第40話 作業室

文字数 4,919文字

 何か手伝いましょうか?

 佐賀はそう聞こえた気がしたが、事実、そうだったらしい。

「そうですね、では、デッサンさせてください」

 緊張で噛みそうになる口を筋肉で動かし、不自然にならないように音を発する。震えてしまいそうだった。

「デッサン? 私がモデルということですか?」

 千尋はそう驚くこともなく、まるでよく絵のモデルを引き受けている者かのようにそう言う。

「ええ、なにせ、今描いている絵がなかな進まなくてですね。腕が鈍っちゃいけませんので練習にと」

「俺がモデルじゃダメかい」

 そう冗談じみて会話に入ってきた店主。口をついてそんなことを言った。たぶん悪い人ではないだろうが、しかしまだ分からない初対面の男に、モデルをやってくれと言われて優しいこの子はそれを引き受けてしまって、万が一の場合、ということがある。

 佐賀は微笑んで店主を見る。

「ええ、お気持ちはありがたいのですが。今描いてる絵は女性の絵でですね、できれば女性を描きたくて」

「ああ、そうかい」

 店主はそれはどうしようもないなと下がる。そして案外、この男は少し変わっているだけであって、やっぱりそれほど悪い奴ではないよな、とその微笑みを見て感じる。

 似てるんだよなやっぱり。どこか、アイツと。

 店主は頭の中に、かつて街の英雄と呼ばれた人物を思い浮かべながら、そう思った。千尋をチラっと見ると、千尋は始めからその答えを準備していたかのような自然な声で、「いいですよ、モデル」と言った。



 いつかは千尋をモデルにデッサンをしなければならない。それは佐賀があの日、「あ」と遠くを見る女性という人物画を描くと決めた日から、ずっと思っていたことだ。それがまさか急に、その計画がチャンスを得て実行に移せる機会が訪れるとは。

「ほら、こうすれば」

 店主は店のシャッターを閉め、店内のいくつかの照明のうち、一つだけ点けた状態にする。

「ああ、いや」

 佐賀は、それは申し訳なさすぎるという気持ちなのだが、店主は「いいんだいいんだ。ちょうど、やらなければならないことがあるし」と返す。本心としては、やっぱり千尋を知らない男と二人きりでモデルをさせるというのが心配だからということだった。

 店主は、店内の棚や商品台を端へ動かした。すると、小さなガレージのような空間が出来上がった。

「本当にすみません。ありがとうございます」

 これは、佐賀の絵を描くときのスタイルだ。暗闇の部屋で、明かりを一つだけ点けるというもの。それはこれまで佐賀が長らく昼夜逆転の生活を送ってきた中で、夜中に作業することに慣れてしまったせいで、昼間の明るい時間だと集中できないからだ。だから佐賀はこの前、カーテンのない自分の部屋にカーテンを着けてもらうよう雲仙に伝え、昼でも暗闇空間を作れるようにしている。

「紙もペンもあるし、うってつけだろう」

 なぜこの人はそこまで良くしてくれるのか。この街の住人、みんなそうであるというわけではない。寧ろ、何となくこの街のこの店主ぐらいの年齢の人たちは、冷たい、そんな印象を受ける。ヘロがサッと手を挙げても、それにしては冷静に反応する。どこか排他的で、しかし、ゴミは落ちていない、綺麗な街。

「モデルって、何をすればいいんですか?」

 店主がまた持って来てくれた丸椅子に座って、千尋はそう聞く。

「いいんだ、とりあえず座って、適当に話すだけで。その間に描き終わる」

 佐賀は、少し離れた会計のところの椅子に座っている店主の方を見て、「できるだけ早くしますんで」と言っておいた。店主はサッと手を挙げ、手元では帳簿みたいなものをつけている。

 シャッターを閉ざして照明を点けた、ガレージのような空間。もしかしたらこの空間には時間が無くなっているのではないかと錯覚するような、そんな体感がする。気づけば外は何日も経っていた、みたいな、おとぎ話の世界、みたいな。店主は向こうで作業に集中している。向かいから千尋が、じーっと見てくる。

「もっと楽にしてもらっていい」

 佐賀がそう言うと、千尋は「笑ってみたいなことですか?」と笑わないで聞いてくる。

「いや、まあ、緊張しないで適当に」

 真面目だな、と佐賀は思う。じーっと見てくる目は、多分知らない人からすれば、睨まれているように感じるだろう。それほどしっかりとした、強い目をしている。佐賀は、手を動かし始める。スケッチ台や紙や鉛筆は、全て店主に貸してもらっている。

 紙。千尋。紙。千尋。交互に、彼女の輪郭を紙に写し取っていく。千尋はずっと、佐賀の目をじっと見ている。

 俺の目を見ていてくれって、言ったっけ。

 あまりに真面目にじーっと見てくるので、佐賀はふと、そう思い返してみる。数分前のこと、いや、そんなことは言ってない。

 ——いいんだ、とりあえず座って、適当に話すだけで。

 モデルは何をすればいいかという千尋の質問に、そう答えたはずだ。しかし千尋は、自分がモデルをする、ということになぜか、ただならぬ使命みたいなものを感じているようで、真面目に、じーっと、モデルというものを、自分にできる最善の力でまっとうしようとしている。

 佐賀の中で、爽やかな風が流れていく気がする。

 ああ、だからこの女性は美しいのだな。佐賀はそう思った。

「誕生日はいつなんだい」

 佐賀は聞いてみる。

「ホワイトデーです。三月の」

「十四。なんだ、ついこの前じゃないか」

 佐賀は手を動かしたまま、会話をする。

「はい、実は。ぎりぎり二十八です。」

「へえおめでとう」

 佐賀の意識は千尋を観察すること、会話をすることにほとんどが向けられていて、手元では自分の手がサラサラと勝手に線を描いていくみたいな、佐賀はそんなフローな状態だった。

 佐賀は、幸福な朝食を思い出す。まるで鼻歌でも歌い出しそうなあのときの様子。そして、そのあと散歩中にヘロを見かけたとき、流した涙。聞けないことだらけの中で、何を聞いてもいいのか、佐賀はフローの中で思考する。

「佐賀さんは?」

「ああ、俺は八月の五日。特に何の日でもなく」

「そんなことないですよ。その日は佐賀さんが誕生した日じゃないですか」

「お、嬉しいこと言ってくれる。八月五日はじゃあ、佐賀の日だ」

「あ、でもそれだと佐賀県のことって聞こえてしまいますね。九州の県名」

「じゃあ佐賀謙の日だ」

「うーん、ちょっとややこしいですね」

「いいんだ。佐賀謙が、佐賀県よりも有名になれば。ジョンと聞いてレノンになるか、万次郎になるか、答えはどちらが有名かによるわけだ」

「ああ、なるほどですね」

「たぶん分かってないね」

「レノンはあれですね。ビートルズ」

「万次郎は負けている」

「でも日本史選択には万次郎の方が勝っているんですよね」

「なに、万次郎が勝つのかい」

「レノンの負けです」

「俺は物理選択だったからレノンの勝ちだ」

「大学には結局、行かれたんですか?」

「美大に行ったんだけどね。留年して退学した」

「そうですか」

 二メートルほどの距離を、会話が行き来する。その過程で見える宮間千尋という人物を線に写していく。

「この話したかな?」

 千尋が「結局」という言葉を使ったのに対して、佐賀はちょっとだけ違和感を覚える。

「噂ですよ」

 噂。噂と言えば、ネットを見れば佐賀謙という浮世絵師には、批判的な噂が立っている。美大を留年して退学したことも出ているし、もしかしてそれを見たとか、そういうことだろうか。

「噂は、真実じゃないことが多い」

「はい。本当にそうです」

「俺は生意気で青臭い若手芸術家だとよく噂されるんだけどね」

「ええ、そうですね」

「まあこれは噂じゃなくて真実だ」

「反応に困ります」

「そう言えばいつも残業、ああ、前業のあれは、何をやっているんだい。休みの日まで出てきて」

 手を動かしながら聞いてみると、「んーそうですね」と千尋は何も嫌そうな顔をせず、「皆さん忙しいので、私がやろうって決めて」と言った。

「ああ、それはご苦労様だね」

 佐賀が言うと千尋は、「いえいえ」と返す。佐賀が聞きたかったのは新聞を今日のものに入れ替えたり掃除したり本をきれいに並べたりの部分ではなく、パソコンではあのとき、何をしていたのかということだった。

「ヘロについて、どう思う」

 佐賀は少し、気を付けて言った。話の流れの中でいま、徐々に距離を詰めて行っている。

「ヘロさん、ですか」

 千尋は少し考える。その間も、佐賀は千尋のデッサンを手元でしている。

「そうですね」

 千尋の目が、佐賀を外れる。そこから徐々に、自分の意識へと焦点を戻してきて、「英雄、だと思います。何が、というわけではないですけど、ヘロさんがいることによってやっぱり、救われている人はいると思います」と内側を言語化するみたいに言った。

「救われる、というのは悪から守ってくれる、ということかい」

「いえ、英雄って、そういう意味ではありません」

「ん、ちょっとよく分からないな」

 なんとなく分かる、佐賀はそう思った。ヒーローみたいに自分が現れたあの高校時代の祭りの日、佐賀は、暴力でそこにいた人たちを救った。それは確かに英雄的だったが、佐賀はそのことについて、あのとき、何となく腑に落ちなかった。それが、いまこの街で、人々から英雄と呼ばれている人物、ヘロ。彼は別に、暴力によって人を救っているわけではない。その存在によって人を救っている。

「英雄はみんなの味方なんですよ。例えば落ち込んでいる中学生の子も、英雄が近くにいて、英雄が自分の味方でいてくれる。心強いじゃないですか、そう思えたら」

「そういえば気になっていたんだが、なぜヘロは英雄と呼ばれているんだい」

「それは、ちょっと分からないです」

 チラ、と佐賀は、店主の方を見た。千尋もそれで、店主の方を見る。店主はこの店の経営者として帳簿の作業に集中していて、そのことに気付かない。二人は視線をお互いに戻して、肩をすくめる。

「まあ、存在としての意味だけで十分だな。何をしたかによらず」

「そうですね、それだけで本当に」

 本当に、と、千尋はそこで言葉に詰まった。

「私は、ヘロさんにずっと英雄をやっていてほしいと思っていたんです」

 千尋は、少し間を開けてそんなことを言う。

「どういうことだい?」

 佐賀はその身体の内側が、震えているように見えた。千尋の目の奥の泉の水面が、細かく震えている。

「私がこの街に来た時にはもうヘロさんが英雄でした」

 佐賀はそれを聞いて、あの日、喫茶店で初めてヘロを見たときのことを思い出す。紅一色のスーツに、白い髪の毛。あの登場は、鮮烈だった。

「ああ、それは俺もそうだが」

 佐賀はそう答えた。あの日は、変な日だった。朝、図書館で目覚めたときから。

それにしても、ずっと英雄をやっていてほしい、とは。それはつまり、ヘロが英雄を辞める、もしくは辞める可能性がある、ということだろうか。

「そういえば、ヘロを最近、見ないね」

 この街、といってもそれほど大きくないから、あのように目立つ格好の人間がいれば、すれ違えば必ず気づくはずだ。

「そうです。あまり見かけなくなりました」

 千尋は、内側で震えるものがありながらも、ちゃんと骨盤から屹立して、芯を持って声を出す。

「こんなこと言うのって私、恥ずかしいんですけれど」

 千尋がそう前置きを言うのに対して、佐賀が「うん?」と眉を広げて広々とした心でいてくれるので、千尋は「私の人生には、度々、英雄が現れるんですよ。高校の時の話です」と話しをすることができる。

「花火大会に行っていたんですよ、その日、他のクラスの友達に誘われて」

 佐賀は、何となく話の予感がついた。同時に何かこう、これまでの不明瞭な点と点が次々に線で結ばれていくような、そんな感慨がした。

「そこで私、まあ、変な人と出くわして」

佐賀は、あの時を思い出す。帽子の男。五十嵐。仲間、一番後ろに守られている可憐な女子。

少し悪戯っぽく笑って千尋は、「佐賀さん、覚えていません?」と言った。

「ああ」

 佐賀は、やはり間違いなくその話をしているなと気づく。

「佐賀さんが裸足で跳んで、その人の頭をこう、横足で蹴ったんですよ」

 はて、俺は夢を見ているのか。
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