第29話 芸術家の悩み

文字数 4,306文字

 カミュは絶対に佐賀を安く売らなかった。木版画は一点モノの絵画と比べて値段が落ちるが、それでも佐賀謙という若い才能を世間に知らしめるためには、生産物であってもそれなりの値段を譲らなかった。カミュのツテで、国内外の多くの画廊に佐賀謙の「KING of 髑髏」は飾られた。

 世界では、佐賀はすぐに評判を得た。

「ニッポンの若いアーティスト」
「新時代のジャパニーズカルチャーの担い手」
「ホクサイに挑む男」

 と言ってもまだ作品一つを作っただけの若き芸術家に、世界はそんなに甘くなく、あくまでも佐賀謙を、日本からの挑戦者として受け付けた。ただそれは、これから名を広めるための順調なステップにはなったと、カミュは冷静に佐賀に伝えた。

 問題は、日本国内だった。

「KING of 髑髏」は、日本では大した評価を得なかった。いまとなっては続く活躍によって海外で育った種が逆輸入的に佐賀の芸術家としての地位を少しは認めさせているものの、それまでのラグの期間、佐賀謙という浮世絵師は少しも認められなかった。

 まず理由の一つに、「KING of 髑髏」は新人の無名が作った、しかも生産物にしては値段が高かったという問題がある。全国の画廊に飾られたのもカミュのツテということで仕方なく、というのがほとんどで、売れないものは置く価値も無く、隅っこに追いやられるか、次第に額縁から外されていった。現代の浮世絵という新たなジャンルとしての価値も薄く、新しいものというのは決まってそうだが、そう簡単には大衆に受け入れられない。もっとも、隅っこに追いやられたその浮世絵は、いまとなっては手に入れようにもそう簡単には手に入らない代物になるのだが。

 他の理由として、佐賀の若さというものがある。色んな意味の「若さ」だ。界隈からすれば、佐賀は生意気な若者だった。国内よりも海外の雑誌にインタビューされていた若き佐賀。佐賀はそういうとき決まって、

 ただ最高のものを作っているだけ。そのための最適解を辿っているだけ。

 淡々とそう答えるのだ。

 それに対して国内からそれを見ている古参や芸術家たちは、「生意気なガキが何か新しいことをやっているみたいだが世間はそんなに甘くない」と、簡単に言えば佐賀を笑った。名の知れている現在でも、佐賀謙という浮世絵師に対してそんな見方をしている人間は多く、当代きっての浮世絵師という異名や、巷で凄いと噂されているというのには、佐賀の人間性に対して少しばかりの蔑みの念が込められている。美術展や個展、オークション会場などの、美術に精通する人の集う場所に行くと決まってヒソヒソ立てられる噂話には、妄想がでっち上げた佐賀の悪名が称えられているものだ。

 当時カミュは「申し訳ない」と佐賀に謝った。そういう噂を聞きつけてきたのだろう。次の仕事に励んでいた佐賀の構える東京のアトリエに、フランスから飛んでやって来たのだ。

「もっと『見せ方』はよくできたはずでした。私が日本の芸術界をもっと理解していたら、こんな風にはならなかった」

 それに対して少し大人になった佐賀は、何度も「カミュに責任は何一つありません」ということを伝えた。佐賀を人間的に大きく成長させたのも、佐賀謙が偉大な浮世絵師になる道程でカミュが成した功績の一つだった。

 しかし佐賀がそう言うにも関わらずカミュは、「すみません」「申し訳ない」「もっとこうしていれば」「ああしていれば」ということを苦虫を噛み潰したような表情で繰り返した。長らく日本にいることで日本的な精神が染み付いた典型的な腰の低さ。日本在住外国人の鑑のような人物で、佐賀はそんなカミュのことを尊敬していたが、佐賀はそんなカミュに対して、「うるさいからまず静かにしてください」

 少し大人になったとはいえまだ棘があるのは仕方なかった。夕方で、寝起きだったのもある。カミュはそれで静かになった。黒の半袖に黒の長ズボン。若くも、若いなりに芸術家のたたずまい、気迫がそこにはあって、カミュはそれを見た気がした。

「まだまだ先のことです。なにも、これで佐賀謙という浮世絵師が終わるなんて、そんな甘い考えをしているようでは芸術で食っていくなんて無謀です。浮き沈みはある。いまは沈んでいる。でも最初がそれなら、後は上がっていくだけです。現に佐賀謙に仕事を依頼してきた版元は四件あります。いまは順番待ちで、一つ一つ仕事をしていっている状況です。それもこれもすべては、あなたという情熱家がいなければ成立しえない話。きっとあなたは、シャルロット・カミュという学者は、偉大な芸術家を育てた師匠として歴史に名を残す、いや、僕が残してみせる」

 佐賀は一ミリの衒いも恥ずかしげもなく、カミュにそう伝えた。カミュは鼻を赤くしてそのとき、ポロポロと涙をこぼした。現代の浮世絵師、佐賀にとって二番目の作品、「免許皆伝」の初刷りは、シンガポールの富豪からの依頼で五万ドルの買値が付いた。新進気鋭の若手芸術家として佐賀謙の名は、日本の芸術界に知れ渡った。

「やはりカミュから教わったのは、『見せ方』です。いくら良いものを描いたって、それが売れるとは限らない。そこで『見せ方』が大事になってくるということで。悪いものを良く見せるのは詐欺、良いものを悪く見せるのはたわけ。真に実力ある者は、良いものをそのまま良く見せる。まず君は技量とプライドを平衡させ、隠し味程度に謙虚さを持っているべきだと」
「佐賀謙。謙虚の『謙』だ。もうすっかり、あなたには芸術家としての威厳が出とる」
「そうですか」

 急須をもって、奥さんがやって来る。
「ああ、すみません」
 奥さんは微笑んで、急須を傾ける。湯気の出る口から、新緑色の熱い水が佐賀の湯飲みに注がれる。

「カミュと言えば向こうじゃいま、結構知られとると聞いたが」
 なあ、と溝口が奥さんに訊くと、奥さんは「ですねえ」ときっと知らないのだろうが、話を合わせた。佐賀はその情報についてはよく知らないが、去年、フランスにいる本人から来た手紙には、彼はいまフランス・パリ郊外でアトリエ教室のオーナーをやっていて、そこや、たまに出演するテレビで「もうすぐ日本から凄いアーティストが出て来ます!」と熱く語っては、人々からクスクス笑われているらしかった。
「ああ、そうみたいですね」
確かにその点では、カミュは結構知られていると言える。頑張らないとな。そう、佐賀は気合いを入れ直した。



 外に出ると、雨は止んでいた。持って来ていた傘を手に持って、田園風景を駅へ歩いて行く。溝口は駅まで車で送ってくれるみたいだったが、それほど遠くなく、また、佐賀はその道程で何かが得られるかもしれないと思い、断って歩くことにした。

「あなたほど真面目な人間はおらん」

 曇り空の下、視界の両側に広がる田圃の稲穂が、風に吹かれて柳のように揺れる。もうすぐ収穫の季節か、そう思いつつ、さきほど溝口と話していた中で、溝口が佐賀に言ったことを思い出す。

「いや、僕ほど不真面目な絵師はいません」

 佐賀はそう返した。何の話をしていたのかというと、下絵の制作がなかなか進まないということだ。
「割り切れないんです」
 佐賀は溝口にそう言った。
「いくら浮世を描く絵師だからといって、関係のない誰かの内面性に踏み込んでいってもいいのか。人にはそれぞれ、他人には言えないことの一つや二つ、あると思うんです。そして今回は、そこに触れてしまうことが多い気がして」

 溝口は俯き気味に口を結んで、静かに頷く。

「今回の仕事の依頼内容、そのために積まれた報酬の大きさ、それによる仕事としての高い遂行義務。しかしそれが、他人のそういう部分を暴露しに行ってもいいほどの大義名分になるのか、甚だ疑問なんです。俺は何者なんだ、っていう」
「あなたは真面目なんだ。そして、誰よりも優しい」
 溝口はゆっくりと口を開いた。佐賀は溝口を見る。

「例えば浮気調査の探偵がターゲットの親身になってたら。依頼がいつまで経っても達成されん、そうだろう。探偵はそこを割り切って『これは仕事だ』といって探偵業務に勤しむべきだ。あなたは能力的にそれが出来る、しかし人間としてとても優しいから踏み込んでいけない、そうだろう」
「だから僕は絵師として不真面目なんです。一流になれない。仕事になってない」
「や、あなたの仕事は一流だよ。確かにこれまでの仕事は、人を対象として描いたことはなかったから。ただ、今回のはこれまでのとは異なると、自分でも分かっておいた方がいい。あなたがこれほど悩んでいるのは、ワシは見たことが無いから」

 佐賀は既に、いまの段階でどのような絵を構想しているのか、溝口に言ってある。「あ」と遠くを見て口を開けている女性の様子。その先にはあの街で英雄と呼ばれる人物がいる。

「風景画、抽象画、動物画を得意としてきたあなたが、今回は人物画を描こうとしとる。そしてあなたはその絵の中の女性に、——恋をしとる」

 傍で静かにテレビを見ていた溝口の奥さんが、パッ、と禿げ頭の溝口を見た。佐賀はドキ、と胸が弾むのが分かった。

「それとその女性、その先にいる英雄と呼ばれる誰か、あなたはこの二人をきっと、守ろうとしとる」
 千尋。ヘロ。佐賀の頭に二人の顔が浮かぶ。
「一つ、ワシがあなたに言えるのは」

 溝口は奥さんを見て、そして佐賀を見て続けた。

「人それぞれだ。時期にもよる、人生の。版元に依頼された絵師として自分にできる最高の仕事をする、ただひたむきに。それが良いと思うか、もしくは。もうこれは無理だ、自分にはできないとして、いま構想しているイメージとは離れてまた新たな絵の題材を探すか。それはな」
 溝口は眼鏡の奥から佐賀の目をしっかりと見て、「あなた次第」と言った。それは悩める若き天才に対して、せめて彼より少しでも長く人生を歩んできた者として掛けてやれる、溝口の精一杯の助言だった。

 遠くに駅が見えてきた。

「これ以上の浮世絵の題材は、たぶん見つからないです」
 佐賀は言った。胸がむず痒かった。溝口は微笑んで奥さんを見た。奥さんには話がよく分からなかっただろうが、柔らかく微笑み返した。溝口は言った。

「難しいな。難しいよ、きっといま歴史に残っている偉大な芸術家たちも、百年前二百年前、いやもっと昔、歴史に残っていないような頃から、いま佐賀さんと同じように、大いに悩んできたのだろうね」

 駅舎に着く。改札を抜ける。一時間ほどして電車がやって来る。

 結局、溝口の家から自分のアパートの部屋に帰ってくるまでに、自分がどうすべきなのか、その答えは見つからなかった。
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