第20話 ご機嫌な水曜日

文字数 2,394文字

 フレンチトーストは、美味しい。
 一口食べて、佐賀はそう思った。

 シロップを付ける。口に運ぶ。
 これもまた、美味しい。咀嚼すると果汁のようにバターと卵とシロップが滲み出して、口いっぱいに幸福の味が広がる。お世辞でなく、本当に高級フレンチのスイーツのようだ。

 フレンチトーストは美味しい。
 佐賀は黙って、パクパクと食べる。

 ——。

 しかし別のことを思考のどこかで考えていて、せっかくの目の前のフレンチトーストに対して、こう、五つあると言われる感覚の中で、味覚という一つの感覚だけで味わっているような気がする。

 フレンチトーストは美味しい。
 それだけで食事への感想が終わってしまうことが、佐賀にとっては損をしている、やるせない気分だった。

 フレンチトースト、コーヒー、サラダ。ああ、コーヒーは不味い。

 それにしても——

 なんとなく、暗いぞ、今日は。

 佐賀はそう感じた。

 というのも、前回、千尋と共にこの喫茶アズミに来た時は、喫茶女房はカウンターの、これからゲートボールに行くらしいおじいさん二人と楽しそうに話していたし、他に客は若い女性や男子高校生と、賑やかな雰囲気だったからだ。

 それが、今日は他に誰もおらず、静かで、暗い。

 こそ、と佐賀は振り向いて、喫茶女房を見てみる。
 喫茶女房はテレビを見上げており、例えばもし今日ほかに客が来なければ、一日中そこでそうやってぼーっとテレビを見上げているような、そんな生気のなさが見て取れた。逆に、客が他にもたくさん来れば、元気にエネルギッシュに動く様子も想像できた。

 佐賀は、前々からうっすら考えていたことを、ここで色濃く思考してみる。

 この街の人たちはいま——

 チリン、チリン。
「いらっしゃいませ」

 扉の開け方に、人は出る。

 それはチリン、チリン。と、優しい鈴の音で、しかし店内の暗い空気を爽やかな風で吹き飛ばしてしまう、そんな魔法の音。いま扉を開けた人物の「扉の開け方」が、そのまま鈴の音になって佐賀の耳に伝わる。音楽とはそういうことかもしれない、と思ってみる。

「おはよう」
 振り向いて、佐賀は言った。振り向かずとも、それが千尋であると佐賀は思っていた。そう思えたということに、佐賀は誇り、名誉みたいなものを感じた。
 白い肌が清美な千尋は、「おはようございます、佐賀さん」
 そう言って、そこいいですか? のようなジェスチャーをして、佐賀のいるテーブルに座った。店内には、客は二人だけだ。






 何か嬉しいことがあったのか。
 いや、これから嬉しいことがあるのか。
「はい、アズミセットね。千尋ちゃん」
 知り合いなのか、喫茶女房は千尋の名をそう呼んで、千尋の注文したアズミセットを持ってくる。
「ありがとうございます」
 ス、と背筋が立ったそのまま、良いリアクションで千尋が言う。
喫茶女房はついでに、佐賀のコーヒー以外の空いたお皿を片付けて持って行く。

「いただきます」
 千尋は合掌した。これから食べるぞ、という意志の籠った、それは合掌だった。
 佐賀が感じるに、さっき入り口に入って来た時から千尋の雰囲気は、随分と快晴、明るく、この前とは明らかに、違って見える。

 ということはこのまえ会ったときが落ち込んでいたのだろうか。

 佐賀は考える。ただ初対面でテンションが定まらなかったから、というのもある。
 ナイフとフォークを使ってフレンチトーストを食べる千尋。ナイフでシロップを付け、口へ運ぶ。幸福な朝食だ——と佐賀はその様子を見ていて思う。もう少ししたらふんふふんと鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気。

 佐賀は、目の前でフレンチトーストをパクパク食べる上機嫌な女性に対して、様々な思考と妄想と想像を結い合わせて今の自分に出せる最良かつスマートなコメントを見出した。
「ご機嫌そうだね」
 そう短く言って、不味いコーヒーを美味しそうに啜る。
「え、そうですか?」
 もぐもぐする口元を握った右手で隠し、少し目を大きくして千尋は答える。睨まれた、そう感じてもおかしくない、強い目をしている。

 ああ、すかした。

 表情を一切変えないまま、裏で表情が落ちる佐賀。特に何も手を加えていないのに「髪切った?」と男が理解できているフリをするのが女性には大きめの地雷であることくらい佐賀も知っている。

「ああ、そう見える」
 そう言うと、千尋は「そうですね、そうかもしれないです」と言った。ああ、よかった、と佐賀は裏で胸をなでおろす。

「何かあったのか。もしくはあるか」

 佐賀と千尋、二人以外に誰も客のいない店内。「誰も入って来てくれるなよ」と佐賀は心の中で思うが、そう思ったことによって本質としてここに来た目的を思い出して、「ヘロ以外は」と心の中で付け足す。この街の英雄について、もっと知らなければならないのだ。

「残業終わりは、基本的に機嫌がいいかもしれません」
「ああ例の、前業かい」
「あ、前業でした。今日は勤務自体はなくて、これで家に帰れます」

 千尋は、自分の休みが月曜日と水曜日であることを説明した。

「可愛そうな火曜日だ」
 佐賀がそう言うと千尋は、
 ふふ、
 そう少し笑って、目を細める。なんだか今日は、よく笑っている気がする。

「ということは、今日は休みだ」
 佐賀は確認するようにそう言った。今日は水曜日だ。
「はい、これから帰るところです。月曜と水曜の朝はここに寄ったら、帰って寝るんですよ」
 帰って寝る。部屋のベッドで、静かに寝息を立てて寝ている千尋。
「それは幸せだ」

 今日は休み、それじゃあこれから公園に散歩でも行かないかと誘おうとした佐賀だったが、想像の中で静かな寝息を立てているこの女性を無理に起こすほど、佐賀は不細工な男ではない。

「佐賀さんはこれからどうするんですか」
 想像の中で寝ている人がこちらを向いて訊ねてくる。
「ああ」
 言うか言うまいか迷ったが、「ヘロを待っていてね」と佐賀は言った。
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