第72話 憂き世か浮世か

文字数 1,250文字

 雲仙も病院の営業が終わり、真希も演舞が終わり、浮世絵の販売は雲仙親子によって、そこから始まった。

 佐賀と真希はスタッフとしてステージの裏に立っていたので販売の様子は遠目に見ているだけだったが、浮世絵はどんどん売れていくようだった。佐賀謙という名はここでは伏せて、手の届く値段に設定がしてある。佐賀もそこは了承している。

 雲仙は、最初からそれが目的だった。佐賀という浮世絵師に書いてもらった浮世絵を、人々と共有する。人々の決意、またヘロという英雄が卒業したことへの記念碑として、人々の心に芸術と共に残す。木版画で依頼したのはそのためだ。

 陽が落ちたステージの裏は暗く、十月の肌寒さがある。佐賀は臙脂色のジャケットを着ている。

 そこで、

「佐賀君」

 急に、話しかけられた。ステージの裏から出たところだ。振り返ると、帽子を深く被った男がいた。

「——ヘロか」

 佐賀はそう返す。頷きはしなかった。視線が帽子で見えない、下山慎之介。その名前が記憶から出て来る。かつてあの街の英雄だった下山慎之介。

「ありがとう、あの絵は一生の宝物にする」

 下山はそう言った。英雄死亡説、その絵は、どれほどあの街で下山が人々から必要とされてきたか、それを残す記念碑だ。

「いや、すまない。あのときは」

 佐賀はあのとき、の話をする。十年前、この会場で下山のこめかみに飛び蹴りをしたときのこと。

「ああ、あれは痛かった」

 下山は帽子の下から言う。口元は見える。

「あそこで人々の波を変えるのは、あれしかないと思った」

 気づくと、打ち上げ花火が始まっている。彼方の空に、大きな花火が咲く。

「否定はできない」

「気づくべきだったんだよ」

「何に」

「あのとき誰も笑ってなかったということに」

 そう言うと、下山は口元をスッとすぼめ、感情を無くす。まるで十年前のあの帽子の男が現れたようだった。

「笑えない状況だった。僕はいつも笑えない、深刻な状況なんだ」

 そのセリフは、そちら側の代表であるかのような、そんな重みを持って佐賀に挑戦する。

「否定はできない」

 佐賀は断言できない。しかし、「たぶんそのために、芸術があるのさ」と、こちらも芸術家としての重みを持って、下山に応える。

 赤、黄、青、緑。

 ドン——パラパラパラと、打ち上げ花火が咲いては辺りを染め、散っていく。

「ああ、佐賀君の芸術は、優しいね」

 下山がそう言っていると、近くで「おいっ」と怒号が飛んできた。佐賀はパットそちらへ目をやる。

「これは危ない」

 二十代前半くらいの血気盛んな若い男同士が、揉め事を起こしている。どちらもサングラスにぴちぴちのスウェットを履いた、典型的なタイプだ。

「流れだ、大きくなる」

 佐賀が言うのに対し、下山は何も言わない。ただじっと、その方へ帽子のつばを向けている。彼はいま、何を思っているのか。

「下山」

 佐賀は言う。下山は、佐賀を向いた。

「憂き世か浮世かはたぶん自分次第だ。とりあえず暴力なんてくだらない」

 佐賀は下山にそう言うと、ずんすんとその若い男の方へ歩いて行った。
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