第23話 陽気な黒

文字数 1,508文字

「今日は天気がいいですね」
 言って、千尋は歩きながら背伸びをする。

「暑いくらいだ」
 一年の内のほとんどの時期を上下黒の半袖にカーディガン、長ズボンという格好で過ごす佐賀。三月も下旬に差し掛かる季節、今日は特に日差しに熱を感じる。
「出身はどこなんだい」

 ベビーカーを押す若いお母さん。タンクトップで走る還暦過ぎの爺さん。ベンチに座ってじっとしている白髪の婆さん。とても大きな公園で、数百メートルほどの全長に、遊具や、グラウンド、ボートも借している池が設置されている。

「ここの近くなんです。といっても駅で言うと十個ほど離れていますが」
「へえ、じゃあ、実家暮らし?」
「いえ、大学が東京で一人暮らしに慣れちゃって。司書の配属が実家からだと微妙に実家から遠くになってしまったので、いっそ一人暮らしを続けようと思っていまはこの街で」
 一人暮らしなのか、と佐賀は思う。

「実は俺も、出身はここの近くなんだ。高校から東京の美大に行ってそのまま東京を拠点にしていて、いまは仕事でたまたま、地元に近いこの街にやって来て一人暮らしだ」
「そうですか、なんだか似た動きですね。同じ歳でしたっけ」
「ああ、二十八だ」
「すれ違ったりしているかも」
「ああ、可能性はある」
 タンクトップの爺さんとすれ違う。今日は、暑いほどだ。

「留学とか、されたんですか?」
「ああ、いや?」
「いえ、この前、英語で話してみたら流暢に返されたので」
「ああ、驚くことじゃない。英語は高校まで六年間も勉強したから」
「私は十年なのに、全然です」
 佐賀は羽織っていた黒のカーディガンを脱ぎながら、「よくない。全国の学生を敵に回すのは」と言った。
「それはよくないです」
 彼女も冗談じみた真剣な顔で、ふふ、と微笑んで言った。

「それにしても、本当に暑いですね、今日は」
 二人、歩きながら千尋は言う。
「ああ、半袖で十分」
 黒の長ズボンに黒いTシャツという出で立ちの佐賀は、軍人や格闘家など、その類の人たちに似た体つきだ。

「そう言えばこの前も同じような格好でした」
「ああ、服は、同じものしか持ってないんだ」
「何かそういうの、聞いたことあります。グレーのTシャツとジーンズしか着ないみたいな」
「ああ、時間がもったいないと思っている。服を選ぶ時間が」
 千尋は、少し行き過ぎた思考に触れた気がして、ちょっと返答に困る。

「ついこの前まではね」
 佐賀は上半身のストレッチをしながら、眉や頬を広げた表情で言う。

「夜起きて、朝寝る。そういう生活を十年近く送っていると、たぶん感覚が狂うんだ。これまでは芸術家としてそれが好都合だったけど、いまは、それを正さなくてはなって思ってる」
 佐賀が陽気な表情で言うので、過剰な発想のようでも、千尋にはそれを軽く聞いていられる余地があった。

「でも、普通に似合っていますよ、その服」
「お、本当かい」
 本当かよ。佐賀は嬉しさでガッツポーズでもしたい気分になる。

「浮世絵師は目立たないことも大事なんだ。俺に浮世絵を教えてくれた人も、こんな黒づくめの格好をしていた」
「へえ。仕事着みたいなものですね」
「ということは永遠に仕事着」
「大変ですね」
「大変も残業もない仕事はないと誰かが言っていた気がする」
「いいことを言いますね、一体誰でしょう」
 君——と千尋の方を見て言おうとしたが、次に佐賀の口は「あそこにいるのは英雄かな」と言っていた。千尋の方に向けた視線の奥に、紅一色のスーツと、白髪をした人物が歩いているのだ。

 千尋は、佐賀が視線を向けている方を同じように見ると、少しだけ目を凝らすようにしてから、「たぶん」と両目を手で抑えて言った。なぜ泣くんだい、とは、そのとき聞けなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み