第30話 真剣

文字数 2,365文字

 ゴミが出るのは仕方がない。

 雲仙は相談しに来た三十手前くらいの男の話を聞きながら、そんなことを考えていた。

 服は着なくなる、機器は壊れる、ゴミになる。至極、当然の話だ。

「妻が何というか、DVを起こすというか」
 男が患者なのか。それとも患者はその妻なのか? 見たところ、男の精神は致命的じゃない。

「お子さんはいくつだ」
「二歳になります。男の子です」
「その子に危害を加えたりは?」
「いえ、子供には。でも私には鬼のように、蹴ったり殴ったり」
 腕を見せてもらうと、実際、痣や腫れが少しあった。

「帰るのが怖くて。ああ今日も殴られるんだろうな、って思うと、家の前にある公園のベンチで日付が変わるくらいまで待って、そっと玄関を開けて帰るんですけど」

 確かにそれは事実なのだろう。しかし、男はとても深刻そうに話してはいるが、それほど酷い状況ではないと雲仙は感じる。
「君はMかな?」
 真顔で男にそう聞く雲仙。男は一瞬、理解しかねる顔をして「え?」と聞き返す。

「マゾ。肉体的、あるいは精神的苦痛を与えられることで性的快感を味わえる嗜好の持ち主かな、と聞いているのだが」
「は、はあ」

 男は困惑気味に言葉を漏らす。見たところ、やはりそれほど深刻な話には感じない。そのDV嫁の方も子供に危害を加えるとなれば問題だが、そうでもないという。ごく普通の夫婦で、ただちょっと嫁がDV気味というところを、彼が過剰に心配している風に雲仙には見える。

「どうなんだね」

 ふざけた感じも無くまるで血液型でも聞くかのように雲仙がそう聞いてくるので、男は、「どちらかというとM、だと思います」と、よく分からないでもそう答えた。

「別れたいわけではないのだろう?」
「はい。だからこそ、妻が心配で」
 なるほど、それは良かった。男の話を聞くまでもなく、雲仙は斜め後ろにある十段ほどの書類ケースに手を伸ばして、一つの引き出しから広告紙を一枚取り出した。

「行ってきなさい。紹介状を書いておく」

 男はその広告紙を受け取ると、ギョッと目を丸くした。

「こ、こんなところ、僕に用はありませんよ」

 男が受け取ったのは、マゾヒストがお金を払って、仮面を付けた女王様に鞭や蝋燭でお仕置きをされに行く趣旨のお店の広告紙だった。雲仙は机に向かってペンを走らせながら平然とした声で言う。

「行かないならそれでいい。選択の問題だ。いまは痛いと思っていることが、快感になる。あとはそれで良いと思うか、嫌と思うかの選択の問題。君にできるのは自分を変えることだけだ。もし嫌なら、その奥さんを連れてきなさい」

 雲仙はペンを一度ノックして、「紹介状だ。安くなる」と言って男に渡す。男はあっけにとられつつも、一応はその紹介状を受け取った。

 忘れられたもの、壊れたもの、ゴミ。しかしいかにそのゴミを見つめ、可能性を見出すか、役割を与えるか、そうすればゴミはゴミじゃなくなる。そういうことを考える人間が、世の中にはもっと必要だ。

「また何かあったらおいで」
 暖簾をくぐって出て行く男を見ながら、そこに温かさを忘れてはいけないな、と雲仙は考える。この暖簾を出ていった人たちが明日も明後日も生きていることを、診察室から祈ることしかできない。最善のことを考えなければならない。



「どうだ。進捗は」
 定期的に佐賀は、雲仙が診察を終えるころ、状況報告をしに来る。ちなみに今日は、土曜日だ。
「ぼちぼちです」
 言ってみて佐賀は、嘘は良くないなと思い、「前回と変わりありません」と加えた。実際、筆を持って机に向かいはするものの、制作は何一つ進んでいない。寧ろ滞る一方だ。

 雲仙は、「真面目だな。ここの住人になって浮世を観察するというから、そんなにすぐにはできんだろう」と言った。その理解ある返しに佐賀は「すみません。ありがとうございます」と返す。
「君が彦山の弟子というのも分かる。似ている、凄く。嘘がつけない、いや、つかない気質は」

 毎回、こうして制作の進捗についてや、関係のない談話をするのだが、その中で初めて、雲仙の口から佐賀の空手の師匠、彦山の名が出てきた。
「ありがとうございます」
 彦山の先輩だという雲仙に、半端な口はきけない佐賀。しかしそれは、まだ本当に雲仙が彦山の先輩だったのかどうか、先輩だったならどういう先輩だったのか、そこが見えていない分には迂闊に話題を掘り下げることが出来ない、故彦山の弟子としての、佐賀の警戒でもあった。

「いつまで続けたんだ」
「高校三年の、秋です」
「となると何年?」
 西暦ではなく何年続けたかを問われたと佐賀は認識する。
「十四年です。幼稚園の年少からやっていましたから」
 そう答えると雲仙は頷いて、「大したものだ。十四年も彦山の下でやっていたなら、相当な実力の持ち主だったんだろう」と言った。
「いえ、自分では弱いと思っていましたので。大会にも先生は出させませんでしたから、それは分かりません」
 佐賀は丁寧な言葉でそう答えた。実際は、佐賀は高校二年生から稽古生のトップとして、大学生も差し置いて一番の上座で稽古に参加していた。その位置を決めるのは彦山であるため、本当は佐賀は彦山から、その実力を認められていたということになる。

「なぜ辞めたんだ。そこまでして」

 やはり聞いてくるか。佐賀はそう思った。

「受験が忙しくなってきたので」

 無難にそう答えておいた。雲仙は「受験か。確かに君の行っていた美大は、狭き門と有名だが」と納得したのか、もうそれ以上は触れるべきでないと察したのか、深堀りしてこなかった。佐賀はいま自分が無礼を働いたのか、そうでないのか、まだ分からない。

「どうだ。稽古、参加していけば。真希はいつも歓迎しているぞ」

 佐賀は「また今度、お願いします」と言っておいた。空手はその頃から、一度もやっていない。
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