第54話 祈り
文字数 2,958文字
佐賀は今日、溝口に相談をしに来た。
いや、相談といっても少し違う。何か佐賀の中で決意表明みたいなものがあって、それを口上する相手として、身近では最も信頼のできる溝口という男を選んだのだ。
「迷いは、消えました。いや、消した、と言った方がいいのかもしれません。僕はあくまでも絵師で、版元の要望に沿って絵を描くのが仕事であって、そこに私情を挟むのは違う、と」
佐賀のその話を聞いて、丸い禿げ頭の溝口は、うん、うん、と頷き、
「そうだな」
と一言だけ、それに対してコメントをする。溝口としては、この佐賀という若き浮世絵師が何か苦悩し、才能を摩耗させるような悩ましい題材を絵に扱うくらいなら、いっそそんな依頼は断ってしまったほうがいいと強めに言ってあげたいところだったが、
「一流というのは、ある程度の非情さも大事なもんだ」
と、そのときの佐賀にとっての励みになるような言葉を選んで、言った。つまり、そんなことは、佐賀に対する溝口の本心ではなかった。この強くて優しい芸術家が、「仕事のためには非情になって迷いを捨てる」なんてことをすれば、それに対する己の中の無視できない罪と罰の気持ちに直面し、精神を蝕ませることになるかもしれない。しかしいまの彼を鼓舞するのには、それを言うべきではない、と。
「ええ、そうですね」
佐賀は静かに、含みのある表情でそう答えた。溝口はこのとき、気づかなければならなかったのだ。佐賀のその目、表情、言葉から。佐賀は、もし溝口からいま、「いや、あなたが非情になる必要はない」と注意を受ければ、きっとすぐにでも考え直した。迷いはある。常にある。しかしそれが心にまで干渉してくる前に、この若き芸術家は頑張って頑張っていま、消しているのだ。
「進んどるか。あ、デッサンしたと言ってたな」
溝口は話題を変えるようにそう言った。
「はい、大きく進みました」
返すと、佐賀はバッグからケースを取り出し、一枚だけ挟んである紙を溝口に手渡す。
「ほお、美しい方だ」
「表情や雰囲気は、デッサンをしたときそのものです。このデッサンで彼女の輪郭が掴めたので、それをあの日、あのときの表情と雰囲気にするという予定です」
「ああ、英雄、を見とるときのことか。佐賀さんも、そのとき初めて出会ったっていう」
溝口はそのデッサンをまじまじと見ていた。
そうか。この人が、佐賀さんが恋心を抱いている女性か。
そう思うと、確かに佐賀が好きそうな、なんというか、純粋で真面目そうで、奥に秘めた可愛さのある人物だなと感じる。
ただこの目は、どうなのだろう。佐賀の描写力は凄まじく、彼女の表情の機微がそのまま、デッサンとして落とし込められている。この目は、何か強い決意をしたような、しかし、それがちょっと揺らいでいるような、そう、そんな、内面的な揺れを感じさせるものだ。
「商店を貸し切ってしたんだっけな」
溝口は、さっき車の中で佐賀が話していたことを思い出す。
「はい、なぜかそこの店主がとてもよくしてくださって」
佐賀は、ガレージに明かりをつけたようなあの状況を思い出す。デッサンは一時間ほどで終わって、あとは普通通り、鈴木商店は店を開けた。
「応援したくなるんだ。佐賀さんのことは」
溝口はそう、嬉しそうに言った。溝口自身も、佐賀を応援する一人だ。それから一時間ほど経って、「では、そろそろ」
佐賀は時間を見て立ち上がる。もう昼前だ。仕事がある。浮世を観察するという仕事。
「ああ」
と、溝口は言って、「これはいまの佐賀さんに言っておいていいか分からんけどな」と前置きを残して、一旦、居間を出てから何かを持ってきた。
「手紙? ですか」
溝口の手には、ただの封筒にしてはお洒落な紙質の封筒が持たれており、佐賀はそう反応をした。
「カミュからの手紙だ。ワシ宛に、佐賀さんに対して」
佐賀は一瞬、溝口が何を言っているのか分からなかったが、文章を頭の中で整理して、それが自分に対するカミュの配慮であるということを理解する。
佐賀は手紙を受け取る。文面は綺麗な字で、初めは季節の挨拶から始まる形式の、長々しい日本語で書かれていた。
佐賀が目を通し終わると、溝口が、「この前これが届いて電話してな。いまフランスで、カミュはアトリエ教室を開いとる。そこにあなたを講師として招きたいと言っとった。そのままフランスで日本の芸術家として活路を見出せば、日本にいるよりずっといいのではないか、と」
「ああ。そうですか」
佐賀は数秒、斜め下のわけもない一点を眺めていた。手紙も大体、そのようなことを書いている。
佐賀はこのとき、思ってもいなかった誘いに正直、心躍った。それはいまの自分の仕事が難しくて、そこからそのフランスでの未来を見ると、やけに華々しく目の奥に映ったからだ。カミュもきっと、佐賀謙という若い芸術家が日本では受け入れられていない現状を思ってそういう提案をしてくれるのだろう。そう思うとその優しさに涙が出そうになる。
しかしそれをこらえて視線を溝口に合わせると、
「いえ、少なくともそれはまだ先の話です。今回の仕事を終わらせない限りは、僕は前には進めません」
佐賀はきっぱりと、そう言った。この仕事は、まだ弔うことができない。
「そうか。いえ、だったら早く見せればよかった。あなたにとって余計な考えを起こさせるかもしれんと思ってたから」
溝口も溝口なりに、この若き才能の邪魔をしないよう、伸び伸びと育つよう、配慮をする。その配慮に、佐賀は、「すみません、ありがとうございます」と、心から頭を下げた。
溝口はせめて、佐賀に余計な体力を使わせないために駅まで車で送ることを言ったが、佐賀は、「いえ、新たな発見があるかもしれませんので。ありがとうございます」と言って、歩いて駅舎へと向かうことにする。
「それとカミュには、僕の方からそのうち返事を書きますので。そのときはまた、改めて相談に乗って下さい」
「ああ、ああ、ゆっくりでええ」
溝口はその背中を見送りながら、どうかその輝きを失わないで下さい、彼からその輝きを奪わないで下さいと、神様に祈るかのような念を、見えなくなるまでその背中に強く祈っていた。
営業は終わっている。従業員も帰っている。隣の大部屋で、今日は稽古はない。しかし、真希は一人で稽古をしている。静かな院内に、真希の気合声が聞こえてくる。
「もっと遅く来い」
診療室。雲仙は、患者用の丸椅子に座る、目線が見えないほど深く帽子を被った男に言う。
「……」
帽子の男は何も言わない。
「この前も言ったな」
「……」
帽子の男は黙ったままだ。しかし雲仙は、他の人間には聞こえない声を聞いているかのように、帽子の男と会話を続ける。
「人目に付くないまは。いいか」
ようやく、帽子の男は少し頷く。
「よし、もう少し経ったら帰るように。まだ、娘が隣の部屋にいる」
雲仙はそう言うと、男とそのまま診察室で三十分ほど、時間を過ごした。雲仙が今日の仕事の振り返り、明日の仕事の準備をしている間、帽子の男はどこに視線を合わせているのか、分からない。
やがて真希が帰ったと分かると、少しして帽子の男も帰らせる。雲仙は、困ったものだ、と考える。
この世には、ゴミなんてない。
雲仙は、そう心の中で唱えてみる。
いや、相談といっても少し違う。何か佐賀の中で決意表明みたいなものがあって、それを口上する相手として、身近では最も信頼のできる溝口という男を選んだのだ。
「迷いは、消えました。いや、消した、と言った方がいいのかもしれません。僕はあくまでも絵師で、版元の要望に沿って絵を描くのが仕事であって、そこに私情を挟むのは違う、と」
佐賀のその話を聞いて、丸い禿げ頭の溝口は、うん、うん、と頷き、
「そうだな」
と一言だけ、それに対してコメントをする。溝口としては、この佐賀という若き浮世絵師が何か苦悩し、才能を摩耗させるような悩ましい題材を絵に扱うくらいなら、いっそそんな依頼は断ってしまったほうがいいと強めに言ってあげたいところだったが、
「一流というのは、ある程度の非情さも大事なもんだ」
と、そのときの佐賀にとっての励みになるような言葉を選んで、言った。つまり、そんなことは、佐賀に対する溝口の本心ではなかった。この強くて優しい芸術家が、「仕事のためには非情になって迷いを捨てる」なんてことをすれば、それに対する己の中の無視できない罪と罰の気持ちに直面し、精神を蝕ませることになるかもしれない。しかしいまの彼を鼓舞するのには、それを言うべきではない、と。
「ええ、そうですね」
佐賀は静かに、含みのある表情でそう答えた。溝口はこのとき、気づかなければならなかったのだ。佐賀のその目、表情、言葉から。佐賀は、もし溝口からいま、「いや、あなたが非情になる必要はない」と注意を受ければ、きっとすぐにでも考え直した。迷いはある。常にある。しかしそれが心にまで干渉してくる前に、この若き芸術家は頑張って頑張っていま、消しているのだ。
「進んどるか。あ、デッサンしたと言ってたな」
溝口は話題を変えるようにそう言った。
「はい、大きく進みました」
返すと、佐賀はバッグからケースを取り出し、一枚だけ挟んである紙を溝口に手渡す。
「ほお、美しい方だ」
「表情や雰囲気は、デッサンをしたときそのものです。このデッサンで彼女の輪郭が掴めたので、それをあの日、あのときの表情と雰囲気にするという予定です」
「ああ、英雄、を見とるときのことか。佐賀さんも、そのとき初めて出会ったっていう」
溝口はそのデッサンをまじまじと見ていた。
そうか。この人が、佐賀さんが恋心を抱いている女性か。
そう思うと、確かに佐賀が好きそうな、なんというか、純粋で真面目そうで、奥に秘めた可愛さのある人物だなと感じる。
ただこの目は、どうなのだろう。佐賀の描写力は凄まじく、彼女の表情の機微がそのまま、デッサンとして落とし込められている。この目は、何か強い決意をしたような、しかし、それがちょっと揺らいでいるような、そう、そんな、内面的な揺れを感じさせるものだ。
「商店を貸し切ってしたんだっけな」
溝口は、さっき車の中で佐賀が話していたことを思い出す。
「はい、なぜかそこの店主がとてもよくしてくださって」
佐賀は、ガレージに明かりをつけたようなあの状況を思い出す。デッサンは一時間ほどで終わって、あとは普通通り、鈴木商店は店を開けた。
「応援したくなるんだ。佐賀さんのことは」
溝口はそう、嬉しそうに言った。溝口自身も、佐賀を応援する一人だ。それから一時間ほど経って、「では、そろそろ」
佐賀は時間を見て立ち上がる。もう昼前だ。仕事がある。浮世を観察するという仕事。
「ああ」
と、溝口は言って、「これはいまの佐賀さんに言っておいていいか分からんけどな」と前置きを残して、一旦、居間を出てから何かを持ってきた。
「手紙? ですか」
溝口の手には、ただの封筒にしてはお洒落な紙質の封筒が持たれており、佐賀はそう反応をした。
「カミュからの手紙だ。ワシ宛に、佐賀さんに対して」
佐賀は一瞬、溝口が何を言っているのか分からなかったが、文章を頭の中で整理して、それが自分に対するカミュの配慮であるということを理解する。
佐賀は手紙を受け取る。文面は綺麗な字で、初めは季節の挨拶から始まる形式の、長々しい日本語で書かれていた。
佐賀が目を通し終わると、溝口が、「この前これが届いて電話してな。いまフランスで、カミュはアトリエ教室を開いとる。そこにあなたを講師として招きたいと言っとった。そのままフランスで日本の芸術家として活路を見出せば、日本にいるよりずっといいのではないか、と」
「ああ。そうですか」
佐賀は数秒、斜め下のわけもない一点を眺めていた。手紙も大体、そのようなことを書いている。
佐賀はこのとき、思ってもいなかった誘いに正直、心躍った。それはいまの自分の仕事が難しくて、そこからそのフランスでの未来を見ると、やけに華々しく目の奥に映ったからだ。カミュもきっと、佐賀謙という若い芸術家が日本では受け入れられていない現状を思ってそういう提案をしてくれるのだろう。そう思うとその優しさに涙が出そうになる。
しかしそれをこらえて視線を溝口に合わせると、
「いえ、少なくともそれはまだ先の話です。今回の仕事を終わらせない限りは、僕は前には進めません」
佐賀はきっぱりと、そう言った。この仕事は、まだ弔うことができない。
「そうか。いえ、だったら早く見せればよかった。あなたにとって余計な考えを起こさせるかもしれんと思ってたから」
溝口も溝口なりに、この若き才能の邪魔をしないよう、伸び伸びと育つよう、配慮をする。その配慮に、佐賀は、「すみません、ありがとうございます」と、心から頭を下げた。
溝口はせめて、佐賀に余計な体力を使わせないために駅まで車で送ることを言ったが、佐賀は、「いえ、新たな発見があるかもしれませんので。ありがとうございます」と言って、歩いて駅舎へと向かうことにする。
「それとカミュには、僕の方からそのうち返事を書きますので。そのときはまた、改めて相談に乗って下さい」
「ああ、ああ、ゆっくりでええ」
溝口はその背中を見送りながら、どうかその輝きを失わないで下さい、彼からその輝きを奪わないで下さいと、神様に祈るかのような念を、見えなくなるまでその背中に強く祈っていた。
営業は終わっている。従業員も帰っている。隣の大部屋で、今日は稽古はない。しかし、真希は一人で稽古をしている。静かな院内に、真希の気合声が聞こえてくる。
「もっと遅く来い」
診療室。雲仙は、患者用の丸椅子に座る、目線が見えないほど深く帽子を被った男に言う。
「……」
帽子の男は何も言わない。
「この前も言ったな」
「……」
帽子の男は黙ったままだ。しかし雲仙は、他の人間には聞こえない声を聞いているかのように、帽子の男と会話を続ける。
「人目に付くないまは。いいか」
ようやく、帽子の男は少し頷く。
「よし、もう少し経ったら帰るように。まだ、娘が隣の部屋にいる」
雲仙はそう言うと、男とそのまま診察室で三十分ほど、時間を過ごした。雲仙が今日の仕事の振り返り、明日の仕事の準備をしている間、帽子の男はどこに視線を合わせているのか、分からない。
やがて真希が帰ったと分かると、少しして帽子の男も帰らせる。雲仙は、困ったものだ、と考える。
この世には、ゴミなんてない。
雲仙は、そう心の中で唱えてみる。