第56話 川端の大事な時期

文字数 2,900文字

 五回目。その日は月曜日。

 佐賀は次の日の朝も喫茶アズミにやって来たというわけだ。

——いらっしゃいま……

 喫茶女房はその客を、昨日ヘロについて尋ねてきた人物であると認めると、明らかに語尾をすぼませた。

「お決まりになりましたらお声かけ下さい」

 喫茶女房がおしぼりを置きに来る。それもできるだけ近づきたくないという意志の所々見える、よそよそしい所作に見えた。

「アズミセット、お願いします」

 コーヒーとサラダとフレンチトーストのアズミセット。この絶品のフレンチトーストがなぜアズミセットというセットメニューの一部としてしかなく、単品では存在しないのか。普通だったらそんなことは考えない。これは、仕事だ。

「かしこまりました」

 喫茶女房は復唱せずすぐに下がり、キッチンカウンターへ入る。

 何かある。何もないということはない。どこに探りの糸口があるのか、それは見た目じゃ分からない。

「お待たせしましたアズミセットです」

 他に客が入ってくることもなく、最速で出て来る。今日は空いている。

「ありがとうございます」

 佐賀はそう言って頭を下げる。自分は悪いことをしている。それに気付かないよう、佐賀は思考の外にそれをやる。しかし心に刺さっている何かがずっと震えている。

「……」

 喫茶女房は、それに対して何か会釈を返したり、言葉を返したりする余地を心の隅に空けたような、そんな間を僅かに見せたが、何もそこから出て来ることはなく、そのまま無言で戻って行った。

 佐賀はとりあえずアズミセットを食べようと思った。ヘロと、そして、千尋が来るのを待ちながら。

 月曜日は、千尋の司書業務が休みの日だ。月水が休みで、可愛そうな火曜日。千尋は休みの日でも図書館で前業をしてきて、ここでモーニングを食べて帰って寝ると以前言っていた。

 しかし。

 ——八時。

 千尋はなかなかこない。

 荘厳な装飾の施された振り子時計は、もう既に秒針が一周回って、八時一分を示すところ。

 不味い汁を口に含む。

 八時にやって来るはずのヘロとこれまでよく相席していたとするのなら、少なくとも千尋はそれよりも前に入店しているはずだが。

 佐賀はまた振り子時計を見る。

 八時三分。

 千尋はこない。そしてこの時間ということは、今日もヘロは来ないだろう。

 今日は佐賀以外に、客はいない。朝の優雅な音楽が流れる、静かな店内。ここは世界から取り残されてしまったのか? そんなはずはない、と冷静になる。

 しかしいよいよ、佐賀はこの奇妙さに、気づかなければならなかった。自分が見ている絵が、実はだまし絵だったかもしれないことに。

 この街では、これまで続いてきた何かが、いまこの瞬間にも、生まれ変わろうとしているのだと。それは良い方向へ変わるのか、悪い方向へ変わるのか誰も知り得やしないが、佐賀はその端境期にいま、この街の住人になりつつある者として、片足を突っ込んで浮世絵師として観察しているのだと。

 佐賀は入り口に目を遣った。テーブルの奥の席、佐賀の座っている席からは、向かって真っすぐに見えるところにある。

 ——人影。

 扉の傍のぼかしガラスからそれが分かる。佐賀は思考を一旦止めて、じっと、視線を固める。

 チリン、チリン。

 果たして扉を開けたのは、ここの常連らしきお爺さんだった。ここ何日で何回か、見たことがある。

 佐賀は、正直に言えば既に分かっていた。ヘロは紅一色の格好をしているのだから、ぼかしガラスに映っている人影には紅色が目立つはずで、さっきはそうでなかったから、明らかに違うと。

 ただ、千尋かもしれない、というのは胸からせりあがる緊張をもって、佐賀の意識を集中させた。あの人影は千尋かもしれない、と、その可能性はまだあったからだ。

 しかし扉を開けたそのチリンチリンの音色の時点で、ああ、千尋ではない、と佐賀は分かった。実際、入ってきたのは見知らぬその、常連のお爺さんだった。

——いらっしゃいませー。

 喫茶女房がそう言いながらお爺さんを席へと案内すると、そこで二人は少し談笑をしている。最近暑くなりましたねー。半袖で来ちゃったよ。もう夏ですね。ああ、でもその前に梅雨だ。あー梅雨ですね。来週からぼちぼち、雨予報みたいだよ。本当ですか、コーヒーも味が変わりますからね。雨で? はい、その日その日の気温、湿度で、実はちょっと違うんですよ。へえ、そうなのかい。

 佐賀はその間、己の中に生まれていたこの、期待を打ち破られる失意の念というものを見つめていた。ヘロ、もしくは千尋の登場を待っていて、全然違う人物が入ってきた。ここ何日かで、そういうことを佐賀は何十回と繰り返してきた。

もし、その扉を開けた人物がヘロ、もしくは千尋だったなら。佐賀はそう考える。そう考えると、自分はまるで暗闇の中に一筋の光が差したような、そんな顔をするのだろう、と思った。

「あ」とヘロを見る千尋。

 千尋は、ヘロの登場のとき、何を考えていたのか。なぜヘロを見て涙を流すのか。分からない。これは、聞かない限りは分からない。

 そこで佐賀は、真希から教わった、動く、ということを閃光のように思い出した。ここでそれを逡巡したとして、解決するものは何もない。お爺さんが注文をしたのを受けて、喫茶女房が調理に入る前に佐賀はお会計をしようと、「ごちそうさまです」と立ち上がった。

 すると——

「あ、ちょっと」

 喫茶女房は、さっきまでの佐賀に対するしらけ具合を全部取り払ったような快活さで、佐賀にそう言った。

 佐賀はそれで、ちょっと呆気にとられた。とても、明るい声だ。あのときの、ボーっとテレビを見ていたような感じとは、正反対の。

「いい? 話」

 喫茶女房はそう言って、カウンターに座るように促した。

「お待たせしてごめんなさいね」

 常連のお爺さんに注文のアズミセットを提供すると、喫茶女房は佐賀のところにやって来てそう言った。

「あ、いえ」

 やはりさっきまでの自分に対する対応の仕方とは正反対で、その急な変化に対して佐賀は戸惑う。

「え、っと。何かヘロについて知っていることがあるんでしょうか」

 佐賀は、単刀直入を丸く包んでそう聞く。

「はい、知ってます」

 喫茶女房は、やけに自信を持ってそう言った。あなたが知らないと思っている、その何倍も知っていることがある、と言いたげな語気だった。その語気から、たったひとりでお店を切り盛りしているこの初老の女性に対して、佐賀はその強き芯の部分に触れた気がした。

「安住さんはもう何年も前に、私たちの前から消えたんです」

 安住、という名前が出て来て、佐賀は、「アズミ?」と復唱する。ここは喫茶アズミだ。

「安住英雄。ここ喫茶アズミの本当のマスターで、本当のヘロさんです」

 佐賀は、いつか鈴木商店の親父が言っていたことを思い出す。

——アズミヒデオって、この街じゃ有名な名前だぜ。

「詳しくお聞きしてもよろしいですか」

 佐賀はちょっと時機を見て、喫茶女房にそう言った。本当のヘロ。では、いまのヘロは何者なのか。

「はい」

 何の因果かは知らないが、これまでなにも話そうとしなかった喫茶女房は、佐賀にその話を始めた。
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