第52話 呼吸に記憶あり

文字数 3,587文字

 診察室を出るともう他の従業員は帰ったみたいだが、真希だけは残って、待合室で新聞を読んでいた。

「今日は火曜日ですけど」

 コメントとして佐賀がそう言うと、真希は、

「一人で稽古です」

 そう言って、凛々しい目を佐賀に向ける。真希は道着を着ていた。

「そうですか」

 毎週月水金と週三回、隣の大部屋では稽古があるが、火曜で休みの今日も真希は仕事終わりに一人で稽古をするらしい。

「どうですか、佐賀さんも一緒に。動く、大事ですよ」

 真希は心の内では、きっとまた断られるのだろうな、と思っていたのだが、佐賀が真希の提案を受けて「確かに」と一度頷くと、真希はその顔、声のニュアンスからして次に出てくる言葉を予想して、ちょっと、心の中に驚愕を感じた。

「よろしくお願いします」

 その感じに、真希は故彦山の姿を映し見る。ああ、この人は彦山先生の弟子なのだな、と。

「え?」

 さすがに、真希は喉からそんな声が出てしまった。

「いいんですか?」

 自分から進んでおきながら、それがすんなり門を通れると、入って行くのにちょっとためらう。

「何か、問題でも?」

 佐賀はそう返す。

「いえ。嬉しいです。彦山先生のお弟子さんと稽古が出来るのは」

 真希がそう言うと、佐賀は、「その人に破門された者です。大したことはありません」と、謙遜する。



 年中、ほとんど同じ服装の佐賀は、春も終わり初夏の季節、上は黒の半袖、下は黒の長ズボンという格好だ。真希は道着と余っている黒帯を貸そうとしてくれたが、佐賀は、自分のでない道着と黒帯を使うのはちょっと、とためらった。真希は「確かにそうですね」と、そこまでして貸そうとはしなかった。そういう感覚は、真希にも分かる。

 稽古のある日には、子供たちの元気な声が聞こえるこの部屋。真希が、

「お願いします!」

 そう言って入ると、佐賀はそれに続いて、

「お願いします!」

 そう思い切り言って頭を下げて、中に入った。

 真希からすると、佐賀という男性はこれまでなんでも合理的な判断で賢く生きてきた、言ってしまえばちょっと冷たい人間なのかと思うところがあったのだが、その合理的でない挨拶を後ろ耳に聞いて、ああ、この人はやっぱり、温かい心の人だな、と再認識した。

「いいですね、いい気合いです」

 真希がそう言うと、佐賀は「もう何年も出していませんから。でも、身体は覚えていたようで、しかし——」

 佐賀は部屋の中を見回す。初めて入った。

「いや、似てるというか。僕がやってきた先生の道場の内装と」

 佐賀は、壁に総帥の写真、入り口には机、隅には砂袋がいくつかあることを確認する。彦山の道場も同じような内装で、佐賀は砂袋を拳で突いたり、脚で蹴ったり、頭突きしたりしていた。

「父のときとあまり変わっていませんから。彦山先生の道場も父の道場も、きっと自分たちの過ごした道場と似たのでしょうね」

 真希の言い分に、佐賀は納得する。こうまで似ているともう、そうとしか考えられない。

「ですね」

 佐賀はしかし、それ以上はその話をしなかった。雲仙には先ほど少し、抵触してしまったのだ。あまり話題には上げたくない。

 電気を点けて真希は、

「では、基本動作から」

 そう言って、佐賀の前に立った。

いろいろと考えることはあったが、とりあえずいまはすべて忘れて、佐賀は真希と向かい合い、稽古に入る。



 息を吐く。そして吸う。アア、これだ。

 佐賀は実に十年ぶりに、空手の動作をした。心、身体の動かし方、全てがそのままの状態で保存されていて、ただただ、それに肉体が追い付かないことだけが佐賀にとって歯がゆかった。

「やっぱり、似てますよ」

 真希が佐賀の鏡、佐賀が真希の鏡になって動いていると、佐賀の鏡は口を動かした。

「そうですね」

 真希の鏡は体力がなく、喋るのも、短くしかできない。

「同じ空手と言っても、流派でかなり違ってきますもの。佐賀さんはそうですね、例えば私が幼稚園生のときに見たあの中学生のお兄ちゃんと似ています」

「受け継がれるのでしょう。時と場所を違えど」

「ええ、後で聞きましたが、そのお兄ちゃんは地元じゃトップの高校に進学したらしいですから。佐賀さんもそうだったのでしょう」

「そうかもしれません」

「でも不思議です」

「何がですか」

「例えば夏休みで長いあいだ稽古を休みにしていたら、夏休み明けにやってきた子供たちは、以前の半分もうまく動けないんです」

「それは、僕のところもそうでした」

「中には練習が始まってすぐに倒れる子が出たり。こっちは加減して稽古をつけているのにですよ」

「ええ」

「でも佐賀さんはいま、こうしてまともに動けています。夏休みの何百倍もブランクがあるのに。私と比べても、そう遜色ない」

「とんでもない。いまに、膝に手を付きたいくらいです」

「いえいえ、お顔がまだ冷静です。脳冷足温、とてもいい状態だと思います。不思議です」

「呼吸です」

「え」

「呼吸だと思いました。いま」

 そこで佐賀の鏡は、動きをいったん止めた。

「呼吸?」

 動作のために構えていたところから、作法に倣って元の位置に戻る。

 ハーァッ。

 最後の搾り粕まで肺から空気を出すと、あとは自然と全て、新鮮な空気が入ってくる。彦山から教えてもらった呼吸だ。

「振り返れば、僕はこの呼吸の仕方をずっと意識して、空手を辞めてもこの十年、過ごしてきたように思います」

 動作中、真希の息は平然としていたが、佐賀はやはり、息が荒れた。しかしたった一度の深呼吸で、佐賀はほとんど、平生の呼吸を取り戻している。武術の神秘だ。

「呼吸に記憶があるんだと、いま思いました。だから心と身体はいま、その呼吸から記憶を得て、十年前とさほど変わらず動けるのだと」

 呼吸に記憶がある。独特な発想の佐賀に対して、真希は、正直に言えば何を言っているのか分からない気持ちだったが、その呼吸で十年のブランクがあるとは思えない動きをしているのは事実。

「凄いです」

 真希は純な心でそう言った。

 そして——凄いです。

 目の前の芸術家に「凄いです」としか言えない自分の感性の無さ、語彙力の無さに、真希は生まれて初めて向いた方向への羞恥心を、このとき得た。

「さあ、次は型をしましょう。佐賀さんは何が好きですか」

 真希がそう言うと、佐賀は、

「全て好きです」

 と言った。普通は、自分の骨格や筋量に合わせて、得意な型、好きな型が出て来るものだが。

「そうですか」

 この人は、全てを受け入れる包容力がある。真希はそれに対して、ああ、やっぱりこの人は、優しい人なのだな、と思った。

 それからも続いた稽古は、一時間ほどで終わった。真希はもっと動きたい気分だったが、さすがの佐賀もやはり体力が無いのは否めないと真希も分かったので、

「終わりましょう」

 と真希は切り上げることにしたのだ。

「汗びっしょりですね」

 季節は初夏、それでも今日は暑い日ではないが、佐賀の黒いTシャツは肉厚な筋肉にペットリと張り付いており、それが肉体の陰影さえ作っている。真希は一人の女性として、佐賀のその姿を見て己の肉感にグ、と答えてくるものがあったが、

「風邪ひかないようにしてください。そうだ、タオル持ってきます」

 きっとその気はないだろう佐賀に対し、真希は気持ちを抑える。

「ありがとうございます」

 佐賀はそう言って真希が持ってきたタオルを受け取ると、汗だくの顔を拭き、腕の汗を吸い、そのまま髪の毛をわしゃわしゃと散らかした。

「ボサボサですね」

 すぐに更衣室で着替えてきた真希は、出て来て見えた佐賀の姿が、ちょっと面白かった。

「これほど汗を掻いたのは久しぶりです」

 まるでお風呂上がりのようなポワ、とした充足に満たされている感じ。手足の先まで、心地よい体温が行き届いている。

「どうでしたか、久しぶりの空手は」

 真希が聞くと、佐賀は「ええ」と一呼吸おいて、「まだまだです」と言った。真希は、ああこの人はいつだって修行中なのだな、と思った。見習わないと。



 真希はまだ一人で稽古の研究をすると言って、佐賀は「では」とそこを後にした。UNZENメンタルヘルスケア入り口を開ける。

 ス——。

 心地よい風が、首筋を走って抜けていく。火照った身体が冷めていくよう。

 ただ、ここで佐賀はいけないいけないと、このまま瞬間的な気持ちよさを堪能していると風邪をひきかねないと思い、ちょっと急いで階段を降りていく。汗でびしょびしょのTシャツが、既に冷たく感じる。

 タッタッタッタ。

 一段飛ばしで、軽快に降りていく。

 あれ——。

 佐賀は階段を降りきるちょっと手前で、帽子を深く被った男が階段を上り始めるのを見た。

 佐賀はそのまま階段を降りきり、急ぎ足でアパートへ帰るのだが。

 確か、この前も見たような。

 佐賀はちょっとそれを考えたがすぐに忘れて、新緑が青々と色づいていく並木を歩きながら、絵のことを考えた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み