第46話 希世の杞憂
文字数 4,589文字
「もうお帰りですか」
安住は、席を立った二人にそう声をかけた。
「ああ、美味しかった、フレンチトースト。ありがとう」
「いえ、とんでもございません」
とんでもございません。雲仙は脳内でそう再生してみる。安住のイカレた本性を知らない者からすれば、確かに身なりは紳士のように清潔感があって、そういう言葉が似合うから不思議だ。この前は寝癖が大爆発していたというのに。
「ありがとうございます」
彦山が会釈して言った。
「またいらしてください」
そういうことが出来るならいつもすればいいのに。雲仙はそう思ってみる。
会計を済ませて店を出ると、雲仙は彦山を自分の家に連れて行った。
「『UNZENメンタルヘルスケア』」
階段を上り、見えてきた武家屋敷風のまだ新しい建物の看板を見て、彦山はそう言った。
「ああ、住まいはここの二階だ。そして」
入り口の扉を開けると、右、左に靴を脱ぐ玄関が分かれる。
「こっちが病院で」
左を示す雲仙。
「こっちが道場だ」
右を示し、そっちに靴を脱ぐ。
「そういうことですか」
彦山はそう言って続き、靴を脱ぐ。
雲仙が扉を開け、中へ案内すると、一通りその場で中を観察したあと、彦山は、「似てますね」と言った。
「ああ、確かに」
改めて見ると、長年自分が修行してきた道場の内装と自分のところの内装は似ている。入ってすぐに机、壁には総帥の写真、隅にいくつかの砂袋。
うん、うん、と納得するように彦山はもう一度観察して、
「僕もこんな感じで思っています。開く道場は」
と言った。
二階に上がると、妻の希世が豪華な夕食をこしらえて待っていた。
「さあ食べてね」
唐揚げにエビチリに麻婆豆腐にハンバーグ、それと山盛りのシーザーサラダ。
「いただきます」
彦山は手を合わせて言って、ご飯茶碗片手にお箸でもりもりと食べていく。
「本当に良く食べるな、彦山は」
雲仙は、修行時代から彦山が誰よりも食べることを知っていたので、希世にはいつもの五倍くらい作っておいてくれとあらかじめ言っておいた。五倍! と希世は半信半疑で作ってみたものの、その驚異的なお箸の進み具合に、
「足りなかったら言ってね」
ともうそんなことを言っている。本当に足りなさそうだ、と思えてくる。さっき安住の店でフレンチトーストを食べてきたというのに。
「はい、ありがとうございます」
彦山は八歳も下の、まだ二十四歳だ。まるで一回り小さな弟のように、希世は彦山を温かい目で見ていた。
「あんまり彦山を飯には連れて行けないんだよ」
雲仙がその様子を見ていて口を開くと、希世は隣で「どうして?」と聞き返す。
「ありえないほど食べるから、財布がもたない。一度焼き肉屋に行ったことがあったんだ。俺よりも先輩が何人か、彦山も含め五人で連れて行ってくれて」
彦山はご飯を掻きこみながら、
「あれはちょっと調子に乗りすぎまして」
そう申し訳なさそうに彦山は言うが、
「それでそれで?」
と希世は興味津々に続きを聞いてくる。
「まあ俺たちも食うのは修行としてよく食べるし、で、先輩が奢るというのは伝統だったから先輩も金銭はそれなりに用意してたんだろうけど」
うんうん、と希世は頷く。
「カルビ三十人前食べてまだ足りんって言うから、さすがに止めとけって言うんだけど『食うのは修行です』って追加でカルビ二十人前頼んだんだ彦山は」
「えっ五十人前⁉」
「しかもそれほとんど一人で。俺たちは他にいろいろ頼んでまあ満足ってところで箸をおいたけど」
「本当、あの時は世間知らずというか」
「ああ、普通は人のお金で焼き肉を食べるとき、ほどほどにしておくもんだ。でもまあ、後輩がたくさん食べる姿っていうのは先輩としては見ていて嬉しいもんだよ」
彦山は少し照れるが、なおもご飯を掻きこむ手は止まらない。既に用意してあるおかずの半分が彦山の胃に入っている。
「そうね、嬉しい」
希世は本当に嬉しそうに、彦山の食べる様子を見ている。
「この子もそれくらい逞しく育ってほしいね」
雲仙は、希世のお腹に手を当てて言う。大きな希世のお腹には、小さな女の子の命がある。
「世間知らずと言えばさっきの喫茶店のマスターだけど、彦山はどう思ったんだい」
「え、ああ、そうですね」
彦山は唐突な雲仙の質問に、どう返したらよいものか一瞬考える。希世にはそれがどのような意味の質問なのか分かった。というのも、いつも雲仙から、そこの喫茶店のマスターの変人ぶりについて聞かされているからだ。というか、世間知らずっていま言ってしまったし。
「服装も髪型もしっかりとされていて、言葉も丁寧で、とても素敵なマスターだと思ったのですが。世間知らずなんですか?」
さすが彦山が聞き逃さずそう聞くと、雲仙は「あ、」と言って、そこで失言に気付く。希世は、あーあ、と隣で思っている。
「まあそうなんだ。世間知らずというか、イカレているというか」
「いや、だったら納得しました。やっぱり、雲仙さんが好きそうな方ですよね」
彦山はそう言った。雲仙の隣の希世はクス、と笑う。
「そうか?」
雲仙は希世の反応を見て、ちょっと恥ずかしい気持ちで彦山にそう聞いてみる。
「ええ、何せ僕もイカレている自覚がありますし。そんな僕を雲仙さんは可愛がってくださるので」
彦山は冷静に分析して、自分のことをイカレていると言う。確かに、彦山と安住、この二人の根底にあるものは似ている気がするのも事実だと雲仙は思った。
「あそこのマスターと仲が良いとおっしゃてましたが、一見して、ああまでちゃんとした人は雲仙さんと合わないのではないかと思っていました。本当はそんな感じだといま聞いて、納得しました」
「ああ、そうか」
彦山の言い分にちょっと腑に落ちてしまった。頼りない顔をして隣の希世を見てみると、希世は嬉しそうに、
「だって」
と言った。
雲仙希世、旧姓で坂本希世は、団地で育った。周りの子たちがけばい服装やメイクを覚えていく中で、希世は神経科学の本を愛読した。するとそのコミュニティの中で希世は変な人間として見られるようになり、周りからもよく「なんでそんなことをしているのか」「あの子はちょっと変わってる」と言われるようになった。
周りが正常で、自分が変。
中学まではそうだった。
しかし高校に入り、卒業して良い大学に入ったころから、それが一転した。自分が正常で、あの子たちが変になっていった。自分は良い大学を出て、そこで知り合ったエリートと結婚して、何の不満もない生活をして行けている。あの子たちの中には、高校生のうちに子供が出来て連れと別れて、いまどこかの団地で女手一つで子どもを育てている子もいる。
希世はそんな子たちといまの自分の境遇との明らかな違いについて考えるとき、
——私はでも、そっちに憧れるんだよなあ。
と、希世はそう思う。なんか、格好いい。そうやって奮闘しているお母さんの姿というのは。
普通なら、いまの希世の境遇というのは、誰の目からしても羨ましがられるものだ。順風満帆な人生、このまま子供が出来て、何不自由なく生活が出来て、その子も良い環境で育っていって。
それでもやはりあの子たち、に憧れを持つ希世は、やはり、大人になっても変な人だった。
「だって、って。何だい」
そう返して来る隣の雲仙に、希世は「何でも?」とまた嬉しそうに返す。
希世は、嬉しかった。旦那の後輩だというこの彦山さんが、あの喫茶店のご主人のことを「雲仙さんが好きそうな方」と言ったとき、希世は心の中でスコンと腑に落ちるものがあった。もう少しでお腹の中にいるこの子の母親になるにあたって、同時に父親にもなる旦那とはもっと絆を深めなければならない、そういうことを考えていたこの頃だ。
「旦那は変な人が好き」
という解釈に、心の底から笑えてきた。
旦那はエリートだ。良い家に生まれて、勉強も武道も歩んできて、若くして開業医になった正真正銘のエリート。そんな人に私が、ただ大学で同じゼミにいたというだけで嫁に行っていいのか、迷いがあった。身の丈に合っているか、考えた。だから家事は完璧に行った。料理も上手くなった。でも迷いは消えなかった。母親になるにあたって、それは寧ろ募っていくばかりだった。
そしてなぜか、いまこの一瞬で吹っ切れたような気がした。
何も、旦那はそういうの、求めていない。私の変なところとか、そういうの含めて旦那は、私を愛してくれている。
そう、希世はこの瞬間に気づいたのだ。だから、笑えてきたのだ。
「おかわり?」
彦山の茶碗が空き、すかさず希世は彦山にそう聞いた。
「はい! お願いします」
彦山、何だっけ。旦那の後輩さん。日本一にもなったって聞いたけど、ちょっと幼いというか。でも、やっぱり何か、周りの人に与える影響は大きいのだろうな。だっていま、私、影響されたもの。
希世はそう思いつつ、
「あ、無くなっちゃった。ご飯炊かないと」
残った分で中盛のご飯を彦山に渡し、ふんふふんと鼻歌を歌いながら希世はお米を研ぎ始めた。
結局、希世が用意したおかずの分では彦山は足りなかったらしく、希世は冷凍餃子を二パック、追加で焼くことになった。
「ごちそうさまでした」
ざっと見、彦山だけで一升近くのご飯を平らげてしまった。確かに彦山の身体はプロレスラーのようにしなやかで分厚い筋肉で覆われて大きいが、その見た目の容量を差し置いても口に入ったものがいったいどこに消えていくのか、不思議でならない。
「足りなかったらまだ作るわよ」
希世は言う。すると彦山は「いえもう、お腹いっぱいです。どれも美味しかったです、ありがとうございます」と、それまで豪快に飯を掻きこんでいた者とは思えないほどの謙虚さで返す。
「そう。今度はもっとたくさん美味しいもの準備して待ってるわ」
希世はそういうと、また上機嫌に鼻歌を歌って、洗い物を始めた。
「お、もう帰るのか」
希世が淹れたお茶を少し飲んで、彦山は「はい、道場開設に向けていろいろ、やることがありますので」
彦山は熱いのを我慢して、残りのお茶をグッと飲み干した。
「そうか。また何かあったら来い、いつでも」
希世と二人で玄関まで見送り、彦山は帰って行った。
「お若いのに、なんていうか、子供だけど大人というか」
希世は彦山の背中が階段の下に見えなくなると、雲仙にそう言った。階段の頂上にポツリと建つ家の周りは、真っ暗だ。
「不思議なやつなんだ。ただ、あいつの言うことが間違うことはない。あいつが未来のことを言うとき、必ずそれは当たる」
「どういうこと?」
希世は雲仙の表情を下から伺い見る。
「あいつは十八歳でやって来た時、『一年後にはここにいる全員を抜かす』と言ったんだ。実際、一年後には俺も含めて抜かされていた。それが証明されたのは二年後の全国大会で日本一になったときさ。つまりそれ以前の段階でもうとっくに、俺たちはあいつに負けていた。あいつはたぶん、当たることしか言わない」
希世は、少し心配そうに自分の連れ添いの横顔を見た。しかし、嫉妬とか憎しみとか、そういう表情はその横顔にはなくて、温かさを感じた。その視線に気が付いた雲仙がそこにパッと目を合わせると、眉を開いて、「凄い奴さ、まったく」と、後輩を自慢するように言うので、希世は安心して「入りましょ」と夫の手を繋いだ。
安住は、席を立った二人にそう声をかけた。
「ああ、美味しかった、フレンチトースト。ありがとう」
「いえ、とんでもございません」
とんでもございません。雲仙は脳内でそう再生してみる。安住のイカレた本性を知らない者からすれば、確かに身なりは紳士のように清潔感があって、そういう言葉が似合うから不思議だ。この前は寝癖が大爆発していたというのに。
「ありがとうございます」
彦山が会釈して言った。
「またいらしてください」
そういうことが出来るならいつもすればいいのに。雲仙はそう思ってみる。
会計を済ませて店を出ると、雲仙は彦山を自分の家に連れて行った。
「『UNZENメンタルヘルスケア』」
階段を上り、見えてきた武家屋敷風のまだ新しい建物の看板を見て、彦山はそう言った。
「ああ、住まいはここの二階だ。そして」
入り口の扉を開けると、右、左に靴を脱ぐ玄関が分かれる。
「こっちが病院で」
左を示す雲仙。
「こっちが道場だ」
右を示し、そっちに靴を脱ぐ。
「そういうことですか」
彦山はそう言って続き、靴を脱ぐ。
雲仙が扉を開け、中へ案内すると、一通りその場で中を観察したあと、彦山は、「似てますね」と言った。
「ああ、確かに」
改めて見ると、長年自分が修行してきた道場の内装と自分のところの内装は似ている。入ってすぐに机、壁には総帥の写真、隅にいくつかの砂袋。
うん、うん、と納得するように彦山はもう一度観察して、
「僕もこんな感じで思っています。開く道場は」
と言った。
二階に上がると、妻の希世が豪華な夕食をこしらえて待っていた。
「さあ食べてね」
唐揚げにエビチリに麻婆豆腐にハンバーグ、それと山盛りのシーザーサラダ。
「いただきます」
彦山は手を合わせて言って、ご飯茶碗片手にお箸でもりもりと食べていく。
「本当に良く食べるな、彦山は」
雲仙は、修行時代から彦山が誰よりも食べることを知っていたので、希世にはいつもの五倍くらい作っておいてくれとあらかじめ言っておいた。五倍! と希世は半信半疑で作ってみたものの、その驚異的なお箸の進み具合に、
「足りなかったら言ってね」
ともうそんなことを言っている。本当に足りなさそうだ、と思えてくる。さっき安住の店でフレンチトーストを食べてきたというのに。
「はい、ありがとうございます」
彦山は八歳も下の、まだ二十四歳だ。まるで一回り小さな弟のように、希世は彦山を温かい目で見ていた。
「あんまり彦山を飯には連れて行けないんだよ」
雲仙がその様子を見ていて口を開くと、希世は隣で「どうして?」と聞き返す。
「ありえないほど食べるから、財布がもたない。一度焼き肉屋に行ったことがあったんだ。俺よりも先輩が何人か、彦山も含め五人で連れて行ってくれて」
彦山はご飯を掻きこみながら、
「あれはちょっと調子に乗りすぎまして」
そう申し訳なさそうに彦山は言うが、
「それでそれで?」
と希世は興味津々に続きを聞いてくる。
「まあ俺たちも食うのは修行としてよく食べるし、で、先輩が奢るというのは伝統だったから先輩も金銭はそれなりに用意してたんだろうけど」
うんうん、と希世は頷く。
「カルビ三十人前食べてまだ足りんって言うから、さすがに止めとけって言うんだけど『食うのは修行です』って追加でカルビ二十人前頼んだんだ彦山は」
「えっ五十人前⁉」
「しかもそれほとんど一人で。俺たちは他にいろいろ頼んでまあ満足ってところで箸をおいたけど」
「本当、あの時は世間知らずというか」
「ああ、普通は人のお金で焼き肉を食べるとき、ほどほどにしておくもんだ。でもまあ、後輩がたくさん食べる姿っていうのは先輩としては見ていて嬉しいもんだよ」
彦山は少し照れるが、なおもご飯を掻きこむ手は止まらない。既に用意してあるおかずの半分が彦山の胃に入っている。
「そうね、嬉しい」
希世は本当に嬉しそうに、彦山の食べる様子を見ている。
「この子もそれくらい逞しく育ってほしいね」
雲仙は、希世のお腹に手を当てて言う。大きな希世のお腹には、小さな女の子の命がある。
「世間知らずと言えばさっきの喫茶店のマスターだけど、彦山はどう思ったんだい」
「え、ああ、そうですね」
彦山は唐突な雲仙の質問に、どう返したらよいものか一瞬考える。希世にはそれがどのような意味の質問なのか分かった。というのも、いつも雲仙から、そこの喫茶店のマスターの変人ぶりについて聞かされているからだ。というか、世間知らずっていま言ってしまったし。
「服装も髪型もしっかりとされていて、言葉も丁寧で、とても素敵なマスターだと思ったのですが。世間知らずなんですか?」
さすが彦山が聞き逃さずそう聞くと、雲仙は「あ、」と言って、そこで失言に気付く。希世は、あーあ、と隣で思っている。
「まあそうなんだ。世間知らずというか、イカレているというか」
「いや、だったら納得しました。やっぱり、雲仙さんが好きそうな方ですよね」
彦山はそう言った。雲仙の隣の希世はクス、と笑う。
「そうか?」
雲仙は希世の反応を見て、ちょっと恥ずかしい気持ちで彦山にそう聞いてみる。
「ええ、何せ僕もイカレている自覚がありますし。そんな僕を雲仙さんは可愛がってくださるので」
彦山は冷静に分析して、自分のことをイカレていると言う。確かに、彦山と安住、この二人の根底にあるものは似ている気がするのも事実だと雲仙は思った。
「あそこのマスターと仲が良いとおっしゃてましたが、一見して、ああまでちゃんとした人は雲仙さんと合わないのではないかと思っていました。本当はそんな感じだといま聞いて、納得しました」
「ああ、そうか」
彦山の言い分にちょっと腑に落ちてしまった。頼りない顔をして隣の希世を見てみると、希世は嬉しそうに、
「だって」
と言った。
雲仙希世、旧姓で坂本希世は、団地で育った。周りの子たちがけばい服装やメイクを覚えていく中で、希世は神経科学の本を愛読した。するとそのコミュニティの中で希世は変な人間として見られるようになり、周りからもよく「なんでそんなことをしているのか」「あの子はちょっと変わってる」と言われるようになった。
周りが正常で、自分が変。
中学まではそうだった。
しかし高校に入り、卒業して良い大学に入ったころから、それが一転した。自分が正常で、あの子たちが変になっていった。自分は良い大学を出て、そこで知り合ったエリートと結婚して、何の不満もない生活をして行けている。あの子たちの中には、高校生のうちに子供が出来て連れと別れて、いまどこかの団地で女手一つで子どもを育てている子もいる。
希世はそんな子たちといまの自分の境遇との明らかな違いについて考えるとき、
——私はでも、そっちに憧れるんだよなあ。
と、希世はそう思う。なんか、格好いい。そうやって奮闘しているお母さんの姿というのは。
普通なら、いまの希世の境遇というのは、誰の目からしても羨ましがられるものだ。順風満帆な人生、このまま子供が出来て、何不自由なく生活が出来て、その子も良い環境で育っていって。
それでもやはりあの子たち、に憧れを持つ希世は、やはり、大人になっても変な人だった。
「だって、って。何だい」
そう返して来る隣の雲仙に、希世は「何でも?」とまた嬉しそうに返す。
希世は、嬉しかった。旦那の後輩だというこの彦山さんが、あの喫茶店のご主人のことを「雲仙さんが好きそうな方」と言ったとき、希世は心の中でスコンと腑に落ちるものがあった。もう少しでお腹の中にいるこの子の母親になるにあたって、同時に父親にもなる旦那とはもっと絆を深めなければならない、そういうことを考えていたこの頃だ。
「旦那は変な人が好き」
という解釈に、心の底から笑えてきた。
旦那はエリートだ。良い家に生まれて、勉強も武道も歩んできて、若くして開業医になった正真正銘のエリート。そんな人に私が、ただ大学で同じゼミにいたというだけで嫁に行っていいのか、迷いがあった。身の丈に合っているか、考えた。だから家事は完璧に行った。料理も上手くなった。でも迷いは消えなかった。母親になるにあたって、それは寧ろ募っていくばかりだった。
そしてなぜか、いまこの一瞬で吹っ切れたような気がした。
何も、旦那はそういうの、求めていない。私の変なところとか、そういうの含めて旦那は、私を愛してくれている。
そう、希世はこの瞬間に気づいたのだ。だから、笑えてきたのだ。
「おかわり?」
彦山の茶碗が空き、すかさず希世は彦山にそう聞いた。
「はい! お願いします」
彦山、何だっけ。旦那の後輩さん。日本一にもなったって聞いたけど、ちょっと幼いというか。でも、やっぱり何か、周りの人に与える影響は大きいのだろうな。だっていま、私、影響されたもの。
希世はそう思いつつ、
「あ、無くなっちゃった。ご飯炊かないと」
残った分で中盛のご飯を彦山に渡し、ふんふふんと鼻歌を歌いながら希世はお米を研ぎ始めた。
結局、希世が用意したおかずの分では彦山は足りなかったらしく、希世は冷凍餃子を二パック、追加で焼くことになった。
「ごちそうさまでした」
ざっと見、彦山だけで一升近くのご飯を平らげてしまった。確かに彦山の身体はプロレスラーのようにしなやかで分厚い筋肉で覆われて大きいが、その見た目の容量を差し置いても口に入ったものがいったいどこに消えていくのか、不思議でならない。
「足りなかったらまだ作るわよ」
希世は言う。すると彦山は「いえもう、お腹いっぱいです。どれも美味しかったです、ありがとうございます」と、それまで豪快に飯を掻きこんでいた者とは思えないほどの謙虚さで返す。
「そう。今度はもっとたくさん美味しいもの準備して待ってるわ」
希世はそういうと、また上機嫌に鼻歌を歌って、洗い物を始めた。
「お、もう帰るのか」
希世が淹れたお茶を少し飲んで、彦山は「はい、道場開設に向けていろいろ、やることがありますので」
彦山は熱いのを我慢して、残りのお茶をグッと飲み干した。
「そうか。また何かあったら来い、いつでも」
希世と二人で玄関まで見送り、彦山は帰って行った。
「お若いのに、なんていうか、子供だけど大人というか」
希世は彦山の背中が階段の下に見えなくなると、雲仙にそう言った。階段の頂上にポツリと建つ家の周りは、真っ暗だ。
「不思議なやつなんだ。ただ、あいつの言うことが間違うことはない。あいつが未来のことを言うとき、必ずそれは当たる」
「どういうこと?」
希世は雲仙の表情を下から伺い見る。
「あいつは十八歳でやって来た時、『一年後にはここにいる全員を抜かす』と言ったんだ。実際、一年後には俺も含めて抜かされていた。それが証明されたのは二年後の全国大会で日本一になったときさ。つまりそれ以前の段階でもうとっくに、俺たちはあいつに負けていた。あいつはたぶん、当たることしか言わない」
希世は、少し心配そうに自分の連れ添いの横顔を見た。しかし、嫉妬とか憎しみとか、そういう表情はその横顔にはなくて、温かさを感じた。その視線に気が付いた雲仙がそこにパッと目を合わせると、眉を開いて、「凄い奴さ、まったく」と、後輩を自慢するように言うので、希世は安心して「入りましょ」と夫の手を繋いだ。