第53話 今の五十嵐

文字数 1,800文字

 電車がホームへとやってくる。減速して減速して、ピタ、と止まる。すると車両の扉窓からじっとこちらを見ている人がいた。佐賀は何か見られているな、とだけ思うが、果たしてドアが空くとその人物は佐賀のところへ真っ直ぐに寄って来て、

「佐賀っ」

 そう言った。佐賀という苗字はそれほど多くないはずで、そのセリフはいま完全に、この佐賀へ向けられたものだった。

「ああ」

 この街の駅の朝は、人が多い、あまりに人の多い場所は佐賀は好きじゃなかったが、それもこの街の浮世を見抜くためには必要な経験かと思い、朝、やって来たわけだが。

「五十嵐か」

「いや、久しぶりだな」

 五十嵐はスーツを着て、どうやら、これから出勤のようだった。相変わらず、髪の毛は斜めにシュッと、顔立ちは、男前だ。

「職場がここらなんだ」

 五十嵐はそう言って、佐賀の黒の半袖に長ズボンという身なりを見ると、「お前は何をやってるんだ?」と言った。五十嵐からすれば、佐賀謙という男は高校時代から、何かこう、普通ではない人生を送るような、そんな感じがしていたので、その姿を見ると、まあ予想通り普通ではないのだろうなと思っている。

「絵を描いてる。絵師をやってるんだ」

 佐賀は、嬉しかった。五十嵐は、いい奴だ。

「そうか、絵師か。急に美大に行くって言ってな」

 五十嵐は絵師というワードはそのまま受け入れて言って、「こんど見せてくれよな」とハンサムな笑顔を見せた。あいにく時間がない。

「ああ」

——ドアが閉まります、ご注意ください。

 アナウンスが流れる。五十嵐は腕時計を人差し指でトントンと示し、「またな」と言って人の流れに乗って出口へ向かった。

「ああ」

 佐賀は、——どうした、その痣みたいな。

 腕時計をトントンとする際、スーツの袖からうっすらと痣のようなものが見えたのに対して反応しようとしたが、その時間はなく車両に乗り込む佐賀。扉が閉まる。



 電車に揺られて二時間、肌と肌が触れ合うほど多く乗っていた人もここまでくると疎らになり、一両に対して一人か二人くらいしかいなくなった。外に見える景色に高い建物はなく、家は瓦屋根、見渡せば田圃、佐賀は今日、溝口のところへとやってきていた。

 一人、電車を降り、改札を抜けると、そこから二十分ほど歩いて溝口の住居に辿り着く予定だったが、

「佐賀さん」

 しわがれた風合いの小さな駅舎を出ると目の前に軽自動車が止まっていて、禿げ頭の溝口がどうやら、佐賀を迎えに来てくれていたみたいだった。

「すみません」

 佐賀は溝口の車に乗った。

 道中、佐賀は溝口に様々な話をした。まず、版元である雲仙観が本当に彦山先生の先輩だったこと、描こうとしている女性のデッサンをしたこと、その人物が実は高校の同級生であることが分かったこと。今朝さっき、また高校の同級生と再会したこと。

 溝口は、助手席で話してくれる佐賀の全ての話を、帰省してきた息子の土産話みたいに、運転席で嬉しそうに聞いている。

「本当に先輩だったとはな」

「デッサンか。やりますな」

「同級生だったのか」

「偶然だ。そうか佐賀さん、地元はそれほど遠くないんだったな」

 話している内に、あっという間に溝口の家へ着いた。今日は奥さんはパートに出ているのか、溝口は鍵を自分で開けて、静かな家の中へ佐賀を案内する。

「失礼します」

 佐賀は玄関に入る前、少し頭を下げてから中へ入った。

最近、自分が空手をしていたころの呼吸をたどって、その頃の姿勢を取り戻しつつある。朝ちゃんと起き、夜はしっかり眠る、ご飯もしっかり食べる。背筋はまっすぐ、万物に敬意を持って、生きている。修行とはつまるところ、強く美しくなっていく己の心に知らずと芽生えてしまう傲慢の芽を、いかに余裕を持って俯瞰し、認識したうえで、ちゃんと受け入れて付き合うことができるか、ということだと佐賀は思う。高校生の頃の佐賀はそれが認識できておらず、意図せずとも目上の人間に無礼を働かせることが多々あったように思うが、もう、そのようなことはいまの佐賀にはない。あるとすればそれは故意によって、ということになる。気を付けなければならない。

 なんというか、ほんの数カ月でこうも、変わるか。

 溝口は、さっきからなんとなく感じていた佐賀の以前より丁寧な言葉、清らかな目と姿勢に、そんな感想を持った。それと同時に、さすがやはり、何か大きなことを成す人間なのだな、と、納得をした。
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