第41話 英雄の謎
文字数 2,681文字
手元がサラサラと勝手に動く、この暗闇にポツリと明るい空間で、デッサンが徐々に出来上がっていく、夢ならばじゃあこれは何だ、と佐賀は俯瞰してそんなことを思った。
「私、あまり知らない人と喫茶店に行ったり、散歩に行ったりしませんよ」
佐賀は、千尋の方から散歩に誘ってきたことを思い出す。図書館にカギを開けた状態で泊めさせるというのも、そういうことなのかもしれない。
「ああ」
旧友だったというサインなのか。先ほどの「大学には結局、行かれたんですか」という質問も、それなら辻褄が合う。
「全然気づかなかった。言ってくれればよかったのに」
千尋は、肌の白い、祭りの返り道を二人で歩いた、あの可憐な女子だ。
「何か、タイミングを逃しちゃって。あとほら、その頃はそんなに話したこともなかったですし、たぶん佐賀さんの方は覚えていないんだろうな、って思ってて」
さすがに動いている手がピタ、と止まっている。店主は、こちらで起きていることには気づかない。
「ああ、正直な話、高校時代の記憶はほとんどないんだ、クラスメイトの名前も、五十嵐ぐらいしか覚えていない」
「五十嵐君、はい、あの日、佐賀さんを誘えなくて残念そうにしていましたよ」
佐賀は、千尋の出身がここから駅で十個ほどのところであることを思い出す。佐賀も、出身はそこらだ。いきなり英語で質問してきたり、そんなこと、知らない人にはしないだろう。佐賀が学年一位だったということを知っていたから、そんなことを仕掛けるわけだ。思い起こせば、気づくべきだった点はこれまでいくつもある。
「ああ、そう、断っていたんだ」
「いつ言おうか、ずっと考えてたんですよ。もしかしたら言わないほうがいいのかな、なんて思ったりして」
「ああ、それはすまない。変な気づかいをさせてしまって」
あの時の会話の感覚は、確かにいま千尋と話しているときの感覚と似ている。十年前の感覚でも、あれはなぜか、色濃く残っている。
「そう、そうだったのか」
佐賀は、安堵した。これまでの千尋との会話のなかで引っかかる点というのは、高校時代のあまり面識のない同級生に対して、実は同じ学校だったのだということを中々言えないでいたという逡巡に原因があったのだと、そう理解したからだ。
——しかし。
「あのとき、何をされたんだい? あの、帽子の男に」
佐賀が言う。この浮世絵師の洞察力は、そんなに浅くない。まだまだ、不可解な点はある。ヘロを見たときの「あ」という表情。ヘロを見たときの急な涙。きっとそれらの点の違和感は、いま発覚したものとは原因が違う。この街に越してきたばかりということによる、佐賀のあずかり知らぬ文脈のものだ、きっと。
「落とし物を渡されたんです」
「落とし物?」
よく分からない佐賀は、そう聞き返す。手もとのデッサンは、全体的に一人の女性として浮かび上がってきている。
「ハンカチを落としたって言って、渡してきて。でもそれ、私のハンカチではなかったんです、白いハンカチで」
「それで」
「いいえ違いますって言っても渡そうとしてくるので、それで異変に気付いた五十嵐君が入って来て、どなたかが仲裁に来て、刃物が出て来て、なんだか大事になっていった、という感じです」
「そうだったのか」
佐賀は、その帽子の男が当時、十九才だったことを思い出す。
「何のつもりだったか知らないけど、収納ナイフを持ち歩いているのは、その時点でアウトだ」
佐賀がそう言うと、千尋は「そうですね」と返す。「でも」と続ける。
「その白いハンカチを渡されたときは、そんなに変には感じませんでした。普通にこう、ああ、優しい人なのかなって」
「ああ、それが、事態が大きくなって、訳も分からず激情してしまったのかもしれない。知らぬ間に大事になって、その中心に自分が立たされているということに耐えられない、というか。感情が追い付かない、というか。知っているかい、その彼は当時、十九才だった」
モデルの千尋は、「本当ですか」と驚く。こうしてみると、浮き上がるデッサンの千尋は、あまり笑っていなくて、表情が薄くて、強い目をしている。いまの驚きも、薄いものだ。
どうにか、ヘロの話題に持っていけないか。
「ヘロはいくつと言っていたかな」
「三十、手前くらいですね。二十九。何か昔、聞いたことはある気がします。ほら、モーニングを一緒にしていたので」
「ああ」
自分の年齢の一つ上の人が、英雄をやっている。奇妙なことではあるが、この街ではそれが自然なのだ、と思う前に、千尋とヘロがそれほど、これまで佐賀の知らない時間を共有してきたのだな、と思うと胸が少し詰まる思いがする。
「いつからやっているんだろう」
佐賀の手はもう動いている。
「十年、とおっしゃっていました」
「十年」
佐賀は驚く内心をできるだけ出さずにそう口にする。十年。確かにそれくらいやっていればこの街でその存在を知らない者はいないし、英雄という存在が日常なのも頷ける。ただ、それにしては人々の反応として、不自然なところは多々ある。特に中年以降の人々の反応は、冷たくすら感じるときがあった。
そして何より不自然なのは、
「じゃあ十九歳からやっている、ということになる」
年齢だ。ヘロは国立を出ている、と以前、彼の口で言っていた。十九歳なら浪人生か、大学生か。確かにそれをしつつこの街で英雄であるのも可能ではあるが、しかしこの街や近くに国立の大学はない。一番近くても電車と地下鉄とバスを乗り合わせて四時間はかかるくらいの場所にしかない。
「ですね。十代で英雄をやり始めるなんて、凄いです」
千尋が話の不可解さを理解しているのか、していないのか、分からなかったので佐賀は、「でもヘロは国立を出ていると言っていたけど」と言った。
「ええ、国立の高校です。近くの」
当然のような千尋の返しに、佐賀は一蹴された。
「ああ、そうか」
それは国立を出ていることになる。卒業した後にこの街で英雄を始めたのなら、十九歳でも不可解さは何もない。そしてそこは、佐賀の通った高校よりもずっとレベルが高い。
「でも、それにしても若いころから」
佐賀はしかし完璧には腑に落ちず、そう言う。何か、見落としている箇所があるのではないか。——僕は必要のない人間だから。ヘロが言っていたあれは、どういう意味か。
「なぜ大学へ行かずに英雄なんてやり始めたのだろう。そもそも、それでどうやって生活しているのか」
実家暮らし? とも考える。ふと、佐賀は店主の方を見る。アズミヒデオ、とは。かつてのこの街の英雄。分からない。この街の英雄は、謎だらけだ。
「私、あまり知らない人と喫茶店に行ったり、散歩に行ったりしませんよ」
佐賀は、千尋の方から散歩に誘ってきたことを思い出す。図書館にカギを開けた状態で泊めさせるというのも、そういうことなのかもしれない。
「ああ」
旧友だったというサインなのか。先ほどの「大学には結局、行かれたんですか」という質問も、それなら辻褄が合う。
「全然気づかなかった。言ってくれればよかったのに」
千尋は、肌の白い、祭りの返り道を二人で歩いた、あの可憐な女子だ。
「何か、タイミングを逃しちゃって。あとほら、その頃はそんなに話したこともなかったですし、たぶん佐賀さんの方は覚えていないんだろうな、って思ってて」
さすがに動いている手がピタ、と止まっている。店主は、こちらで起きていることには気づかない。
「ああ、正直な話、高校時代の記憶はほとんどないんだ、クラスメイトの名前も、五十嵐ぐらいしか覚えていない」
「五十嵐君、はい、あの日、佐賀さんを誘えなくて残念そうにしていましたよ」
佐賀は、千尋の出身がここから駅で十個ほどのところであることを思い出す。佐賀も、出身はそこらだ。いきなり英語で質問してきたり、そんなこと、知らない人にはしないだろう。佐賀が学年一位だったということを知っていたから、そんなことを仕掛けるわけだ。思い起こせば、気づくべきだった点はこれまでいくつもある。
「ああ、そう、断っていたんだ」
「いつ言おうか、ずっと考えてたんですよ。もしかしたら言わないほうがいいのかな、なんて思ったりして」
「ああ、それはすまない。変な気づかいをさせてしまって」
あの時の会話の感覚は、確かにいま千尋と話しているときの感覚と似ている。十年前の感覚でも、あれはなぜか、色濃く残っている。
「そう、そうだったのか」
佐賀は、安堵した。これまでの千尋との会話のなかで引っかかる点というのは、高校時代のあまり面識のない同級生に対して、実は同じ学校だったのだということを中々言えないでいたという逡巡に原因があったのだと、そう理解したからだ。
——しかし。
「あのとき、何をされたんだい? あの、帽子の男に」
佐賀が言う。この浮世絵師の洞察力は、そんなに浅くない。まだまだ、不可解な点はある。ヘロを見たときの「あ」という表情。ヘロを見たときの急な涙。きっとそれらの点の違和感は、いま発覚したものとは原因が違う。この街に越してきたばかりということによる、佐賀のあずかり知らぬ文脈のものだ、きっと。
「落とし物を渡されたんです」
「落とし物?」
よく分からない佐賀は、そう聞き返す。手もとのデッサンは、全体的に一人の女性として浮かび上がってきている。
「ハンカチを落としたって言って、渡してきて。でもそれ、私のハンカチではなかったんです、白いハンカチで」
「それで」
「いいえ違いますって言っても渡そうとしてくるので、それで異変に気付いた五十嵐君が入って来て、どなたかが仲裁に来て、刃物が出て来て、なんだか大事になっていった、という感じです」
「そうだったのか」
佐賀は、その帽子の男が当時、十九才だったことを思い出す。
「何のつもりだったか知らないけど、収納ナイフを持ち歩いているのは、その時点でアウトだ」
佐賀がそう言うと、千尋は「そうですね」と返す。「でも」と続ける。
「その白いハンカチを渡されたときは、そんなに変には感じませんでした。普通にこう、ああ、優しい人なのかなって」
「ああ、それが、事態が大きくなって、訳も分からず激情してしまったのかもしれない。知らぬ間に大事になって、その中心に自分が立たされているということに耐えられない、というか。感情が追い付かない、というか。知っているかい、その彼は当時、十九才だった」
モデルの千尋は、「本当ですか」と驚く。こうしてみると、浮き上がるデッサンの千尋は、あまり笑っていなくて、表情が薄くて、強い目をしている。いまの驚きも、薄いものだ。
どうにか、ヘロの話題に持っていけないか。
「ヘロはいくつと言っていたかな」
「三十、手前くらいですね。二十九。何か昔、聞いたことはある気がします。ほら、モーニングを一緒にしていたので」
「ああ」
自分の年齢の一つ上の人が、英雄をやっている。奇妙なことではあるが、この街ではそれが自然なのだ、と思う前に、千尋とヘロがそれほど、これまで佐賀の知らない時間を共有してきたのだな、と思うと胸が少し詰まる思いがする。
「いつからやっているんだろう」
佐賀の手はもう動いている。
「十年、とおっしゃっていました」
「十年」
佐賀は驚く内心をできるだけ出さずにそう口にする。十年。確かにそれくらいやっていればこの街でその存在を知らない者はいないし、英雄という存在が日常なのも頷ける。ただ、それにしては人々の反応として、不自然なところは多々ある。特に中年以降の人々の反応は、冷たくすら感じるときがあった。
そして何より不自然なのは、
「じゃあ十九歳からやっている、ということになる」
年齢だ。ヘロは国立を出ている、と以前、彼の口で言っていた。十九歳なら浪人生か、大学生か。確かにそれをしつつこの街で英雄であるのも可能ではあるが、しかしこの街や近くに国立の大学はない。一番近くても電車と地下鉄とバスを乗り合わせて四時間はかかるくらいの場所にしかない。
「ですね。十代で英雄をやり始めるなんて、凄いです」
千尋が話の不可解さを理解しているのか、していないのか、分からなかったので佐賀は、「でもヘロは国立を出ていると言っていたけど」と言った。
「ええ、国立の高校です。近くの」
当然のような千尋の返しに、佐賀は一蹴された。
「ああ、そうか」
それは国立を出ていることになる。卒業した後にこの街で英雄を始めたのなら、十九歳でも不可解さは何もない。そしてそこは、佐賀の通った高校よりもずっとレベルが高い。
「でも、それにしても若いころから」
佐賀はしかし完璧には腑に落ちず、そう言う。何か、見落としている箇所があるのではないか。——僕は必要のない人間だから。ヘロが言っていたあれは、どういう意味か。
「なぜ大学へ行かずに英雄なんてやり始めたのだろう。そもそも、それでどうやって生活しているのか」
実家暮らし? とも考える。ふと、佐賀は店主の方を見る。アズミヒデオ、とは。かつてのこの街の英雄。分からない。この街の英雄は、謎だらけだ。