第24話 熱い道

文字数 2,404文字

「やあ」
「こんにちは」
 佐賀と千尋がそれぞれ声をかけると、

「おお、佐賀君に、千尋さん」

 英雄にそう知人みたく呼ばれるのは不思議な経験だなと佐賀は思う。

「ゴミ拾いかい」
「ああ。公園は」
 言って、落ちている駄菓子の小袋を右手で拾うヘロ。
「ちょっとゴミが多いんだ」
 ヘロの左手には、いくつかゴミが溜まっている。

「そうか」
 チラ、と千尋を見ると、やはりどこか、この場に不慣れといったような雰囲気でいる。これも違和感だ。
「また案内してくれよ」
 佐賀はそう言って、千尋と共にその場を離れる。





「ヘロとは顔見知りじゃないのかい」
 歩きながら佐賀がそう聞くと、「顔見知りです」と、それだけ言う千尋。そのまま沈黙が続いた。二人は歩いた。暑い、真っ青な空の下。暑いのはきっと、千尋の隣を歩いているから、というのもある。暑いではなく、熱い、だ。

「この公園にはいないはずなんですよ」
 この公園にはいないはずなんですよ、といま聞こえたな、と佐賀の鼓膜の奥、側頭葉でシナプスが伝達して佐賀を理解させる。

「ん、さっきいたじゃないか」
 先ほどの千尋の涙のわけを気にしていた佐賀は、前の話の文脈を踏まえずにヘロがいるいないという簡単な二択にだけ反応し、「でもヘロさんはいまごろ、この近くにある幼稚園の校門で子供たちとハイタッチしているはずなんですよ」と千尋が返してきたことにより、「ああ、それは、おかしなことだ」と、現在の会話の位置を知る。

「つまり順を追って言うと、ヘロは今日、喫茶アズミに来なかった。喫茶アズミに来ない日は、幼稚園の校門で子どもたちをハイタッチしているに違いないということだね。しかしなぜかヘロはいま、この公園でゴミ拾いをしている。鉄道が定刻通りに駅へやって来ずに、なぜか線路のない森の中を走っている」
 佐賀は後ろを振り返り、紅一色の英雄がゴミが落ちていないかと道を歩いている姿を見る。

「それも、何の変哲もなく」

 言いながら、英雄がゴミ拾いをしているという光景はしかし変哲だらけだな、と思い直してみる。
 千尋は後ろを振り向かずに、というよりもその対象を振り向くには己の中に十分な勇気、覚悟がないといった焦燥を背に負って、「はい」と一言、まっすぐ前を見て言った。

 聞けないのか。聞かないのか。

 千尋のためにそれを聞かないのか、自分のためにそれを聞かないのか。

「では、私はもうこの近くなのでここで。佐賀さんは?」
 遊歩道の端、公園の出口まで来て、千尋はそう言った。
「ああ」
 ここの近くなんだな、と佐賀は思う。

 学生時代は青春を空手に捧げ、それから現在に至るまで芸術を糧に生活してきた佐賀。「佐賀さんは?」といま千尋が聞いてきたのに対して理性が勘違いしそうになるが。

「帰って仕事さ」

 口に言葉を出す寸前で距離感のピントが合い、心の中で佐賀は改まる。
「そうですか。じゃあ、またね」
 小さく手を振って、千尋は公園の出口に抜けていく。またね。
「ああ、また」
 サ、と手を挙げて、佐賀は返す。その背中を少し、見送る。

 天気は快晴、雲一つなく、半袖の佐賀は心地よい風を受けながら、来た道を一人で戻っていく。

 またね。
 小さく手を振る千尋。割と近い距離感のそのセリフひとつで、佐賀は「もしかして本当に家に上がっても良かったのかもしれない」などという妄想を広げる。

 だがしかし、そうなのだ。

 千尋が「またね」と心を許した友だちみたいに言ったのは、進歩したのではないか。
 一人で歩きながら、佐賀は様々なことを考えていく。それは若き芸術家の幸福な時間だった。

 しかしある時点で佐賀は、

 いったい何を考えているんだ、俺は。

 急な虚無のようなものを感じて、いつの間にか微笑んでいた表情は、フッと抜け落ちるように力を失い、消失した。

 聞けないのか聞かないのか。
 千尋は、何か隠していることがある。佐賀はそう感じている。

 それを聞けないのは、聞かれたくない何かを隠している千尋のためを思ってか。それとも、その何かを聞くことで千尋との関係性が悪くなってしまう自分のためを思ってか。
 千尋のためか。自分のためか。
 出来るだけ全てのことにおいて最適解を辿っていく。俺は一流の浮世絵師。これは仕事なのだ。
 佐賀は、自分がこの街にやって来た理由をいまいちど思い出す。

 ウチの街を描いてもらいたい。

 それは雲仙観という版元の依頼。

 住居の提供、生活費の工面、加えて約束されている、報酬としては信じられない程の金額。そこまでして絵の制作を支援してくるということは、雲仙がこの佐賀謙という浮世絵師にそれほどまでの大きな期待をしているのだと、佐賀は仕事人として客観的に認識している。
 その大きな期待に対して、佐賀は今回の仕事というのはいつもながらそれ以上に、これまでのどの仕事よりも半端な姿勢が、僅かでもあってはならない。自分に描けうる絶対に最高のものを仕上げなければならない、その気合いで応える覚悟である。
 そのためには出来るだけ全て、いや、完全に全てのことにおいて最適解を辿っていく必要がある。

「あ」と口を開けて英雄を見ている女性。
 それを描くために必要なうちの一つ、宮間千尋という女性についての情報。

 ——またね。
 ——ああ、また。

 千尋のためか。自分のためか。

 それはきっと、自分のためだ。自分のために、佐賀は千尋に、聞くことをしない。それを聞くことによって、自分との関係性が悪くなってしまうのを恐れているから。

 しかしこれは仕事だ。大きな期待に一流の浮世絵師として答えてみせると決めている。最高の浮世絵を作るためには、自分のため、なんてたかが知れている。

 自分を殺してでも。

 佐賀はそこまで考えて、なに自分はこれほど深刻なことを思考しているのだろうと、また俯瞰になる。まだ時間はある。焦る必要はない。しかし……。
 芸術家は雲一つない晴天の元、熱い道を一人、歩いていく。
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