第48話 彦山と真希

文字数 4,117文字

「道場はうまくいってるか」

 広いキッチンで二人分のお茶を淹れている雲仙が聞くと、ダイニングテーブルの椅子に座っている彦山は声に暗がりを灯して、

「いえ、明日たたんでもおかしくない、という日々が続いていて」

 と心の内を吐露した。そうか、と思いつつ、雲仙は湯飲みと急須を盆にのせてテーブルに来る。他に誰もいないリビングは、静かだ。

「何があった」

 雲仙が聞くと、彦山は少し躊躇して、しかし意を決したように「何年か前です。中学生の子で、学校で大暴れした子がいまして」と続ける。

「学校の先生も手が付けられなかったみたいで。中学生にはもう、僕は殺人拳になるレベルの空手を教えていましたので。それで地域でのイメージが悪くなって、新しい子もほとんど入って来ず」

「そうか」

 雲仙は事の成り行きを理解した。空手は文字通り空の手、手が凶器だ。その子に自覚があったのかは知らないが、大暴れしたというのは、その子は凶器を振り回していたことになる。その責任を問われるのは、そんな凶器を不用意に握らせた空手の先生、彦山だ。

 病院も経営が成り立ち、同時にやっている空手道場も賑わいを見せている雲仙は、この後輩に「お前は、どうしたいんだ」と言った。

「え?」

 彦山は少し顔を上げるようにしてそう返す。雲仙は急須から熱いお茶を湯飲みに注ぐ。

「お前が教えている空手は、いまの子たちの心にはなかなか響かない空手だ。しかし激しい練習だから肉体や技はいたずらに向上してしまう。お前は日本一になった、技術は素晴らしいものを教えられる。しかし、心がそこに追い付かないから問題が起こる。俺も、本当に教えたいのはそういう空手なんだ、激しい練習と、水を打ったような心の修行。でも俺にはできない、難しい。心を育てるというのは、空手だけじゃない、生活の質とか、人生とか、それは技術的に、俺には難しい」

「いえ……そうですね。そうなんですけど、それがあの子らにとって正しいのかどうか。加減してもう少しやわな稽古にすべきか。もう少し世の中に合わせるというか」

 数回に分けて両方に茶葉の色が出るよう注いでいく。最後の一滴を彦山の方に落とすと、音もなく揺れる波紋がお茶の香りをより一層ひきたてる気がした。

「さあ」

 彦山の分を差し出すと、「ありがとうございます」と両手でそれを包むように彦山は受け取る。

 彦山は一口飲んで、少し、静かで大きなリビングルームを改めて感じた。他に、誰もいない。希世は半年前に他界した。雲仙とは、今日は葬式以来だ。

 雲仙は自分の湯飲みの熱い水面に視線を落としながら、口を開く。

「正しいか、なんて誰にも分からない」

その子たちにとって正しいのかどうか、それに対する、雲仙の答えだった。

「要は結果だ。そして結果は後で分かる、そうだろ。彦山に真の意味での弟子が出来て、その弟子が大きくなって何を大成するのか、空手だけじゃなくてもそれぞれの道で。いまはその結果につながる過程であって、そこにお前は携わる。その過程が正しい、間違っているというのは、結果が決めることだから誰にも分からない。誰もが間違っていると批判する過程を踏んで、誰もが正しいと賞賛する結果を得る人間も、世の中には少なくない」

 雲仙はそこで少し、熱いものを口に含んだ。誰もが間違っていると批判する過程を踏んでいる者といえば、ありえないくらい練習を行っていたまさに彦山である。そして、結果からすればそこに文句を言えるものなど誰一人いない。

「いいか、迷ってはだめだ。正しいか間違っているか、そんなものは後で考えればいい。いまはとにかく最善を尽くして前へ進むんだ。そこでお前が迷っていては、いまの稽古生に失礼だろ。その子が問題を起こしたのは、お前の迷いが生じさせてしまったものかもしれない」

 雲仙は超然とした表情だ。別に怒っているわけでもない。ただただ物凄くはっきりとした声と言葉で、思っていることを言語に訳している。

 彦山は、なぜ自分の師匠が「雲仙に相談してもらいなさい」と指示するのか、このとき、初めて分かった気がした。正直、雲仙という八つも上の先輩のことは、道場にいた頃は彦山にとってはただ優しい先輩というだけで、悪く言えば長らく在籍しているだけの古参、さして実力があるわけでもない、というものだった。

「そうですね。僕が迷っていては、いまの子たちに失礼」

 彦山は三十四歳、八つ上の雲仙は四十二歳となる。彦山の知る先輩の中で、道場を離れてからも精神と肉体の修行を続け、実は最も深みへと到達している者はこの雲仙観なのではないかと、そう思えた。

「これからだ。特筆すべき子もいるんじゃないのか。いつの時代のどこの場所にも、そういう子は一定数出て来る。彦山の弟子になれるような子は」

 雲仙が聞くと、彦山は、

「どの子も真面目で良い子たちです。教えられたことを素直に受け取ってくれて、もちろん、そこを生かせるかどうかは僕次第」

 でも、そうですね、と彦山は続ける。

「四歳で入って来た子で、いまは小学二年生なんですが。その子は何か、天性のものというか、周りの子たちとは明らかに違っていてですね。感覚が違う」

「彦山が言うんだ、名前ぐらいは聞いておこうか」

「佐賀け」

 とそこで、階段の下から——ただいまー! と言いながらドタドタ上って来る足音がする。

「真希ちゃんですか?」

 奥から耳に聞こえて、階段の方を振り向いてから彦山がそう言うと、雲仙は「ああ、葬式のとき、少し紹介したか」と返す。

「ただいまー」

 やがて現れて、すると真希からしてはほとんど初対面のおじさんがウチの食卓テーブルに座っていたものだから、「こんにちは」と今度はちょっと静かな声で挨拶する。さっきの「ただいまー!」が少し、そのときの真希には恥ずかしく思えた。

「こんにちは」

 彦山はそう優しく、真希に挨拶を返した。真希はおとなしい猫のような顔つきでペコ、と頭を下げた。

「このまえ十一歳になったな。小学五年生だ」

 座っている雲仙の横に来た娘の頭をポン、と撫でて、雲仙は紹介する。

「で、彦山先生だ。お父さんと同じところで修行した、空手の先生だよ」

 雲仙がそう言うと、真希はいつも聞かされている父親の厳しい修行時代をこのおじさんも経験してきたのかと思うと、このおじさんはお父さんに比べればまだまだだな、と、そのなんとなくの雰囲気に対して認識した。

「私が一番なんだ。うちの道場じゃ、男子よりも」

 真希はちょっと、自慢気に言った。確かに体格で言えば、同じ年齢でも男子より早く発育を迎えた真希は、身長も少し大きくて、強靭なバネのような印象を受ける。

「そうですか。ではよければ今度、お手合わせを」

 彦山は、ちょっとからかい気味に、丁寧な言葉で言った。真希はそう言われると早くも困って、「え」と固まってしまう。組手で言えば、開始数秒で一本を取られてしまったような気がした。

「お、勝てるかな真希」

 雲仙は調子を合わせてそう言う。一応、娘の肩を持ってみる父親だ。真希は、

「勝てる」

 と短く言って、そしてこの時期の真面目で気高い女の子にはちょっと感情が追い付かなかったのだろう、じわ、と瞳がビー玉のような透明さで濡れてきた。それでも真希はそれを拭わない。

「おーどうした真希」

 ポンポン、と頭を撫でて、雲仙は自分の娘を看てやる。真希は黙ったまま、涙だけを滲ませる。

「真希ちゃん」

 彦山は、言った。真希は、自分は泣いてない、と言わんばかりに、彦山の目をずっと見ていた。

「君は、強いな」

 彦山は励ますようにそう言った。真希はそれでコクンと頷いた。

「はい、突いて右」

 彦山は左手のひらをさっと出して言った。真希はそれで条件反射みたいに右の引手をとり、シュ、と彦山の手のひらを突いた。

「おっいいね。はい左っ」

 サッと右手のひらを出す彦山。それを突く真希。

「右、左っ」

 少し彦山が真希の相手をしてやって、すると真希の目から涙は消えていた。

 父親の雲仙はその様子を見ていて、彦山の境遇を思い出す。彦山は、幼いころに母親を亡くしたのだ。その悲しみと共に、彦山は誰よりも力強く生きてきた。

「おじさんより上手いぞ」

 彦山がそう言うと、真希は心の中でホント⁉ とでも言わんばかりに顔を広げて、ピカピカの笑顔になる。

 母親を亡くした真希に、これからどう生きていくか。雲仙には、彦山が真希の相手をしている様子が、そのための息遣いを優しく伝授している、自然界の神々しい儀式のように見えた。

 そのあと、子供たちへ稽古をつけることについて二人で話し、その間にすっかり仲良くなった真希は彦山の横に座って、宿題をしていた。時折、教えてもらったりしている。

「もう帰るのか」

 雲仙がそう言うと真希はえ? というように宿題から彦山へ顔を向ける。もう帰るの? と。

「はい、稽古がありますので。今日は、一般の部だけですが」

 よかったらウチも今日ある稽古に出てもらえないかと思っていたが、そうなら仕方ないと雲仙は「そうか」とだけ言う。

「じゃあね。真希ちゃん」

 彦山がそう言うと、真希は「また来てね!」と笑顔で返した。

 家を出て、下に続く階段を降りながら、

「どうだった、今回の喫茶店のマスターは」

 雲仙は、前回、彦山に聞いたことを最後にまた聞いてみる。前回は確か、「本当はイカレている」という話をしたはずだ。

「凄く真面目な方なのだろうと思いました。その裏返しとして、ああいう感じでおられるのではないかと」

 ああいう感じ。そのイカレ具合はそう、ああいう感じ、と表現すべきだ。

「そうか」

 雲仙は言われてみて、確かに根が真面目だからこそ、ちゃんとすべきときはちゃんとすることが出来るのかもしれない、と考える。だったら普段からすればいいのに。

「心配ではあります。これから何をされるかは分かりませんが」

「え?」

「いえ、ちょっと考えすぎかもしれません」

 彦山は言って、「では、すみません、今日はありがとうございました」と礼をした。未来の見える男が安住という男に何を感じたのか、もっと詳しく聞きたいと思ったが引き止めるには時機が遅く、

「気を付けて」

 と雲仙は背中を見送った。
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