第51話 仕事だこれは

文字数 2,140文字

「どうだ、進捗は」

 佐賀という男は逃げも隠れもせず、ちゃんとここにやってくる。

「大きく進みました」

 いつだって自然、無駄に着飾る必要のない、伸び伸びとした才能とセンス。やはり彦山の言う未来は当たる。二十年前に言っていた通り、「佐賀け」はこの男のことなのだろう。

「そうか」

 雲仙はただ頷く。自分を先輩として慕ってくれた後輩、彦山を、その弟子である佐賀を通して見る。

 彦山知ってるか。お前の弟子は凄い絵師だということを。

 佐賀謙という浮世絵師の名前が世に出てきたあの、シンガポールの富豪から無名の新人にしては破格の値段で買値が付いた出来事。彦山の訃報を受けたのはそれより前のことで、つまり彦山は、弟子の活躍を見ずして逝ってしまった。雲仙はその注目の世絵師の経歴に空手があることを知ったとき、出身を見てまさかとは思っていた。そのまさかだった。

 佐賀、こいつは凄い。

 何が凄いか。それは仕事の完成度はさることながら、その仕事に対する克己さ、いかにしてより良いモノを作るか、その貪欲さだ。そしてそれらは荒々しい野心としてではなく優しい精神性として、この男の性格に出ている。

「ただ——」

 佐賀のあずかり知らぬところで進んでいるストーリーを雲仙が考えていると、一言、佐賀は前置きをして言った。

「いま描いているものをこのまま描き続けるかどうか、迷いができました」

「迷い?」

 雲仙はそう復唱する。

「はい、僕が描こうとしているのはある人と、その人とまたある人との関係、みたいなもので」

 回りくどい説明に対して、黙って頷くだけの雲仙。歳も六十を超えると心にシワができる、意地が悪くなる。それは自分でも気を付けるべきところで、「ああ、それで」と続きを促す。

「いえ」

佐賀は冷静に平生として改まると、こう続けた。

「これを描いていいのか、と思いまして」

 佐賀は、自分が絵師という依頼を受けて絵を描く仕事をしており、依頼を受けたからには最高の仕事をする、それが一流の浮世絵師だということを認識したうえで、しかし今回自分が制作しようとしている絵は、この街の人間の多くを不幸にするのではないか。ヘロ、千尋、冷たい人々、綺麗な街。まだ見えない何かに対して、直感的にそんな懸念がある。

「描いていいのか」

 雲仙は復唱する。それはどういう意味だ、という疑問にも、何を言っているんだ、という呆気にも聞こえる。表情は変わらない。

「人を描くということは、その人の内面まで描くということです。言い方を変えれば、その人の内面を暴露するということです。僕が描こうとしている絵は、この街に住んでいるある人の姿です」

 佐賀が言うのに対し、雲仙の中で疑問が浮上する。

「ヘロを描くと言っていたのは?」

 短く、雲仙は言った。佐賀はその問いに答える。

「その人がヘロを見ている姿です。この街には英雄がいる、それをこの街に住む人々はどう見ているのか、どう捉えているのか。英雄のいる街を描くというのはそういうことだと僕は捉えています」

 佐賀の説明に、雲仙は言葉を返さず納得する。確かにそれはそうだ。英雄のいる街を描くというのは、英雄そのものを描くというわけではなく、その街に住む人を描くということで合っている。

「僕は今回のご依頼でこれ以上の題材のものはないと思っています。なので僕としてはこれをなんとしてでも描きたい、いや、絵師としてこれは描かなければならない、そう思うのですが」

 佐賀はそれ以上、言葉を続けなかった。この雲仙という版元には、佐賀はもう疑いを捨てている。何より、彦山先生がわざわざやって来て挨拶に伺うほどの方なのだ。佐賀は、できるだけ隠すものがないように思っていることを正直に話すと、心に決めて今日ここに来た。

「そうか、それは君の勝手だが」

 雲仙はいつものようにそう言うのだが、しかし、片瞼をクイと上げて、もう片方の目で弓矢でも引くように佐賀を睨む。

「仕事だこれは」

 雲仙はそう強く言った。超然とした表情から初めて出てきた温度感に、それはとても強く佐賀の心に刺さった。

 狭い診察室、いろいろと置かれている高そうな小物。目の前には、故彦山総司の先輩。

「それを忘れてくれるな」

 雲仙は超然とした顔に戻って佐賀に言う。武道を通ってきたもの特有の覇気の出し方、言うなれば佐賀の師匠、彦山の覇気の出し方とそれは似ている。

「いえ、すみません」

 佐賀は委縮しそうになるが、しかし、すぐに達観した息遣いになって冷静にそう答える。

「ただ、版元である雲仙さんの要望を、もう一度確認したかっただけです。やはり最高のものを雲仙さんがご希望とあらば、僕はあくまでも依頼を受けた絵師として、最後までそれを遂行するつもりです」

 佐賀は本当は、雲仙には「そうか。それはよくない。仕方ないが他の題材でまた描き始めてくれ」とでも言ってくれることを期待していた。雲仙はそこまで信頼して、自分には期待してくれているものだと思っていた。というか、「これを完成させれば多くの人が不幸になるかもしれません」と話を受ければ、そのように答えるのが社会生活を送る人間として普通の反応だと佐賀は考えていたのだが……。

「それでいい」

「はい、すみません」

 佐賀の心には、何かが突き刺さったままだ。
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