第62話 彦山の熱

文字数 3,230文字

 こんなところまで来てしまった。

 底なしの体力の彦山は、とうとう駅を四つも走って、本日開催されている祭り会場の近くまで来た。

 いる可能性は高い。

 その、帽子を深く被った男というよりは、雲仙さんだ。人を探すなら、人の多い場所を選ぶだろうから、雲仙さんがここにいる可能性は高い。

 ただ、あまり長くは居たくない。これは彦山の、完全に私的な理由だ。さっき、安住から連絡を受けて急遽、彦山は今日道場で行われるはずだった稽古を休みにしてきた。こんなことは道場の創設以来初めてであり、そして蛇足に、「祭りでも行ってこい」などと道場生に伝言を残してしまったものだから、

 もし会場にウチの道場生が来ていて、俺の姿が見られたら。

 もちろん説明すればいいことなのだが、いまそんな時間はない。ヘロ、とか、雲仙さん、とか、何も知らない道場生たちに一から分かりやすく説明するのは容易ではない。

 出来るだけ目立たないように。

 彦山は早足で会場を巡る。雲仙さん、どこにいる。

 ヒュルルルルルル……パンッ——パラパラパラ

 会場にいる人たちは、夜空の一方向を眺めている。その顔が赤、緑、青、黄、と打ち上げ花火の光に照らされる。

 運の良いことに、まだ道場生の誰も見ていないし、もしかしたら来ている誰かに一方向的に見られたのかもしれないが、まさか自分の師匠が道場を休みにしてこの祭り会場に来ているなどとは思わないだろうから、何かの見間違いと思ってくれるだろう。

 花火が始まり、少し探しやすくなった。雲仙さんは逃げているその帽子の男を追っているはずだから、花火に視線を向けているはずがないので、そちらへ目を向けている人の顔はいちいち確認する必要がなくなる。

 よし、と彦山はあと五分ほど探していなければここは諦めよう、と捜索スピードを上げようと思った、そのとき。

 錬太郎——。

 ベンチに座っているそれが、彦山の息子、高校一年生の錬太郎の背中だと分かった。その横にいるのは……大学生の福田。十数年も教えてきたら、背中だけでもそれぐらいは分かる。福田は、優しい奴だ。

 二人で来たのだろうか。いや、福田がいるということは少なくとも椎名もいるはずだ。いまは椎名はどこかに行っているのだろう。

 それにしても、と彦山はその自分の息子の背中を見て、妙に、すまないな、という考えを持った。空手道場という家に生まれて、錬太郎には旅行も連れて行ってやったことはないし、小中高、入学式も卒業式も運動会も文化祭も、見に行ってやったことはない。もしかしたらいま、初めて祭りというものに来たのかもしれない。打ち上げ花火も、こんなに近くで見たのは初めてのことかもしれない。とても可哀そうだと思うが、すまない、もちろん間柄、安く言葉にはできないが、いつも、錬太郎にはそう思っている。連れて来てくれた椎名と福田には感謝しかない。

 ケンは。

 あいつは、いないだろうな。そう、彦山は思った。いずれ確実に、この彦山総司を越えて来るやつだ。道場が急遽お休みとなれば、どうせジムにでも行っているのだろう。ケンは、そういうやつだ。ただ、頑張りすぎも身を滅ぼすだけである。いつかその力の抜き方というのも教えてやろうと思っている。

 そうだ、今度、道場のみんなで旅行でも行こうか。

 そんなことを考え始めて、——ああ、それは後で考えよう、といま自分がやるべきことを思い出す彦山。雲仙さんを探しているのだ。時間はあまりない。

 早足で歩いていると、やがて、なぜか大きな円周状の人の群れが、花火を見ている人たちの後ろにあることに気が付いた。その群れは花火を見ていない。

「逃げろ!」

 そんな声が聞こえた。瞬時に肌感で分かる、空気が切迫している。

 何かがあっている。

 この丸い人の群れの中に。

 彦山は、雲仙を探すのとは別の目的で、その群れの中に入った。危険察知をしたのだ。群衆が輪になっている内側まで来ると、その中心には、

 ——帽子を深く被って、細いナイフを持っている男。視線はよく見えない……

 中で起こっていたまさかの事態に、さすがの彦山も焦る。さらに、その危険人物と対峙しているのは、彦山の道場生の椎名だった。

 ——椎名!

 彦山はあと0・1秒もあればその場を飛び出して、中心に出ていた。

 しかし、

 タタタッ

 群衆の輪から内側へ走り、ダッ、と地面を蹴った青年は軽やかに宙を跳んだ。そのまま足刀の構えで引き足を取り、強靭なバネに力を溜める。

 ああ、と彦山は思った。

 人体急所の一つ、こめかみ。

 青年はまともすぎる一撃を帽子の男のそこに入れた。

 帽子の男は一も二もなく倒れ、意識を失った。青年は、ふわ、と重力を感じさせない足音で一本足、地に舞い降りた。

 ……。

 たった一撃を確実に急所に入れるとは。

 ……。

 いや、彦山を驚かせたのはそんなことではない。その青年、彦山の一番弟子である佐賀謙はいま、鉄の掟を破るという最大のタブーを犯したというのに、お寺で瞑想でもしているかのような達観をし、汗一つも掻いていない。

 ケン、お前の判断は間違ってはない——。

 人の輪の中心にいた、ナイフを持った危険人物。それがたった一撃のもとに、その枠を追い出された。そして代わりに、軽やかすぎる達観の青年、佐賀謙がその枠、群衆の中心という位置に立った。佐賀があまりにも平生な呼吸、冷静な表情をしているものだから、いったいいま何が起きて何が終わったのか群衆は理解しかねる様子だった。とりあえず万事うまく行ったのか? と了解し、徐々に散らばっていった。激しかった波が魔法にでもかけられたみたいに和らいだ。

 彦山は、成り行きを少し見届けてからその場を離れる。何年か前、安住が「ヘロ」をやっていることについて雲仙から少し聞かされた時に持った懸念を思い出しながら、黙って雲仙を探す。



 いずれその「ヘロ」という存在はなくなる。それは寿命かもしれないし、不慮の事故かもしれない。そうなったとき、それまで「ヘロ」を中心としていた周りの人々は、ポッカリと心に穴が開くだろう。

「残念だな。フレンチトースト食べられなくて」

 雲仙がそう言うと、彦山は「いえ。オムライスもとても美味しいです」と返す。今日はアズミセットは終了だという。人気のお店だ。

「安住さん、とはお会いされるんですか」

 彦山にとって、いま雲仙から聞かされたばかりの「ヘロ」の話は、何十年後か先の未来を見たときに、心配の大きな内容だった。「ヘロ」が現れて、いま、何ヶ月か経った状態だという。お店はパートだった川端さんという方が引き継いだらしい。

「いや、ちょっと疎遠になってしまっている、最近は」

「そうですか。特に悩まれているとか、そういうのはあるんでしょうか」

 彦山は質問を続ける。彦山の目には、自分と同じような、やりすぎてしまう、という人間に安住は見える。

「そりゃあるだろう。あいつにも」

 安住の親友として、それは思う。あいつは、ああ見えて感覚が鋭い人間だ。

「ですよね」

 彦山は安住の親友である雲仙に対して、疎遠ならこれ以上そこへ首を突っ込むということは体裁の上で良くないと思ってそこまでにしておいたが、それからも一人で、凄く考えた。人から奇妙な目で見られる、その中で考えることは多いし、彦山自身、母親のいない境遇の中で人から奇異の目で見られ、その中で悩み、考え、それをバネにして努力を始めた日から今に至るという自負がある。

 彦山は時間を確認する。いつかは壊れるその振り子時計に安住英雄という男の未来を重ねる目をして、視線を塞ぎ気味に祈る。立場上、祈ることしかできない。もしそのときは、この街は誰かを必要とする。全く新しい何かをもたらす人間を。それはもしかしたら周り回って、ウチの道場の子たちの誰かかもしれない、だから指導は鬼にならなければならない。あくまで自分には、自分にできることしかできない。そこに最善を尽くすのだと、そんなことを彦山は思った。
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