第45話 彦山登場

文字数 2,962文字

 チリンチリン、と入り口が開いて、彦山は入ってきた。集合時間の二十分前、雲仙はテーブル席の入り口が見える奥の方に座っていたから、現れた彦山にその場でサッと手を挙げる。すぐに気が付いた彦山はその場で礼をした。

 くれぐれも失礼のないように。

 雲仙は安住に、そう伝えておいた。その真剣さがちゃんと伝わったのか知れないが、安住は「分かった。大丈夫。俺は失礼のない人間だ」と説得力の欠片も無いセリフを堂々と口にしてくれた。

——いらっしゃいませ。

 安住はそう渋い声で言い、手元では静かにグラスを拭いている。いつもならば「初めてかい。だったらコーヒーはまずブラックで飲んでみてくれ。自慢だ」くらいにフランクな接客をしてくれる安住だが、さすがにわきまえているようだなと雲仙は少しだけ安心した。

「久しぶり、元気か」

 何年かぶりだ。雲仙は少しぎこちなくも、彦山に言った。筋骨隆々はシャツにジャケットを羽織ったスマートカジュアルな格好、目つきは鋭く、表情は澄んで、口元には涼やかな余裕が漂っているという、一目見てただものではない何かを感じさせる若者。

「はい、元気です。すみません、遅れてしまって」

 大抵のそういう覇気ある人間が他人への気遣いを軽視しているような昨今で、この彦山という男はちゃんとそこをわきまえているようだった。

 大人になった。

 雲仙は、雲仙の知るそうでない彦山を思い出しつつ、「いや、ちょうどいい」と返す。

「先生はお元気か」

 まあ座れ、と目の前に席を促す雲仙。彦山は「失礼します」と言って座る。

「また肺を悪くされましたが、お元気です」

「そうか。よかった」

 師匠の下を離れて三年、その間にも何度か挨拶には伺ったが、確かにお歳はお歳、今年で八十二で身体に不調は出てくると本人も仰っていたが、お元気なら何よりだ。

「ご注文決まりになりましたらお呼びください」

 頃合いを見ておしぼりを持ってきた安住に、彦山は感じの良い会釈を返す。

「コーヒーでいいか?」

 雲仙がその場で彦山に聞くと、「はい、お願いします」

「コーヒー、二つ」

「はい」

「以上で」

「かしこまりました。少々お待ちください」

 安住英雄がまともに接客をしている。雲仙はふと、そんなことを思った。

「いい雰囲気のお店ですね」

 彦山は、喫茶アズミへの感想を雲仙に言う。内装のセンスも然り、ここのマスターはお人柄も良いと、そんな感心もしているようだった。

「ああ、よく来る。お気に入りだ」

 何となくこっぱずかしい気持ちになり、コーヒーを入れている安住には聞こえない声量で雲仙は言う。

「あの振り子時計、かなり豪華ですね」

 彦山は後ろを振り返って、お店の壁の真ん中に置かれている大きな振り子時計を見て言った。

「ああ、ここの店主は昔、フランスで時計職人をやっていてね。自分で作ったみたいだ」

「自分でですか」

 振り子時計の豪華な造り、言葉を変えれば派手な見た目からして、いまの店主の落ち着いた様子とは相いれないな、と彦山は違和感を持つようだった。

 ちょうど、コーヒーを二つトレーに乗せて、安住がやって来る。

「お待たせしました。コーヒーでございます」

 二つ、テーブルの上にコースターとコーヒーを置く安住。

「それと」

 安住はキッチンとカウンターの間に用意しておいたものを持って来て、

「付け合わせのフレンチトーストでございます」

 お皿には食パン二枚分のフレンチトーストが盛りつけられている。彦山は「ああ、ありがとうございます」と言って、それと雲仙とを交互に見遣る。

 不穏な予感というのは、決まって的中するものだ。

 雲仙は、「ありがとうございます」とはっきり分かるように言った。安住は、「いえ、いつも雲仙様にはお世話になっておりますので」と、分かっているのか分かっていないのか分からない言葉を口にする。



「この時代に中学生小学生の子供に空手の神髄を教えられるとは思わない」

 コーヒーの付け合わせのフレンチトーストを二人で食べつつ、雲仙は彦山からの「どうやって子供たちに空手の重要な部分を教えていけばよいか」という質問に答える。電話でも言っていたが、近々、道場を開くらしい。

「だから俺は年齢を中学生までと制限している。手を抜いているわけではないが、精神科医としての業務もあるからな。もしも、そこでもっと空手を深めていきたいという意志の子が現れれば、喜んで付き合うつもりで」

 しかしまだそういう子は一人もいない、という言外の語尾を彦山は理解した。

「まだ二年、これからだ」

 そこまで雲仙が言うと、彦山は、

「そうですか、僕も、空手の重要な部分を教わったのは上京して師匠に出会った十八の頃ですし。ちょうどそのときがいいタイミングだったのかもしれません。そういった深いものを己に取り込むのには、年齢的に」

 雲仙は、十八歳の垢抜けない田舎の面をした眼光鋭い青年彦山が、新入りとして初日に放った言葉を思い出す。

「あれは衝撃だった。覚えてるか、高校を卒業したばかりの彦山が、新入りの挨拶としてみんなの前で開口一番」

「すみません。あれは無礼でしたね」

「『一年後にはここにいる全員を倒す』って」

「笑われましたね。何より、実現できませんでしたし」

「みんなあのあと、『何日持つだろうな』って、そんな話をしたんだ。早くて明日、もって一週間で逃げるだろうと。それぐらい厳しい道場だったから、最初は気にもしなかったよ、そんな新入りのことは」

 フレンチトーストを口に入れる。それにしてもバターとシロップと卵が噛むほどにジューシーに口に広がって、なかなか美味しい。メニューにはないが、新商品ということだろうか。

「でも一週間、一ヶ月、半年が経って、いよいよみんな恐れ始めた。何を恐れたかって、彦山の練習量だ。現代じゃ止めたほうがいいって言われるラインを軽々と越えて、しかもそれを毎日欠かさずやっていた」

 先輩からの賛美的な懐古に、俯き加減に恐縮する彦山。

「周りの奴らには彦山のことを妬んだ者も確かにいた。年下で入ってきた生意気な田舎者に一年やそこらで追い抜かされたとあっては、面目は丸つぶれだ。でも少なくとも俺は、周りが彦山に追い抜かされるのは当然だと思ったし、俺自身が追い抜かされたのも、それも当然だと思った。だってそうだろ、彦山とその他とでは、練習量が違う。練習量で彦山に勝てたやつなんていない。当然の結果だと思う」

 雲仙は言ってみて、目の前に居る後輩に自分は、なんでこれまで無意識に怖れを抱いてきたのだろうかと思っていた。その恐れは、目の前の後輩が自分も含め他を圧倒して異例の速さで日本一になったことに対してか、それとも、その日本一になれるだけの練習量をこなす鬼のような気迫に対してか。

 いや——きっとその奥にある、冷たい何か。成功者特有の、熱くて冷たい何か。いまはもうそれは温かいもので、雲仙は彦山に対して恐れを感じない。

「僕は僕より凄い子を育て上げるのが夢なんです。空手だけじゃなく、他の競技、勉強でも、音楽でも、絵でも、そういう子を育ててみたいんです、弟子としてですね」

「じゃあ彦山が弟子を取れるのは、まだ遠い先の話だろうな」

 雲仙はそう言う。彦山を越える人間は、そう簡単には現れないだろう。

「はは、そうですね」

 フレンチトーストを食べる。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み