第35話 五輪書

文字数 2,399文字

 佐賀は祭りのあるその日、自分の部屋にある時計をチラ、と見た。
 六時半。
 スケッチブックを閉じ、道着に着替える。道場での稽古は七時半に始まるのだが、誰よりも気合の入っている佐賀はいつも一番乗りすると決めているので、この時間にはもう準備して、家を出るようにしている。
 帯をギュ、と締め、くる、くる、と二回、腕まくりをする。一日の中で最も、気合を入れる瞬間である。
 道場は近く、歩いて五分ほどだ。
「今日は昨日の自分に勝つ」
 歩いている道中、佐賀はかの剣豪、宮本武蔵の残した言葉について考えた。
「今日は昨日の自分に勝ち、明日は自分より下手なものに勝ち、次には、自分よりも上手なものに勝つ」
 水の巻に書かれているその文章を見たとき、軽く衝撃を受けた。
 佐賀は週一回の指導を任されており、半端なことは教えられないとして、武術に関する本を愛読している。中でも佐賀のお気に入りは、宮本武蔵の剣の極意、兵法が、宮本武蔵の手によって記された五輪書で、そんな五輪書には平然と、こんな言葉が出て来る。
「千里の道も一歩から」
 六十戦六十勝した宮本武蔵でも、そういった地味な教訓を念頭において修行に励んだのかと思うと、自分もまだまだだな、と佐賀は思う。天才と呼ばれる人は得てして地味な努力をしているもので、その努力が自分は足りていないのだと痛感させられる。
「お願いします!」
 やがて道場に着き、佐賀は大きな声でそう挨拶した。
「ああケン」
 彦山は、ちょうど誰かと通話していた電話を切って、切った画面を少し眺めている様子だった。
「急ですまないが、今日は休みや」
 携帯画面を閉じ、このたった数秒の間に決断したことがあったのだろう、彦山はそう言った。いつも余裕感のある彦山だが、そのときは得体の知れない焦燥、とにかく、佐賀が自分の師匠に感じたことのないものが、彦山の後光には翳っているように見えた。
「休み、ですか」
 佐賀は十四年ここでやってきた。道場に来て「今日は休み」という日はこれまで一度も無い。少し動揺した。
 佐賀は分からなかったが、しかし自分の師匠がそう言ってくるからには、何か重大なことがあるのだろうとことをすぐに理解し、「分かりました」と一言、そう言った。
「すまんが錬太郎が来るまでは、みんなに伝えてくれ。今日は急用で休み。祭りでも行ってこいと。戸締りは錬太郎に任せておけ」
 彦山はそう言って道着を着たまま荷物を背負い、靴を履いた。佐賀はじっと立ったまま、師匠が焦り気味に急いでいる、という見たことのない光景を見ている。
 靴を履き終わり、彦山は、「ケン、お前も祭り、行ってきたらどうや。遊びも修行の一つ、鍛えてばかりもつまらんぞ」と言って、出て行った。
 一人残された佐賀は、早速このあとジムに行くことを考えていたのでそれを見透かされたと思った。とりあえず錬太郎が来るまで、何も知らずにいつも通り稽古しに来た道場生たちに、「今日は休み。祭りでも行ってこい」と先生の伝言を伝えた。
「来たか錬太郎」
 錬太郎が何も知らずに、「お願いします!」と言って道場に入って来た。数秒で他に誰もおらず。また先生がいないことを不思議に思い、佐賀に疑問と心配の混ざる目を向ける。
「今日は休み。祭りでも行ってこい。それと、戸締りは錬太郎に任せる、と先生が」
 佐賀は出来るだけ早くジムに行きたいのだが、しかし後輩である錬太郎を一人でここに残しておくわけにもいかないので、「あと来てないのは椎名さんと福田さん。二人が来たら説明して、一緒に戸締りして帰ろう」と言った。椎名と福田というのは大学生で、稽古の位置で言えば、佐賀の左に椎名、その隣に福田で、ちなみにその隣が錬太郎だ。
 錬太郎は、「何があったんだろう」と自分の父親を心配そうに言う。親子なんだな、と佐賀は何気なく、思ってみる。
 椎名と福田が来たのはそれから五分ほど経った頃、時刻は七時十五分だった。
「お願いします!」
「お願いします!」
 二人はそう言って入ってくるが、他に誰もいないことを察して、何か事情を知っているのだろう二人のうち佐賀の方を見ると、
「今日はお休みです。先生が急用で」
 佐賀は今日二十回ほどになる同じ説明をした。しかし、「遊んで来い」という彦山の伝達は、なんとなく二人には伝えなかった。椎名と福田は近くの同じ大学に通い、日ごろから彦山には、「寝すぎ」「阿保面」「遊び人」と揶揄されている。確かに佐賀も、空手をやっている者としてこの二人には抜けているところがあるなと感じている。加えて、実力で追い抜かしていまでは二人に指導する立場でもあるのだが、どこまで行こうが佐賀は年下に変わりないので、決して傲慢ではなく、この二人には気を遣ってしまう。
「休み? こんなこと初めてだな」
 椎名が嬉しそうに言った。椎名は活発な人間で、空手が下手なわけじゃない。現に佐賀をトップとして、その横に並んでいるわけである。
「ああ。でも、どうしたって?」
 福田は椎名に対して、控えめな方だ。福田がそう佐賀に聞くと、佐賀は「いえ、急用とだけ言われたので」と返す。
「どうされたんだろう」
 福田は優しい人間だった。眼鏡をかけ、少し頬に余計な肉がついている。実力で言えば錬太郎よりも、その下よりも劣るのは事実。ただ、彦山は福田を最前列の三番目に席を置くと、そう判断した。その理由も、佐賀には分かる気がする。
「みんなもう来たのか?」
 椎名が聞いた。なにせ、いつも二人は最後にやって来る。
「はい、お二人で最後です。なのでもう戸締りして、僕らも帰ります」
 錬太郎は高校一年生だ。うまく話に入って行けない幼さがあり、佐賀の横でじっと立っている。「な」と佐賀が錬太郎に言うと、錬太郎は「あ、はい」と返し、先生のデスクの引き出しを開けて、カギを取り出した。
「じゃあせっかくだし、このまま祭りでも行くか!」
 椎名は明るく言った。
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