第49話 フレンチトーストはアズミセットだけ
文字数 2,191文字
「なんだ、その格好は」
その日、喫茶アズミの閉店が近くなり、お店の片づけをパートの川端さんがせかせかとやっている間、安住は変な格好をして現れた。他に客はおらず、店の中にはこの三人だけだ。
「英雄だろ」
安住は紅一色のスーツを着て、髪の毛は真っ白になっている。
「いや」
そういうことじゃなくて、と続けたかった雲仙だが、既にその話は、安住の中では流れてしまっていることだ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
孔子の有名な言葉であるが、果たして、安住は四十二歳、四十にして彼が何を迷わなくなったのだろうか。と考えつつ雲仙はコメントに困る。
「英雄っていう存在になるんだよ。この街には英雄が必要だ。ヘロだ。ヒーローをローマ字読みでヘロ。いま思いついた」
ヘロ?
なんだその人か犬かも分からないような名前。
「英雄が必要」
安住は、自分の言っている突拍子もないことが、相手には既知の事実であると思っている。その上で話がしれっと進んで行く上、また、安住のことをよく知っている雲仙や川端さんを始めた周りの人々は、そのことについて半ばあきらめている節があるので、この男のイカレ具合はこの歳になっても全くそのままだ。
「そのための格好か」
諦めている雲仙は、色々すっ飛ばしてそうコメントする。「ああ」と言って、安住は「この方が、英雄って感じがするだろ」と言った。
「ヘロは英雄としてこの街に現れるだけだ。それで街の治安が良くなるかは分からんが、とりあえずやってみるだけの話。その間は川端さんに、この店は頼んだ」
安住が川端の方を見ると、川端ももう諦めているのか、「なんですか?」と睨むように返してくる。
「まあ見てろ。俺がこの街を変えてみせる」
そう言う安住に、雲仙は彦山の懸念を思い出す。彦山は未来が読める男。彦山の言う未来は、必ず当たる。
次の日から早速、街にヘロという存在が現れた。多くの人々はその、紅一色のスーツに真っ白な髪の毛の中年の渋い男が、実は近くの喫茶店のマスターであるなんてことは知らないので、平日の昼間からそんな格好で街を歩いているその人物に対して、社会の常識的に「あまり近づいてはいけない人」というふうな認識をもった。無論、街の人々はヘロがゴミを拾っていてもその様子を訝し気に捉えるし、ヘロが挨拶してきてもそそくさと逃げる、酷いときは睨まれたりもした。
しかし、それも始めの数カ月のことで、続けていくと人々はその存在を認め始めた。ヘロが挨拶すると、少しずつではあるが、会釈を返されたり、また、ときには笑顔で挨拶し返されたりと、変化が表れ始めたのだ。
また、ヘロがたった一人でもゴミ拾いを続けている内に、人々の心は、
——あ、悪いな。
という、自分が捨てたゴミをこのあと拾うことになるだろう存在が明らかになったことによる、罪悪というものが感じられるようになった。
ヘロによってそのゴミが拾われることになる。だから人々はゴミを捨てなくなる。
簡単な話だ。街からゴミは減っていく。すると人々の心は重りが外されていくかのように気分が良くなり、挨拶は普通に、笑顔は、日常になった。
三年もすると、街は見違えるように綺麗になった。この街の人々は、その大きな立役者として、英雄を称えた。
雲仙はその日、仕事を終え、今日は稽古も無いので中学生の真希を連れて喫茶アズミに行くことにした。
——いらっしゃいませー。
「あら雲仙さん。と、真希ちゃん!」
川端さんは嬉しそうにそう言って真希の下に来る。中学生の年頃の女の子ならちょっとこういう場面では不愛想になるものだが、真希は、
「こんばんは!」
と、元気に笑顔で挨拶する。雲仙は、申し訳ない、しかし逞しく育っているな、と母親のいない境遇の娘に詫びを感じつつ、そこに親としての感無量を見る。
「今日は何食べる?」
女性二人が話しながら奥のテーブルへ行ってしまう。雲仙はそれについていく。珍しく、今日は他に客が少ない。
それにしても川端さんは、真希のことを娘のように可愛がってくれている。それは川端さん自身、ちょうど真希くらいの娘を、交通事故で亡くしているからなのかもしれない。二人はテーブル席に座って、
何にする?
何にしようかなあ。
ナポリタンは?
この前食べたしなあ。
二人を見ていると、ただの仲睦まじい母と娘のよう。
希世、俺たちの娘は元気に育っているよ。
雲仙はそう思いつつ、そっと二人のいるテーブルに座る。
川端さんが喫茶アズミのマスターになるにあたって、安住は徐々に調理を川端さんに教え、もう川端さんは、安住と同じものを作ることが出来るようになった。しかし、
「僕は、アズミセットで」
雲仙が注文すると、「ああ、はい」と軽く流す川端。そしてすぐに真希との会話に戻る。
雲仙は、安住の作った派手な振り子時計を見る。
フレンチトーストだけは単品では出せない。
安住は、そう判断した。お店一番の人気商品で、調理法も難しいので、そこはいくら川端さんでも無理がある、と。そのため、大量注文を防ぐ目的でアズミセットというセットメニューだけにフレンチトーストを登場させている。といっても、それでもほとんど変わらず注文は来るみたいだ。
真希が「じゃあ私もアズミセット!」と言うと、川端は「分かった! ちょっと待っててね!」と言って、キッチンカウンターに入って行った。
その日、喫茶アズミの閉店が近くなり、お店の片づけをパートの川端さんがせかせかとやっている間、安住は変な格好をして現れた。他に客はおらず、店の中にはこの三人だけだ。
「英雄だろ」
安住は紅一色のスーツを着て、髪の毛は真っ白になっている。
「いや」
そういうことじゃなくて、と続けたかった雲仙だが、既にその話は、安住の中では流れてしまっていることだ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
孔子の有名な言葉であるが、果たして、安住は四十二歳、四十にして彼が何を迷わなくなったのだろうか。と考えつつ雲仙はコメントに困る。
「英雄っていう存在になるんだよ。この街には英雄が必要だ。ヘロだ。ヒーローをローマ字読みでヘロ。いま思いついた」
ヘロ?
なんだその人か犬かも分からないような名前。
「英雄が必要」
安住は、自分の言っている突拍子もないことが、相手には既知の事実であると思っている。その上で話がしれっと進んで行く上、また、安住のことをよく知っている雲仙や川端さんを始めた周りの人々は、そのことについて半ばあきらめている節があるので、この男のイカレ具合はこの歳になっても全くそのままだ。
「そのための格好か」
諦めている雲仙は、色々すっ飛ばしてそうコメントする。「ああ」と言って、安住は「この方が、英雄って感じがするだろ」と言った。
「ヘロは英雄としてこの街に現れるだけだ。それで街の治安が良くなるかは分からんが、とりあえずやってみるだけの話。その間は川端さんに、この店は頼んだ」
安住が川端の方を見ると、川端ももう諦めているのか、「なんですか?」と睨むように返してくる。
「まあ見てろ。俺がこの街を変えてみせる」
そう言う安住に、雲仙は彦山の懸念を思い出す。彦山は未来が読める男。彦山の言う未来は、必ず当たる。
次の日から早速、街にヘロという存在が現れた。多くの人々はその、紅一色のスーツに真っ白な髪の毛の中年の渋い男が、実は近くの喫茶店のマスターであるなんてことは知らないので、平日の昼間からそんな格好で街を歩いているその人物に対して、社会の常識的に「あまり近づいてはいけない人」というふうな認識をもった。無論、街の人々はヘロがゴミを拾っていてもその様子を訝し気に捉えるし、ヘロが挨拶してきてもそそくさと逃げる、酷いときは睨まれたりもした。
しかし、それも始めの数カ月のことで、続けていくと人々はその存在を認め始めた。ヘロが挨拶すると、少しずつではあるが、会釈を返されたり、また、ときには笑顔で挨拶し返されたりと、変化が表れ始めたのだ。
また、ヘロがたった一人でもゴミ拾いを続けている内に、人々の心は、
——あ、悪いな。
という、自分が捨てたゴミをこのあと拾うことになるだろう存在が明らかになったことによる、罪悪というものが感じられるようになった。
ヘロによってそのゴミが拾われることになる。だから人々はゴミを捨てなくなる。
簡単な話だ。街からゴミは減っていく。すると人々の心は重りが外されていくかのように気分が良くなり、挨拶は普通に、笑顔は、日常になった。
三年もすると、街は見違えるように綺麗になった。この街の人々は、その大きな立役者として、英雄を称えた。
雲仙はその日、仕事を終え、今日は稽古も無いので中学生の真希を連れて喫茶アズミに行くことにした。
——いらっしゃいませー。
「あら雲仙さん。と、真希ちゃん!」
川端さんは嬉しそうにそう言って真希の下に来る。中学生の年頃の女の子ならちょっとこういう場面では不愛想になるものだが、真希は、
「こんばんは!」
と、元気に笑顔で挨拶する。雲仙は、申し訳ない、しかし逞しく育っているな、と母親のいない境遇の娘に詫びを感じつつ、そこに親としての感無量を見る。
「今日は何食べる?」
女性二人が話しながら奥のテーブルへ行ってしまう。雲仙はそれについていく。珍しく、今日は他に客が少ない。
それにしても川端さんは、真希のことを娘のように可愛がってくれている。それは川端さん自身、ちょうど真希くらいの娘を、交通事故で亡くしているからなのかもしれない。二人はテーブル席に座って、
何にする?
何にしようかなあ。
ナポリタンは?
この前食べたしなあ。
二人を見ていると、ただの仲睦まじい母と娘のよう。
希世、俺たちの娘は元気に育っているよ。
雲仙はそう思いつつ、そっと二人のいるテーブルに座る。
川端さんが喫茶アズミのマスターになるにあたって、安住は徐々に調理を川端さんに教え、もう川端さんは、安住と同じものを作ることが出来るようになった。しかし、
「僕は、アズミセットで」
雲仙が注文すると、「ああ、はい」と軽く流す川端。そしてすぐに真希との会話に戻る。
雲仙は、安住の作った派手な振り子時計を見る。
フレンチトーストだけは単品では出せない。
安住は、そう判断した。お店一番の人気商品で、調理法も難しいので、そこはいくら川端さんでも無理がある、と。そのため、大量注文を防ぐ目的でアズミセットというセットメニューだけにフレンチトーストを登場させている。といっても、それでもほとんど変わらず注文は来るみたいだ。
真希が「じゃあ私もアズミセット!」と言うと、川端は「分かった! ちょっと待っててね!」と言って、キッチンカウンターに入って行った。