らん」と返す。
「駅の方へ行ったと思います」
そこで初めて、川端が会話に入ってきた。
「川端さん」
安住はそう、この女性の名前を呼んだ。何かを口止めするような含意が、その音質には込められていた。
「いえ、でもそれだけです。そのときは安住さんの介抱で頭がいっぱいだったので、そういえばそんな人が急いで階段を降りて来て駅の方へ向かっていたな、くらいにしか」
川端が言い終わると、場に静かな空気が流れた。
「今日限りで辞める。ヘロは」
ポツリ、と重大なことをいま、安住は言った。
「何だって?」
雲仙は聞き返す。川端は、既にそれを知っているのか、驚く様子はない。どこまで知っているのか。川端には、もう全ての覚悟ができているように見える。
「人々に英雄と呼ばれることについて自分の中でそれは違うと思っているつもりではいたが、それでも俺はどこかで、街の英雄として皆の心の支えになっている、なんて傲慢な思考を、いつからか持っていたのかもしれない」
「傲慢じゃない。それはそれで事実だ」
雲仙はそう言い返す。お前は凄い奴だと。それは、雲仙には譲れない。
「いや傲慢だ。もっと早い段階で気づくべきだったんだよ。言い方は悪いが、世の中、どうしても救われない人間がいるってことを。そしてそのような人間にとって、英雄なんて存在は一ミリの意味もないんだということを」
雲仙は、日々、自分の下にやってくる精神病患者を思い出していた。この街にヘロという存在が現れてなお、何も変わらない彼、彼女ら。声が届かない、何も響かない、そしてそのことに対して、確かに自分もそれを傍から見ている、度外視している、ゴミはゴミだと思っている、その自覚はある。
「いや寧ろ、生きづらくなっていくのかもしれない。知らず知らずのうちに、規範のレベルが上がっていくとそこからはぐれた人間にはそれを正そうとする外圧がかかる。そこに対応できなかった人間はいつの間にか除外される。俺を階段から突き飛ばした彼は、この綺麗で治安のよい街で、きっと知らぬ間に除外されてしまったんだ」
雲仙は何も返す言葉が無かった。なぜなら自分も、そうやって除外する側に立っている一人だからだ。ゴミをゴミじゃなくさせるために自分には何ができるか、そういうことを考えているが、「ゴミ」だと言う最初の時点でその人を除外してしまっている。
「……行ってくる」
雲仙がそう言うと、誰の返答も待たずどこかへ行こうとする。
「どこへ!」
くっ、と動こうとすると痛みが走り、動けない安住。落ちたときはアドレナリンが出ていたのか、それが引いたいまは動くと痛い。
「とりあえず、そいつを見つけ出す。話はそこからだ」
雲仙はそう言うと、扉を開けた。とにかくこの四十年来の親友をこれほど怪我させた人物を、そのままにさせてはおけない。話は、それからだ。
チリンチリン——
「おいっ!」
安住はその背中に叫ぶ。川端も雲仙を止めようと動いたが、しかし完全な意思をもって止めようとしたのならば踏みとどまるはずのない二歩目に、このときの川端の立場が集約されているようだった。
安住は、あの男が武術の達人であることをこのとき、その計り知れない危険性について考えを巡らせた。
誰か、止められる人間はいないか。
——彦山総司。
安住の思考に、懐かしい人物が現れた。雲仙を慕っている後輩で、空手の日本チャンピオン。何度か、お店にも来てくれた。ここからも、そう遠くはないところにいると聞いている
連絡先も、雲仙から聞いている。時刻は夕方、六時半。安住はとっさに、彼に電話を掛けた。
説明を受けた雲仙は復唱する。
「なんだ、お前のとこの患者じゃないのか」
「初診で来たのかもしれない。少なくともそんな人物に心当たりはない、がしかし」
雲仙は、何か自分の中にもそうした人間を度外視しているような、そんな引っ掛かりを覚える。だから完全にその人物を否定することができない。
「どこへ行ったんだ、そいつは」
雲仙が聞くと、安住は「知らん」と返す。
「駅の方へ行ったと思います」
そこで初めて、川端が会話に入ってきた。
「川端さん」
安住はそう、この女性の名前を呼んだ。何かを口止めするような含意が、その音質には込められていた。
「いえ、でもそれだけです。そのときは安住さんの介抱で頭がいっぱいだったので、そういえばそんな人が急いで階段を降りて来て駅の方へ向かっていたな、くらいにしか」
川端が言い終わると、場に静かな空気が流れた。
「今日限りで辞める。ヘロは」
ポツリ、と重大なことをいま、安住は言った。
「何だって?」
雲仙は聞き返す。川端は、既にそれを知っているのか、驚く様子はない。どこまで知っているのか。川端には、もう全ての覚悟ができているように見える。
「人々に英雄と呼ばれることについて自分の中でそれは違うと思っているつもりではいたが、それでも俺はどこかで、街の英雄として皆の心の支えになっている、なんて傲慢な思考を、いつからか持っていたのかもしれない」
「傲慢じゃない。それはそれで事実だ」
雲仙はそう言い返す。お前は凄い奴だと。それは、雲仙には譲れない。
「いや傲慢だ。もっと早い段階で気づくべきだったんだよ。言い方は悪いが、世の中、どうしても救われない人間がいるってことを。そしてそのような人間にとって、英雄なんて存在は一ミリの意味もないんだということを」
雲仙は、日々、自分の下にやってくる精神病患者を思い出していた。この街にヘロという存在が現れてなお、何も変わらない彼、彼女ら。声が届かない、何も響かない、そしてそのことに対して、確かに自分もそれを傍から見ている、度外視している、ゴミはゴミだと思っている、その自覚はある。
「いや寧ろ、生きづらくなっていくのかもしれない。知らず知らずのうちに、規範のレベルが上がっていくとそこからはぐれた人間にはそれを正そうとする外圧がかかる。そこに対応できなかった人間はいつの間にか除外される。俺を階段から突き飛ばした彼は、この綺麗で治安のよい街で、きっと知らぬ間に除外されてしまったんだ」
雲仙は何も返す言葉が無かった。なぜなら自分も、そうやって除外する側に立っている一人だからだ。ゴミをゴミじゃなくさせるために自分には何ができるか、そういうことを考えているが、「ゴミ」だと言う最初の時点でその人を除外してしまっている。
「……行ってくる」
雲仙がそう言うと、誰の返答も待たずどこかへ行こうとする。
「どこへ!」
くっ、と動こうとすると痛みが走り、動けない安住。落ちたときはアドレナリンが出ていたのか、それが引いたいまは動くと痛い。
「とりあえず、そいつを見つけ出す。話はそこからだ」
雲仙はそう言うと、扉を開けた。とにかくこの四十年来の親友をこれほど怪我させた人物を、そのままにさせてはおけない。話は、それからだ。
チリンチリン——
「おいっ!」
安住はその背中に叫ぶ。川端も雲仙を止めようと動いたが、しかし完全な意思をもって止めようとしたのならば踏みとどまるはずのない二歩目に、このときの川端の立場が集約されているようだった。
安住は、あの男が武術の達人であることをこのとき、その計り知れない危険性について考えを巡らせた。
誰か、止められる人間はいないか。
——彦山総司。
安住の思考に、懐かしい人物が現れた。雲仙を慕っている後輩で、空手の日本チャンピオン。何度か、お店にも来てくれた。ここからも、そう遠くはないところにいると聞いている
連絡先も、雲仙から聞いている。時刻は夕方、六時半。安住はとっさに、彼に電話を掛けた。