第28話 画家から絵師へ

文字数 3,210文字

「シャルロット・カミュ」
 溝口はそうポツリと言い、「不思議な人物や」と振り返るように言う。

「カミュは浮世絵の師匠です」
 冷め始めたお茶をすする。カミュ、話の中で出てきた青い目のその人物を、佐賀は思い出していた。

「よくもまあ、ショッピングモールに埋もれていた佐賀謙という才能を見逃さんかったもんだ」

 カミュは無名だった佐賀謙という画家の作品を、そこにあったもの全て買って行った。

「あれがなかったらいまだにショッピングモールのテナントにある小さな区画で、僕は近くに来た客を睨んでいるのかもしれない」

 佐賀がそう言うと溝口は「それはそれでええやないですか」と笑ってみせる。

 カミュは閉店ギリギリにすべての作品を購入したあと、佐賀に「浮世絵をやりませんか。私が教えます」と提案をしてきた。さすがの佐賀も全ての自分の作品を即購入という目の前で起きた出来事にあっけに取られていて、そのうちにそんな提案をされたために上手い言葉が自分の中で見つからなかったのだが、

「何を言っているか知らないが仕方ない。売るものがなくなってしまったから」

 仕方なく引き受けよう、という姿勢は保ったまま当時の若い佐賀は、そのあとショッピングモール内のカフェでカミュの話を聞いた。あるいは当時の佐賀にそうした尖り、若さと度胸が無ければ、こういった話は流れていたに違いない。

「現代の芸術家に求められるのは『見せ方』です」

 シャルロット・カミュとはフランス、パリで浮世絵の研究をしている日本美術学者、美術コレクターで、現地ではメディアにもたびたび出演するちょっとした有名人だそうだ。たまたまその日、日本で開かれる学界の出張にやって来ていて、たまたまその日、日本へ来たついでに邦楽CDを買うために音楽ショップへ行こうとショッピングモール内を歩いていたら、道すがら、テナントで面白いコンセプトの個展が開かれていた。

 無料で入れるというので興味本位で入ってみると、といっても案の定というか期待通りというか、ある程度の作品を飾っていたり、独自の世界観を絵にしたものを飾ったりしているだけだった。期待通りと言えば期待通り、町の掲示板を通り過ぎるかのような速さで次々と見終えると、しかし最後に通った区画に、カミュは期待を大きく裏切られた。

 奇妙、奇天烈、奇想天外。

 浮世絵に近い形式、だが色も線も形も、日本の歴史に伝わる手法を踏襲しているというより、西洋の写実主義に近い。まるでその昔、若きヨーロッパの画家たちが、ついに鎖国を廃し、ベールを脱いだ東洋の島国から流入してきた質素な伝統芸術、ジャポニズムに影響を受けて次々と浮世絵の魅力に憑りつかれた、その時期にでも作られたかのような気鋭の作品。

 カミュは、いや違う、と頭を振るう。

 扱う題材はロマン主義でもあり、しかし印象派のような色使いとぼやけ具合で描かれたところもあり、また、ロマンに傾倒しすぎない現代への鋭い洞察が散りばめられている。

 過去のものよりも、ここには圧倒的な未来が眠っている。東洋も西洋も垣根を越えて、手法も形式も逸脱して、ただ圧倒的に絵として物凄い作品、そしてそれが、この彼の中では自覚がないようだが、浮世絵に近い。

 カミュはそのとき、自分がこれまで浮世絵の研究をしてきたこと、制作に携わった経験があることを誇りに思った。喜び、また、胸が高鳴った。浮世絵にこんな可能性が眠っていたとは、そしてそれを現にやっている人間がこの世にいるとは、同時期に生きているとは、思ってもいなかった。

 自分がこの若い芽を世界に知らしめなければならない。これは運命だ。

「分かっていると思いますが、君はこの『見せ方』が成っていません」
「あ?」
 分かっていない佐賀は不味いコーヒーを「まず」と言って、カップを皿に戻した。

「それにしても思うんだがな、佐賀さんの周りには不思議な人間が多い」
 溝口は、意見の主張というよりは、ただ事実を述べたみたいだった。

「確かに、溝口さんも不思議と言えば不思議です」
「それは言えとる」
 溝口が笑う。坊主頭に丸眼鏡の溝口には、笑った顔がよく似合う。

「きっとあなたは、それを求めているんでしょうな。感覚的に。そういう資質をカミュは見抜いた」

 カミュは佐賀を、画家から絵師にした、言わばいま巷で噂される佐賀謙という浮世絵師の、生みの親だ。

「しかし今と昔とで、それほど僕は変わっていないと思うんです」

 溝口は頷く。佐賀は静かに続ける。

「昔は画家で、いまは絵師。昔は描きたいように描いていました。でも今は、誰かの依頼に応じて描く。それで報酬がもらえる、生活がしていける。芸術を金と食い物にすることについて、カミュとの出会いが無ければ否定し続け、きっと今でも売れない画家として自分のやりたいようにやって、『お前らには分からん』と小さなイベントでやって来た客を睨んでいたと思います。別に、これを否定する気もなくて」

 溝口は自分の息子ほどの歳の男の話を、自分と同じ歳ぐらいの人間に向ける耳で聞いている。

「ただ、カミュの期待に応えたいと思いました。それだけのことです、最初は。カミュが版元で、僕が絵師で」
「突然、ワシのところにやって来て」

 溝口はその日のことを思い出す。妻はパートに出ていた昼間、仕事は休憩中で家に戻っていた。

 ——ピンポン

 家のインターホンが鳴らされた。妻はパートなので溝口が玄関へ向かって引き戸をガラガラ開けると、こんな片田舎には似つかわしくない、黒スーツで黒いハットと黒い鞄を手に持った、青い目の白人の男と鉢合わせた。

「溝口清士郎さんですね」

 驚くほど綺麗な日本語が口から出てきた。殺される。そのとき溝口は、スキンヘッドのその白人を見てそんなことを思った。かろうじて「はい」と答えると、

「あなたの力をお借りしたいです。凄い才能が、あなたを必要としています」

 名をシャルロット・カミュというそのフランスの日本美術学者は、黒い鞄から取り出した複数枚の絵を見せてきた。溝口は玄関先で、何が何だか分からないままそれらを受け取った。

 溝口は、見たこともない種類だが、どこか既視感のある、圧倒的に高クオリティなその絵たちに、一瞬で興味をひかれた。血が騒いだ。

 なんだ、これは。

 実際に、目を見開いた。
 最近の浮世絵と言えば復刻版とかサブカルチャーとのコラボだとか、作品の良し悪しではなく歴史的な価値だけをクローズアップした退屈極まりないカテゴリーにあって、溝口は辟易としていたが、——なんだ、これは。

「これは、どなたの作品で」
 そういうの全部無視して土台から作りあげた作品、そしてそれがたまたま少し、浮世絵という形式に近いというような。

 溝口の感じるその心の高鳴りにカミュは平生と「佐賀謙と言います。近い未来、必ず日本を代表するアーティストの一人になる者です」と答える。

 そしてカミュは、いまその佐賀謙という若い才能が、いま本格的に浮世絵を描いていること、もうすぐ下絵が出来上がりそうだということ、そしてたったいま、数少ない彫師としての伝統技術を持つあなたの下へやって来たということを、その場で溝口に伝えた。

「あれは驚いた。久しぶりに面白いことが起こると思った」

 溝口は、お茶の入った湯飲みを両手のひらで包みながらそう言った。

「最初は僕も、疑いの気持ちはありました。でも実際にそこまで言って、後押ししてくれるカミュを見ていて、それに応えないわけにはいかない。もうこれは自分のやりたいようにやるなんて、そんな次元の話じゃないんだなと思いました」

「画家から絵師になった瞬間だ。カミュの期待に応えたことで」
 佐賀は「ええ」と言った。

 現代の浮世絵師、佐賀謙として初めて製作した作品、「KING of 髑髏」の初刷りは、オークションに出せば10万ドルはくだらない代物としていま、シャルロット・カミュの邸宅に飾ってある。
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