第61話 賽は投げられた

文字数 2,392文字

「本当に申し訳ない」

 彦山が改札を抜けて出て来たところで、安住はそう謝った。紅一色のスーツから、中年の普段着へ着替えている。痛み止めも飲んで、動けはする状態だ。

「雲仙さんのことならいつでも飛んできます」

 これから道場で稽古を始める予定だった彦山は正直、迷惑と言えば迷惑だったのだが、自分の先輩が犯そうとしている危険について黙っているわけにもいかない。後は信頼できる稽古生に「急用で今日は休み。祭りでも行ってこい」ということを伝達させて、すぐに帰って着替えて電車に飛び乗って来た。

「それより——」

 彦山は安住の顔面の大きな傷の手当、所々分かる軽傷、それと何よりその真っ白な髪の毛について話を触れようとしたが、いまはそのときではないと一瞬のうちに状況を読み取ったようで、口を噤んだ。二人の関係は雲仙経由のものであり、与太話をするまでの面識もない。

「どこに行ったのかは本当に分からない。ただ、ここら一帯ではない可能性が高い」

 この街でのけ者にされていると感じる者が逃げる際に、この街に留まるとは考えにくい、という論理だったが、「確かにそうですね。では僕は上り線の方向を回ります。安住さんは下り線の方向をお願いします」

 聡明な人間だ、と安住は思った、一瞬で言葉の意味を理解している。

「ああ、分かった。何かあれば連絡する」

 安住と彦山は二手に分かれた。



 日頃から歩き回っている安住は足腰が強い。少し痛むが構いなく、小走り気味に街中を右往左往する。雲仙、あるいは、あの帽子の男の姿を探す。

 ——プルルルル——プルルルル——プルルルル——パタッ

 出ない。

 何度か電話をかけてみるが、雲仙からの応答はない。時間を確認してポケットにしまって、安住は先を急ぐ。

 陽が落ちてだんだんと暗くなっていく街を走り回る安住。この十年、安住がヘロとしてではなく安住英雄として街中へくり出るのは久しくなかったことで、人物捜索という切迫した状況の最中ではありながらも、そのことに対する感慨が十月の心地よい肌寒さとともに、思考の隙間に入ってくる。

 夕暮れ。

 気が付けば、そう、いまは誰にも話しかけられないし、挨拶もされない。

 ただの五十二歳独身の男が、年齢を感じさせない体力で街中を走り回っているだけ。

 この十年、人々の中心に立ち、注目を集め、英雄と称えられた。この十年、安住英雄でいる時間は寝るときくらいで、あとは全てヘロとして生活をしてきた。

 久しぶりの景色。

 安住は信号で足を止めた。歩行者と自動車が分離される信号である。



 買い物袋を持ったお母さんと楽しそうに歩く、制服を着た幼稚園児。

 仕事帰りの疲れが出ている、スーツが着慣れた中年のサラリーマン。

 シルバーカーを押し歩く老女。その横を走って行く体格の良い若者。

 女子中学生は友達二人で気になる男の子の話をしているのだろうか。

 白い犬は飼い主の若い女性の足元に落ち着いて、信号を待っている。

 大学生の男女は、清潔感のある服を着こなして、信号を待っている。



 皆、どこかへ帰って行く。安住はなぜか、涙が出そうになる。

 この信号を待って。青になれば歩き出して。帰り道とは、そういうものだ。目的地がある。

 安住にはそのとき、目的地が無かった。

 だから、ともいえる。帰る場所がない。だから、どこへでも行ける。

 いや、やはりそれこそ、安住が人々から英雄と称えられた、根本の部分なのだろう。

 安住英雄。この男は、ヘロという格好をしていなくても、心が英雄なのだ。皆、そうなればいいのに。皆、英雄になれば。

 キー!——

 黄色信号を無理に抜けようとした車が、急ブレーキをかけて交差点の中をスリップする。交通事故だった。

 そこで待ち合わせていた人々の目、全てが交差点の中に注ぎ込まれる。お母さん、幼稚園児、サラリーマン、老女、若者、女子中学生二人、白い犬、若い女性、大学生の男女。それぞれの目が、交差点の中央を見ている。

 急に停止する車。路面にはスリップの跡が熱く引かれている。

 てんてん、と何事もなかったかのように、そこから黒猫が歩いて行った。

 それよりも人々の目に焼き付いたのは、先ほど交差点の真ん中に急に飛び出して、その黒猫を救った後、いま微動だにせず倒れている白い髪の中年の男の姿だった。



 ヘロがいない。この街の英雄が姿を現さない。

 たった数日でその異様さは人々に当然の流れとして現れ、不安を煽った。

 あの日、交差点での事故があって、誰かがすぐに駆け付けた。ヘロが挨拶すると元気に挨拶を返してくれる、同年代の元気なオヤジだった。

「ヘロさん⁉」

 必死の形相でオヤジがそう呼びかけると、横たわっている安住は何も返答しない。

 その現場を見ていた人たちによって、英雄がその姿を現さない理由が、人々の共通認識の中に明らかにされていった。

 

——この街の英雄は亡くなった。

 

 確かに、それは間違いではなかった。しかし本当のことでもなかった。安住は埋葬された。多くの人が列席し、涙を流した。この街の英雄を悼んだ。しかし、この街の英雄は、安住から言わせれば、あなたたちだった。あなたたちが英雄なのだ、と。しかしそこにいる人々全員、ただただ、この街の英雄の死を悼むばかり。英雄というスーパーヒーローが無くなって、ポッカリと穴が開いたような雰囲気。これからこの街はどうなってしまうのか。皆、そんなことを考えている。いや、考える暇もないほど悼んでいる。それほどヘロという英雄は大きなものだった。大きなものを失った。



 きっとこうなるのではないか。そんなことはこの街の全員、誰も予測がつかなかった。そう、この街の全員。しかし、こうなる未来を予測に入れていた男は、他の街に一人だけいた。その男はその葬式の前日、安住が交通事故に遭ったその瞬間、自分の八つ上の空手の先輩を追って、とある祭り会場にやって来ていた。
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