第16話 雲仙観という男

文字数 1,867文字

雲仙観は今回の佐賀の仕事の依頼主。浮世絵制作の過程で言えば、雲仙は版元ということになる。

「ウチの街について描いてもらいたいんだがね」

 そう佐賀が雲仙から依頼を受けたのは昨年末、勉強のため東京のオークション会場にやってきていた佐賀に、雲仙も参加していた時だった。

「町長さんがオークションですか」
 佐賀の作品が出品されているわけではなかったが、その日、巷で有名な佐賀謙という浮世絵師がこの会場に来ていると、会場で噂になっていた。

「町長ではない。その街で精神科医をやっている」

 あれが佐賀謙か。若いし、やっぱり生意気そうだな。意識してみると、あちらこちらからそんなニュアンスの視線が佐賀を窺ってくるようだった。

「でしたら『ウチの街』なんて言わないでしょう、普通は」
 佐賀は話しかけてきた初老の男性と目も合わせずに、そう返した。残念ながら、噂話を立てられていた佐賀はそのとき、ちょっと虫の居所が良くなかった。

「長く住んでいるから、愛着を込めてそう言っただけだ。どうだ、金額も覚悟の上だ」
 佐賀の上げ足取りを気にせず、誘いをかける雲仙。佐賀はやっと男と目を合わせる。

「僕は絵師です。絵の依頼があれば描きます。しかしその依頼、『ウチの街を描いてくれ』というのは難しいのではないでしょうか」
「ほう、どういうところが」
 釣り餌に喰いついた、そんな期待の心で男は佐賀にそう聞いてくる。それに対して、ここは佐賀なりの礼儀として思ったことを返す。

「わざわざ僕という浮世絵師にそれを依頼するということは、『ウチの街を描いてくれ』といってもただ街の風景とか景色を描いてほしいわけではないのでしょう。だったら他にそれを得意とする絵描きはいくらでもいます」

 まだ自分のことをどれだけ知っているかも分からない人間に、自分の技術や仕事の価値を安く見せるような謙遜の類は、佐賀はしないと決めている。佐賀は、界隈では唯一無二の存在と言っていい、現代の浮世絵師なのだ。

「考えるに、その街の人々における特徴ある日常、といったところでしょうか。特定のコミュニティだけに存在する文化というのは確かにあると思います。Aの街では人の歩くスピードが速いとか、Bの街では痩せている人間が多いとか。そういうものは統計調査されないため表に出て来ず、そこに住んでいる人にだけ、内在的にあるものだと思います。つまり」

 男は少しうつむき気味に黙って、耳に集中している。佐賀の話を集中して聞いているようだ。佐賀は間を開けて、そして続けた。

「その意味で『ウチの街を描いてくれ』とおっしゃるなら、僕はその街に住む必要があります。僕は半端な仕事はしないと決めています。描くなら描くで最高のものを仕上げたい。そのためには出来るだけ全てにおいて最適解を辿っていく必要があります。もしその街の者にしか分からない『何か』があるとして、それを描くことが依頼なのであれば、僕はその街の者の一人となって、自己と他者とその街を観察して、それを感知するほかありません。もっとも、その『何か』をいまここで言ってもらってそれを絵にするのは技術的に出来なくもありませんが、それをわざわざ僕という浮世絵師に頼む必要性もないと思います。でしたら、他をあたっください」

 そこまで言うと、それまで佐賀の話を静かに聞いていた男は、「私は少々、軽い気持ちで声をかけてしまったかもしれない」

 向こうで、下見は終了です! オークションに移るので皆さま、席へお戻りください! と白い手袋をした黒スーツの男性が声を上げると、人々がぞろぞろと席に戻っていく。これからオークションが始まる。初老の男は俯いている。

 佐賀は、時間の無駄だったなと思いつつ、別れ際の体裁の良いセリフだけ残してもうその場は離れようとする。しかし男は、去ろうとする佐賀の目を見て、

「佐賀謙という浮世絵師がなぜ凄いと巷では噂されているのか、いまちゃんと理解できた」

 そう言った。表情はさほど変わらない。しかし佐賀はそのさほどの機微を見て、この人物はちゃんと理解ができる人間だな、とそのとき思った。

「その上で君に依頼したい。君の要望を全て受け入れる。話を進めよう」
 男はそのとき佐賀に、セカンドバッグに入った万札の束を佐賀に見せた。そこには五束ほどがむき出しで入れられていた。周囲で偶然それを見ていた人間が、少し驚くのが分かった。

「何者だ」

 思わず警戒した佐賀は、顎を引いてその男を見る。堅気でない可能性があると思ったのだ。
 男は、「空手家で精神科医で骨董美術のバイヤーだ」と言った。
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