第37話 佐賀の飛び蹴り

文字数 4,250文字

 佐賀は、帽子の男と対峙している高校生がクラスメイトの五十嵐だと気が付いた瞬間から、そこへまっすぐ歩いて行く椎名が二人の間に入るまでの、たった三秒ほどの間に、状況の考察とこれから考えられる事態を思案して、最悪の場合はこうなるだろうという自分の運命に対して、すでに弔いの念を捧げていた。

 まず佐賀は、ああ、五十嵐は今日帰るまでに、学校の何人かを祭りに誘うことができたのだな、と思った。対峙しているのは五十嵐だけだが、その後ろには、五十嵐の仲間がいる。五十嵐の少し後ろに男が四人、その後ろに女子が三人いる。その女子のうち、こちらからは見えないが明らかに一人が守られていて、ああ、五十嵐たちは後ろの彼女を守っているのだな、と推察する。

  次に、帽子の男を観察する。やはりその意識は、最も後ろで守られている女子に飛ばされていた。一体、何があったのか。

 五十嵐たちが歩いていたらその女子が手を掛けられたので、彼女を守っている状況。そう佐賀は考えた。そこはでもどうでもいいことだ。次を考える。

 さあ、問題を解決するにあたって厄介なのは、相手が、話の通じる者かどうかという点だった。例えば、相手がただのチンピラだったなら話は早い。なぜなら話が通じるからだ。仲裁に入って、話をまとめて帰らせる。「なんだてめぇ」と反抗されても、きっと精神的にも肉体的にも優位に立っているのは椎名や佐賀の方で間違いないので、お前とは格が違う、と睨みつけて終いだ。いずれにせよ、話がちゃんと相手に通じているから、それができる。

 しかしその男は、チンピラではなく、きっと、精神面で何か外れているところがある。つまり、話が通じない可能性が高い。仲裁に入って話をまとめる、それはきっと難しいだろうし、眼力で威圧をかけたとしても、そもそも深く被った帽子で、男はそれを見ていない。

 話の通じない相手を、いったいどのようにすれば退かせることが出来るのか。

 佐賀は冷静に、暴力しか思いつかなかった。話し合いで解決できないとき、決着は暴力に委ねられる。人間の歴史はずっとそうだ。

 そこまで佐賀の思考が行き渡ったとき、椎名がようやく、両者の仲裁に入った。できるだけ事態が悪くならないよう、続けて佐賀もすぐにその場に加わるつもりだった。この三秒で、様々なことを予測した。でも、まずは話し合いで解決を試みてみるべきだと佐賀は考えた。

 世の中そう簡単に、予測の域には留まってくれない。椎名が颯爽とそこに加わった瞬間、帽子の男が居直り強盗のように、懐からナイフを取り出した。



 取り出したナイフに、椎名はすぐ間合いを取った。手を後ろに示して「君らは下がってろ」と言わんばかりに五十嵐たちを後ろに下げる。そして椎名は、帽子の男から絶対に目を離さない。ナイフは収納タイプの、細いものだった。

 五十嵐たちは後ろに下がる。何事か、と周囲の人間は違和感を察し、片方の人間の手にナイフが握られていることを目にすると、たった数秒で二人を中心に群衆の輪が形成された。事態が大きくなっていく。収拾がつかなくなっていく。

 沈黙があった。その間も、打ち上げ花火は夜空に咲き続けていた。花火の明かりが赤、緑、青、黄色、と音のない映画のように、二人を映していた。

「兄ちゃん逃げろ!」

 どこからか、そんな声が上がった。それを皮切りに群衆が波のように蠢く。ちょっと他人事のように見ていた人たちも一気にボルテージを上げて、場の熱が高まった。激しい波だ。収まらない。

 しかし、そんな中でも椎名はそこを一歩も引かずに、冷静に間合いを取って帽子の男から目を離さない。逃げない、いや、椎名は、逃がさない、そういう目をしていた。俺はお前を逃がさない。

 収拾がつかないな。

 少し離れたところから状況を見ていて、それを認めた佐賀。それに対して今の自分にできることとはなにかと考えた。握力、そんなものは本当に緊迫した場面では何の役に立たないのだな、と自分の想像力の浅さを反省した。そしてこの状況を打破する今の自分に出せる最善の答えを見つけると、そのときなぜか自分でも奇妙なほどに、心はひどく晴れていた。

 佐賀は、迷いなく群衆の輪に入り、そのまま中へ飛び出した。

 タタタと三歩踏んで間合いに入り、強く地面を蹴る。

 佐賀は跳んだ。

 重力から解き放たれたかのような、華麗な跳躍だった。空中で足を横に引く。強靭なバネがキシシ……と縮むように。

 そして——佐賀の足刀が帽子の男の耳の上あたりを直撃した。

「ケン」

 サンダルを脱いでいた裸足の足刀は、帽子の男を一発で倒し、気絶させた。一拍子遅れてトン、と佐賀は、一本足で地面に着地した。

「お前……」

 椎名は、心配そうに佐賀にそう言う。佐賀は、苦笑いだ。破ってしまいました、とでもいうように。

「おいケン!」

 後ろから走り気味に言ってきたのは五十嵐だった。他の者はいつの間にか、近くで警備にあたっていた警察官を呼びに行っていたらしい。五十嵐の横には警察官がおり、細いナイフを手のひらに倒れている帽子の男を一瞥して「君がやったのか」と佐賀に問うた。

「はい」

 一言、佐賀はそう答えた。振り向きざまのことで、後ろの方には五十嵐以外の仲間が、他の警察官と状況を話しているのが見えた。その中で、後ろに守られていた彼女が自分のことをずっと見ているのに気づく。佐賀は、ああ、去年、祭りから帰るときに話した子だ、とその可憐な女子に、ここで初めて気づいた。

「署まで来てもらおうか」

 警官は、嫌悪する表情をして佐賀に言った。佐賀は何も言わずについて行った。

最寄りの警察署の取調室で、佐賀は警官に説教された。家庭を持ち始めた三十過ぎくらいの警官だった。

「勇気は称えるが危険すぎる。偶然なにも怪我がなかっただけで、君の行動は賞賛されるべきじゃない」

「はい」

 そんなことは当たり前だ。だから、素直にそう答えた。話の通じそうにない者が凶器を持っているとき、向かって行くなんて馬鹿すぎる。

「分かってるか? 怪我じゃ済まなかったかもしれないってことを」

「はい」

 はい、しか答えない筋肉質な高校生に、警官は「分かってたらなぜああなる」と上げ足取り気味に返す。佐賀は、「あの場では皆、守るものがあったので。収拾を付けるにはああするしかないと思いました」と話した。「はい」以外で、そして続きのありそうな答えがすぐに返って来て、警官は黙って話を聞く。佐賀は続ける。

「まず一番にあの男を止めていた五十嵐君、偶然ですが高校のクラスメイトです。彼の後ろには、彼の友達がいました。だから五十嵐君は、そこを退くわけにはいかなかった。次に、僕の先輩の椎名さんが仲裁に入りました。椎名さんは五十嵐君に代わって、皆を守ろうとしました。椎名さんは、強い人です。相手がナイフを持っていても怯まずに、冷静にその場に居続けました。少しでも目を離せば危害が他の人たちに出るかもしれない、きっと椎名さんはそういう心境で、あの男を睨んでいました」

 警官は、普通なら心理的ストレスを抱えてもいいはずの話を、あまりに淡々と進める目の前の高校生に、尋常ではない精神力と、紙一重のサイコパス的な内面を伺い見るようで、調書を取ることも忘れて佐賀の話を聞いていた。

「皆、あの場では守るものがありました。逃げるわけにはいかない。そんな中で周りの群衆が熱を持って激しくなって、もう、流れが収まらないな、と」

 警官は、佐賀の言いたいことが分かった。警官がもしその立場、つまり後ろに守るものがいる立場だったら、逃げるわけにはいかない。そして逃げるわけにはいかないなかでその場を終わらせるためには、自分だったらどうするのか。自分には拳銃がある。警官は考える。

「僕も守らなければなりませんでした。先輩である椎名さんにもしものことがあったらいけないので。それに、ちょっと自信がありました。奇襲して一撃を入れれば、相手は反応できずに気絶するだろうって。あの場を解決する手段を、暴力に委ねたんです」

 警官は納得する。自分もいま、拳銃という最高の暴力を発想をしたからだ。佐賀は、自分が空手を十四年やっていることを警官に伝えた。「どこで」と聞いてきたので彦山の道場でやっているということも伝えると、警官はなぜか、妙に納得した。

「彦山先生は青少年の健全な育成のために、ウチにも講演に来てもらったりするんだ。そうか、君は、彦山先生の弟子なのか」

「……」

 佐賀は、答えに窮した。鉄の掟を破って一般人に手を出した佐賀は、あの瞬間から彦山の弟子とは言えない。そのことをいま一度強く、自分の中で認識した。

「自己満足もあります」

「自己満足?」

 警官は復唱する。

「たった一人があの場で手を出して何事も起こらずに丸く収まる。たった一人が中心に立つことで全てがうまくいく。ヒーローとか英雄が登場したみたいな、そんな感じになればいいと思いました。ただ」

 警官は話を聞きながら、本当にこの子は高校生か、と思ってみる。

「ヒーローとか英雄とか、やっていることは暴力なんだな、とも。話の通じない相手に対する解決の手段としてそれは仕方が無いことなのかもしれませんが、いざ自分もそこに加担してみると、虚しいだけだなといま思っています」

「それは警察も同じだ、割り切らなければならない。世の中、暴力でしか片付かないこともある」

 佐賀はその警官の意見に対して、あの可憐な女子の目を思い出していた。あれは、颯爽と現れてピンチを救ったヒーローを見る目ではなかったように思う。他の解決の手段はなかったのか、考えたが、残念ながらそのときの佐賀には、急所に入れて失神させる以外に、考えつくことができなかった。

「そうですか」

 佐賀は、警察もそう考えるのかと、やるせなさを抱えつつも納得せざるを得ない。警官はもうそれ以降は、佐賀を早く帰らせるために事務的な質問しか聞いてこなかった。たまたま話の中に出てきた情報として、同じくここに連行されてどこかで取り調べを受けている例の帽子の男の年齢が、佐賀の一つ上の十九歳だというものがあったのだが、佐賀は、にわかにはそれが信じられなかった。

 しかし実際、少年法に守られたその帽子の男の素顔や名前は一切世間に出ることがなかった。誰がその事件で最も酷な罰を受けたのかといえば、それはそのあと警察から、そちらの道場生が起こした事件として説明を受けた彦山から、佐賀が翌日にも問答無用で破門にされたことだった。
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