第32話 握力
文字数 2,410文字
佐賀は、真希が一人暮らししているワンルームマンションの三階へ来た。女性の一人暮らしの部屋に入るのが初めての佐賀は、キッチンで真希がなにかしている間、しきりにキョロキョロとしていた。いざ来てみるとなんだか、気を遣う。
「別に珍しいものはないですよ。必要なもの以外は実家に置いてあります」
真希は料理の乗ったお皿を二つテーブルに置いた。ポテトサラダと、八等分に切ってある林檎。「作り置きですみませんがよければ」
「いえ、ありがとうございます。いただきます」
真希はそこで、待てと言われた犬のように黙る。佐賀が割りばしでポテトサラダを一口食べると、
「美味しいです」
そう言うと、初めて真希は嬉しそうにはにかんで、取り皿に自分の分を少し移した。
「僕と似ている感じがして。いま住んでいるアパートには作業用のテーブルしかありませんし、東京に構えているアトリエにも、必要なもの以外は置かない主義です」
真希の部屋にあるのは、机と椅子とテーブルとベッド、あとは鏡と観葉植物などのインテリアくらいだ。テレビはなく、偏見だが女性の一人暮らしにしては、質素な印象を受ける。
「似て来るんですかね、空手の道を辿ってくると」
佐賀はそれには答えずに、「さっきの話ですが」と始める。
「結論から言うと僕は破門されたんです」
「ん?」
ポテトサラダごとお箸を口の中に入れたまま、真希はそんな声を発した。
「先生の息子、錬太郎っていうんですけど僕を慕ってくれた後輩で、先生の葬式については破門された僕に気を遣ったらしくて」
二つ下の彦山錬太郎が喪主として彦山総司の盛大な葬式を取り仕切ったということは、人づてに耳にしている。二つ下だから歳は二十六、立派なものだ。
「気を遣った? その、錬太郎君が」
「はい。破門、ってほとんど縁を切られたようなものです」
佐賀は当時の自分を振り返りながら、話を続けた。
「整列っ」
筋骨隆々は真っ白な道着を纏い、腰に黒い帯を結んでいる青年、高校三年生の佐賀が稲妻のような号令をかけた。すると各々、適当な場所で自主練習していた稽古生たちは自分の決められた稽古位置にババババと綺麗に整列して、
「正座」
佐賀が最も上座の位置で静かにそう号令をかけると、サッ、サッ、と作法に則り、揃って稽古生たちが正座をする。最前列は上座に佐賀、佐賀の隣には大学生の椎名、その隣にも大学生の福田、やっとその隣に佐賀の二つ下の後輩、彦山錬太郎がいるという並びで、後ろに何列か後輩が続く。
「今日から夏休みらしいな。気を抜かんように」
正座した二十名ほどの前で、彦山の稽古前の説教が始まる。いつもの流れ、かと思いきや、「ケン、お前がせえ」
彦山はそう言い残して、道場の後ろに下がった。突然の出来事だった。稽古生は互いに目を合わせたりして戸惑っていたが、状況を察した佐賀は、「起立っ」
そう号令をかけてその日、初めて佐賀が稽古をつけた。彦山が後ろから頷いたり、首を傾げたりするのを見ながら、いつもの彦山の真似をした。その日から週に一度はこうやって、佐賀が彦山に代わって稽古をつけるようになった。
「ちょっと待って佐賀さん高校生で彦山先生の代役に立ったってこと?」
聞いてくる真希に佐賀は「大学生に指示するのは、ちょっと憚られましたが」と答える。
「へえ、凄い実力だったんでしょうね。彦山先生が認められたんですもの」
佐賀は、真希が彦山先生のどれほどを知っているのか分からないが、反応としては正解だなと思ったので苦笑いしつつ「ありがとうございます」と言って話を続ける。
「ケン兄」
稽古後、他の者たちが汗を拭いたりお茶を飲んだり楽しそうに談笑したりしている中で、佐賀はじっと一人で一点を見つめて座っていた。
今日の稽古はどうだったか。上手くいったところは、上手くいかなかったところは、どこか。特に今日は佐賀が教えた日で、反省と改善と課題と解決を思考しているのだ。
「どうした」
錬太郎が佐賀の横に座って、佐賀を見て「結局、ケン兄の握力はどれぐらいなん」と聞いてきた。錬太郎は先生の息子であるが、ここでは誰も色眼鏡で見たりなんかしない。
「錬太郎は」
「俺は四十三です」
そのときの佐賀は高校三年生、錬太郎は高校一年生。高校一年生にしては悪くない錬太郎だが、佐賀はその比じゃない。
「その二倍ぐらい」
さらっと言う佐賀に、錬太郎は驚く。
「八十⁉」
本当だった。強くなるためにはどうすればいいか、最適解を辿っていく中で、自然とそうなっていただけの話。
「確かに言ったが、握力は大きな武器だ。話の通じない変な奴に絡まれたときとか」
兄貴のように慕っている錬太郎は、素直にうんうんと聞く。握力の利点については、今日の稽古で佐賀が皆に話してみたことだ。
「鉄の掟があるから、俺たちは手を出せない」
彦山の道場では、いや、武術を志す者は全員がそうあるべきだが、武術の技を人に使ってはならない。特に彦山の道場では、これは鉄の掟として昔から稽古生に受け継がれているものだ。
「さっきも言ったけど、逃げるのが一番だ。まずは逃げることを考える、しかし、逃げられない場合があるだろう。状況、状況で変わってくる。すると、どうにかして相手を威嚇して退かせなければならない。じゃあ手を出さない範囲で相手を退かせるには」
佐賀は錬太郎に、自分の腕を掴むようにジェスチャーすると、掴んできたその腕を反対の手で掴んだ。
「圧する」
佐賀は錬太郎の腕を、油圧でプレスするかの如く、言葉通り圧した。
「痛い痛い痛い」
佐賀が手を離すと、錬太郎は本当に痛そうな表情をしてその箇所をさする。
「こんな力を持った人間と戦おうなんて普通は思わない。そして鉄の掟も破らずに済む」
錬太郎は自分の圧された箇所を不思議そうに見ながら、「潰されるかと思った」と言った。「全力じゃないぞ」と佐賀が言うと、錬太郎は「ええ」と少し引いたように反応をする。
「別に珍しいものはないですよ。必要なもの以外は実家に置いてあります」
真希は料理の乗ったお皿を二つテーブルに置いた。ポテトサラダと、八等分に切ってある林檎。「作り置きですみませんがよければ」
「いえ、ありがとうございます。いただきます」
真希はそこで、待てと言われた犬のように黙る。佐賀が割りばしでポテトサラダを一口食べると、
「美味しいです」
そう言うと、初めて真希は嬉しそうにはにかんで、取り皿に自分の分を少し移した。
「僕と似ている感じがして。いま住んでいるアパートには作業用のテーブルしかありませんし、東京に構えているアトリエにも、必要なもの以外は置かない主義です」
真希の部屋にあるのは、机と椅子とテーブルとベッド、あとは鏡と観葉植物などのインテリアくらいだ。テレビはなく、偏見だが女性の一人暮らしにしては、質素な印象を受ける。
「似て来るんですかね、空手の道を辿ってくると」
佐賀はそれには答えずに、「さっきの話ですが」と始める。
「結論から言うと僕は破門されたんです」
「ん?」
ポテトサラダごとお箸を口の中に入れたまま、真希はそんな声を発した。
「先生の息子、錬太郎っていうんですけど僕を慕ってくれた後輩で、先生の葬式については破門された僕に気を遣ったらしくて」
二つ下の彦山錬太郎が喪主として彦山総司の盛大な葬式を取り仕切ったということは、人づてに耳にしている。二つ下だから歳は二十六、立派なものだ。
「気を遣った? その、錬太郎君が」
「はい。破門、ってほとんど縁を切られたようなものです」
佐賀は当時の自分を振り返りながら、話を続けた。
「整列っ」
筋骨隆々は真っ白な道着を纏い、腰に黒い帯を結んでいる青年、高校三年生の佐賀が稲妻のような号令をかけた。すると各々、適当な場所で自主練習していた稽古生たちは自分の決められた稽古位置にババババと綺麗に整列して、
「正座」
佐賀が最も上座の位置で静かにそう号令をかけると、サッ、サッ、と作法に則り、揃って稽古生たちが正座をする。最前列は上座に佐賀、佐賀の隣には大学生の椎名、その隣にも大学生の福田、やっとその隣に佐賀の二つ下の後輩、彦山錬太郎がいるという並びで、後ろに何列か後輩が続く。
「今日から夏休みらしいな。気を抜かんように」
正座した二十名ほどの前で、彦山の稽古前の説教が始まる。いつもの流れ、かと思いきや、「ケン、お前がせえ」
彦山はそう言い残して、道場の後ろに下がった。突然の出来事だった。稽古生は互いに目を合わせたりして戸惑っていたが、状況を察した佐賀は、「起立っ」
そう号令をかけてその日、初めて佐賀が稽古をつけた。彦山が後ろから頷いたり、首を傾げたりするのを見ながら、いつもの彦山の真似をした。その日から週に一度はこうやって、佐賀が彦山に代わって稽古をつけるようになった。
「ちょっと待って佐賀さん高校生で彦山先生の代役に立ったってこと?」
聞いてくる真希に佐賀は「大学生に指示するのは、ちょっと憚られましたが」と答える。
「へえ、凄い実力だったんでしょうね。彦山先生が認められたんですもの」
佐賀は、真希が彦山先生のどれほどを知っているのか分からないが、反応としては正解だなと思ったので苦笑いしつつ「ありがとうございます」と言って話を続ける。
「ケン兄」
稽古後、他の者たちが汗を拭いたりお茶を飲んだり楽しそうに談笑したりしている中で、佐賀はじっと一人で一点を見つめて座っていた。
今日の稽古はどうだったか。上手くいったところは、上手くいかなかったところは、どこか。特に今日は佐賀が教えた日で、反省と改善と課題と解決を思考しているのだ。
「どうした」
錬太郎が佐賀の横に座って、佐賀を見て「結局、ケン兄の握力はどれぐらいなん」と聞いてきた。錬太郎は先生の息子であるが、ここでは誰も色眼鏡で見たりなんかしない。
「錬太郎は」
「俺は四十三です」
そのときの佐賀は高校三年生、錬太郎は高校一年生。高校一年生にしては悪くない錬太郎だが、佐賀はその比じゃない。
「その二倍ぐらい」
さらっと言う佐賀に、錬太郎は驚く。
「八十⁉」
本当だった。強くなるためにはどうすればいいか、最適解を辿っていく中で、自然とそうなっていただけの話。
「確かに言ったが、握力は大きな武器だ。話の通じない変な奴に絡まれたときとか」
兄貴のように慕っている錬太郎は、素直にうんうんと聞く。握力の利点については、今日の稽古で佐賀が皆に話してみたことだ。
「鉄の掟があるから、俺たちは手を出せない」
彦山の道場では、いや、武術を志す者は全員がそうあるべきだが、武術の技を人に使ってはならない。特に彦山の道場では、これは鉄の掟として昔から稽古生に受け継がれているものだ。
「さっきも言ったけど、逃げるのが一番だ。まずは逃げることを考える、しかし、逃げられない場合があるだろう。状況、状況で変わってくる。すると、どうにかして相手を威嚇して退かせなければならない。じゃあ手を出さない範囲で相手を退かせるには」
佐賀は錬太郎に、自分の腕を掴むようにジェスチャーすると、掴んできたその腕を反対の手で掴んだ。
「圧する」
佐賀は錬太郎の腕を、油圧でプレスするかの如く、言葉通り圧した。
「痛い痛い痛い」
佐賀が手を離すと、錬太郎は本当に痛そうな表情をしてその箇所をさする。
「こんな力を持った人間と戦おうなんて普通は思わない。そして鉄の掟も破らずに済む」
錬太郎は自分の圧された箇所を不思議そうに見ながら、「潰されるかと思った」と言った。「全力じゃないぞ」と佐賀が言うと、錬太郎は「ええ」と少し引いたように反応をする。