第38話 自分次第

文字数 4,608文字

「でもそれで破門って」

 真希は佐賀が破門されるまでの経緯を聞いて、少し、納得がいかない感想を口にする。真希の見立てでは、もし佐賀がそこに颯爽と現れてナイフを持った男に跳び蹴りをしなければ、重傷者が出てもおかしくない状況のはずだった。佐賀がリスクを背負って現れたからこそ、その場は丸く収まったはずなのだ。だからそれは十分に酌量の余地があるのではないか。彦山の道場に受け継がれる「鉄の掟」とは、そこまでして守られなければならないものなのか。

 佐賀は真希の言葉に「ありがとうございます」と続ける。

「椎名さんも福田さんも錬太郎も同じように、僕のことは弁明してくれました。ただ掟は掟で、別の話です。もちろん先生にも、僕を破門にすることについて少しは思うところはあったのだと思います。稽古生を一人、失うことになるんですから。しかし状況がどうであろうと、『鉄の掟』を破った事実に変わりはなく、それを今回は特別だとして見ないふりして流す師匠のようでは、そのときはよくてもいずれ僕の方から離れることになっていたと思います。問答無用で破門にされたので、やっぱり彦山先生は凄い方だなと思うだけです」

 佐賀に後悔はなかった。本当だ。あそこで一人、自分だけが何か処罰を受けて他全員が無事でいられるのなら、破門にされることなどどうでもいい、それがいまの自分にできる最善の策だと、心の底から思えた。だからあのとき、掟を破ることによる空手への弔いの念を捧げて、次へ進もうとする佐賀の心は不思議なほどに落ち着いて、晴れ渡っていた。

「それに、だからこそ次は芸術の道に行こうと、美大への進学を決めたんですから。それまでちゃんと勉強していた甲斐あって、腕も良かったので対策次第でいいところにも行けましたし。大学には行かないと決めていたほど空手にのめり込んでいた僕なので、問答無用で破門にでもされなければその道には絶対に行っていないと思います。もちろん、現代の浮世絵師は生まれていません。そのときそのときの自分次第です」

「優しいんですね。佐賀さん」

 真希は言った。少し納得はいったようだが、まだ完全には飲み込めない、そんなニュアンスがその言葉には聞こえた。

「ありがとうございます」

 佐賀がそう言うと、真希は、しょうがない、なんて表情で、「空手家になっていた佐賀謙も見たかったです」と言った。

「ははっ。どうなっていたんでしょう」

 佐賀は、真希が納得できない理由が分かったような気がした。だが佐賀自身、空手を離れたことに対する未練は本当にない。

 その後、佐賀は真希から当時どのような稽古をしていたのか、質問攻めにあった。

「さすがは彦山先生の一番弟子ですね」

 佐賀は何も、特別なことをした記憶はない。ただ、道場での稽古以上に、日常生活をどう過ごしているか、そこが重要だといつも彦山に言われたことを実践していただけで、そういうことを真希に伝えた。

「普通は、そこが一番難しいんですよ。変に才能のある子は技術だけが先に行ってしまって、それを支える日常生活という基盤が無ければ、今は良くても伸びしろがか細いんですよね。小学生や中学生の大会で簡単に優勝してしまうような子の日常生活は、得てしてだらしのないものです。なので高校まではなかなか続きません」

 指導者としての真希の考えに、佐賀は黙って聞いている。

「才能が無くても日常を修行色に染めて、地道に努力するように生活しているような子が、幼いころは才能ある子に負けたとしても、後々、頭角を現してくると思うのですが」

「そのような子は真希さんのところにいますか?」

 佐賀は聞いた。空気が少し、静かになる。

「いえ」

 真希はそして、「私次第です」と真剣な顔で言った。

「真希さん次第、ですか」

 佐賀は言いながら、四歳でたまたま近所の道場で出会った自分の師匠が彦山総司という男でなければ、自分はああも修行色に日常を染めて日々を送っていたのだろうか、と考える。それは結果論でしかないから本当のところは分からないが、もし彦山でなければそうなっていない可能性があるというのは空論上の事実だ。

「空手を習いたい子に空手を教えて月謝を受け取る。形はビジネスとして需要と供給に答えているだけです。でも私は武道の指導者として、青少年を健全な道に育てる、社会に貢献できるような人間に育てる、ただのビジネスじゃなくて、その心に重きを置いてやっています」

 真希は、しかしあまり自信はなさそうだった。立派に見えて、実は中身がスカスカな大木のように。

「迷っちゃいけないです。失敗したとしても」

 佐賀が言うと、真希は「え?」と返した。

「いえ、ただ浮世を眺めている絵師の戯言ですが」

 佐賀は続ける。林檎もポテトサラダも、最初に手を付けてから半分ほど減っている。

「いまの時代にそういう空手を教えるのは、難しいことなんだと思います。技術じゃなくて心とか、人生とか。そういうことを教えられても、将来、実になるとは多くの人は思いません。それよりも空手の技術を教えてもらって大会で勝たせてくれれば進学の履歴書に書ける。推薦で進学ができる。世の中を直接動かす力はうま実なんですよ。真希さんの言う心じゃ、残念ながら微動だにしません」

 佐賀の発言に、真希はみるみる自信を無くしていくようだった。

「でも、じゃあ佐賀さんは彦山先生から何を教わったんですか。道場での稽古よりも日常での生活の方が重要だと、武術家としての心を先生から教わったんじゃないですか」

 真希は言っておきながら、自分の言葉に説得力の自信が無かった。言っている内に、みるみると佐賀のセリフが図星すぎることに気付くからだ。稽古生の親御さんたちからはよく、「生活のことに口を挟まないで」とか、「ウチはウチの教育方針がありますので」とか、「そんなことよりも、ウチの子を大会で勝たせてやってくださいな」とか、真希の心を重要視する指導のやり方は、ことごとく反対されていた。

「実績が違うと思いませんか。彦山先生は異例の速さで日本一になった伝説の男ですよ。いくら反抗的な親御さんでも、その方の指導に口を挟むのは余程です」

 真希はその言葉に、「そうですね……」と納得せざるを得なかった。真希は学生時代は全国でも指折りの選手だったが、日本一になったことはない。そしていまは、父親が開いていた空手道場を、娘として継いでいるだけなのだ。

「ただ、うま実が中心に回っているこの世の中で、それ以上に心を重要視している真希さんの姿勢は、時代に逆行しているというよりも、僕は得てして斬新な発想だと思います。いまはただ、そのバランスが難しいだけで」

 真希は顔を上げ、佐賀を見る。しかし佐賀は真希を褒めるつもりも衒うつもりもなく、ただただ、思考をなぞるように話を続けるだけだ。

「心とうま実、この両立が社会を動かす、きっとそういうことなんです。資本主義社会では必然のことです。迷っちゃいけません、失敗したとしても。いまはうま実が先行して、心がそれほど重要視されていないと僕は感じます。なぜならそれよりも直接社会の役に立つ技術だとかスキルの方が重要だからです。でもいずれ、その技術やスキルには、世の中をよくしたい、貢献したいと思う立派な心が無ければそもそもの意味がないのだと、世論が気づき始める時代が来ると思います。その時ようやく、真希さんの指導は間違っていなかったと分かります」

 佐賀は真希の目を見て、「そしてその意味で、真希さん次第だと僕は思います。その時代を作るのは、真希さん次第です」と言った。

 真希は目の前の年下の浮世絵師が、なぜ巷では凄いと噂されているのか、なぜそのうち日本を代表するアーティストになると囁かれているのか、このとき、なんとなく分かった気がした。

「私次第」

「はい。なので、真希さんが迷うということは、その時代の到来も遅れるということです。僕は武術の道を辿って来た者として個人的に、世の中がそうなればいいなと期待していますが」

 佐賀は、少し苦笑いをして「あいにく今は技術や腕やスキルを重要視する世の中なので、いかに技術を良く見せる『見せ方』を工夫するか、売り込みを工夫するかでようやく、芸術家も食べていけるんです」と言う。

 真希は先ほどの自信なさそうな声とは打って変わって、

「やりますよ。何の実績もありませんけど」

 真希は気合いを入れるようにシャリ、と林檎を食べた。

「応援しています」

 佐賀は言った。

「そういえば、絵の相談に乗るということですけど」

 真希は思い出したかのようにそう言う。

「ああ、そうでした。芸術家の卵が本物の芸術家に」

 佐賀は、先ほど真希に「迷ってはいけない」と説教を垂れておきながら、「じつはかなり迷っていて。全く進んでいません」

 真希は「はい?」と眉を広げて聞き返す。

「初めてですよ。これほど筆が進まないというのは」

 まるで自分のことではないかのように自分のことを言う佐賀に、真希は「これまではスラスラ描けていたのに?」と質問する。

「はい、一度も止まったことが無いのに」

 真希は「スランプですか」とそこでシンプルな概念を持ち出してきたので、一瞬、佐賀はそれにはっとして、「そうですね……」と考えた。これはスランプ、かもしれない。

「スランプから抜け出すには、動くのが一番です。スランプになって、なかなか動けないで、落ち込んで、繰り返していると永遠にスランプから抜け出せません。動くのが一番」

 真希は物事をシンプルに考えるのが得意なようだ。単純と言えばそれまでだが、明るくて、佐賀にはない発想を持っているように思える。

「動く、確かに、そうですね」

 佐賀は、手元で描いていた「KING of 髑髏」のガシャドクロを見た。たった何日か絵を描いていないだけで、線にはブレが出て来る。絵が下手になっている。

「期待してくれる雲仙さんに応えようと、ちょっと緊張していたのかもしれません。もう少し、動いてみます」

 佐賀は残ったポテトサラダを食べて、「そろそろ帰ります」と言った。

 真希は時計を見て、「まだ八時ですよ?」と、佐賀が帰るのに対して、つい口を出て言葉が行く。

「さっそく、動かないと。僕は日常を浮世絵色に染める芸術家ですから」

 真希は、自分が女として佐賀の眼中に入らなかったのだろうかと少し残念に思う。

「頑張ってください」

 何ごとも合理的に物事を進めることのできる人間がこれほど迷ったり、悩んだりしているというのはどういうことだろうか。そのスランプの所在は何か。真希は、きっとそれは自分にとって悔しいことなのだろうな、と思う。

「あ、よかったらこのガシャドクロさん、もらっていいですか?」

 真希はカラっと明るくそう言って、テーブルにあるメモ用紙のイラストを示した。佐賀が話している間に完成した、簡易的なものだ。

「ええ、いいですよ。でもちょっと下手になってる絵ですので、良ければ本物のを摺ってもらって、今度持ってきますけど」

「いや、いいですいいです。私、絵のこととか本当によく分からないので」

 真希は、佐賀の絵はなんだか、温かいな、とそれを見ていて思った。

「芸術家の卵のはずでは」

「まずは本物の武術家にならないと」

「それは、ごもっともです。応援しています」

 佐賀は「ちょっといいですか」と言って、そのメモ用紙に、自分のサインをした。
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