第21話 数分の差

文字数 742文字

「ヘロさんですか」
 千尋がそう言って少し落とした表情をこの浮世絵師はこぼさない。「ヘロがどうかしたのかい」

 佐賀は早くも、ヘロという人物がこの街では日常的な存在である、そう思っているような名前の呼び方をいま自分はしたな、と俯瞰して思う。この街の住人に、一歩近づいた気がする。

「来ないですよ。今日は」

 フォークをサラダに突き刺しながら、千尋はそう言った。
「ああ、なるほど」
 佐賀は、店の壁の中央に置いてある、例の大きな古時計を振り返って見る。現在の時刻は、八時二分だ。このまえ千尋は八時五分に、「本当ならもう来ている時間」と後にヘロと分かる人物のことを言っていた。佐賀は思い出す。

「英雄はピッタリと時間を守るんだったね」
 来る日はいつも決まった時間通り、ピッタリに来る。そんな人間が二分も遅れているということはもう今日は来ない、のか。

「それはそうなのですが」

 サラダを咀嚼し、千尋はそう返した。

 それはそう。

 部分的に肯定するセリフに佐賀はひっかかりを覚える。なんだか、引っ掛かりが多い気がする。それはこの街を見ていて、全体的に。
「基本的にヘロさんは同じ時間に、その場所に現れます」
「基本的に」

 佐賀はその「部分的な肯定」の意味対象を口にする。揚げ足を取るのは、佐賀の得意分野だ。

「はい、基本的に。なのでいつもの時間に来ないときは、もうその日は来ないということです」
「じゃあ時間通りに現れなかった日は、永遠に待っていてももう来ない、と」
「はい」
 基本的に。

「でもこのまえヘロは、少し遅れて来たみたいだけど、五分」
 佐賀がヘロを初めて見たあの日、千尋によれば「本当ならもう来ている時間」に、ヘロは来ていなかったことになる。

「あれは」

 千尋は二秒ほど考えて、「私にも分かりません」と返した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み