第36話 打ち上げ花火の背後にて
文字数 2,440文字
ああ、来ちゃったよ。
佐賀はそう思った。ジムに行くはずだったし、そもそもその日は、事前に五十嵐の誘いを断っているのだ。もし会場で五十嵐に遭遇したら「今日は稽古休みになったから」と説明しなければならない。それは面倒だ。だったら行かないほうが辻褄が合ってくれるのだが、
——じゃあせっかくだし、このまま祭りでも行くか!
椎名の提案に、そのとき横をチラ、と見ると、じっと立っていた錬太郎が意外に嬉しそうな表情をしていたので、
「いいですね」
とそこで佐賀が一人、断るわけにはいかなかった。結果として、昨年も今年も、不本意ながら二年連続で佐賀は、この祭りに来ることとなったわけだ。
「欲しかったら言ってくれよ。なんでも」
屋台がずらっと並んでいる道を、椎名、福田、佐賀、錬太郎の四人は歩いて行く。持って来ていた半袖短パンの着替えに着替えており、肩にエナメルバッグを掛けた筋肉質な四人は、きっと周りの目からは、「部活終わりの仲の良い先輩後輩」と映っていたに違いない。
「ありがとうございます」
佐賀は言いつつ、果たしてそれはありがたいことなのか、と自問する。まず屋台で売られている食べ物を、佐賀は嫌悪していた。揚げ物は使い古した汚い油で揚げられ、焼き物は焦げだらけの汚い鉄板で焼かれる。とにかく汚いという印象で、身体に悪い。
「焼きそばいいな。買うか」
「ありがとうございます」
「ありがとうございます!」
椎名に対して、佐賀と錬太郎は続けてそう答える。無邪気な錬太郎はきっと本心でそう言っていたが、少なくとも佐賀はこのとき、建前としてそう言っていた。いくらその焼きそばが佐賀の趣味趣向にそぐわなかったとしても、年上の先輩がそれを奢ると言ってくれているなら、喜んでそれを享受できるぐらいの愛想の良さぐらい持ち合わせていた。
屋台で焼きそばを四人分買い、たまたま空いていたベンチへ腰を下ろす。
「座れ座れ」
ベンチに四人座るのは難しく、椎名が財布をポケットに仕舞いながら三人にそう言う。
「いや、椎名さん座って下さい」
佐賀が割りばしと焼きそばパック片手に席を促すように言うと、「俺が立っとこうか」と、福田も割りばしと焼きそばパック片手に立ち上がる。
「いやいいって」
椎名がそう返す。幼い錬太郎は既に一人座って、そのやり取りをぼけっと見ている。
へんてこでどうでもいいような席の譲り合いの結果、「俺は立っとくのが好きだからよ」と椎名が言い出したので、福田と佐賀と錬太郎が座ることになった。
「うま」
椎名は前に立って立ち食いしながら、そう感想を漏らす。
「うまいですね」
佐賀も割と本心で、そう言う。過剰にソースがかけられていて味が濃くて身体に悪い、だからできるだけそういうものは口に入れたくないのだが、身体に悪いものはそう、得てしてうまいし、たまには、こういうのもいい。
「花火は何時からなんだ?」
椎名が言う。すると「ああ」と言って福田は、ちゃんとどこかでもらっていた祭りのパンフレットをポケットから出して広げる。
「八時あたりからみたいだな」
「じゃあともう少しか」
椎名はポケットから取り出したスマホを少し起動して時間を確認した。一瞬だけ椎名の顔面がブルーライトに明るくなり、消える。
花火か。
佐賀はふと、思った。空手しか考えていないこの頃、そういうものを見るのは必要のないことだと、歯牙にもかけてこなかった。花火が何時から始まるかワクワクして待つ、そんな浮かれた気持ちは必要のないものであり、花火を眺めている時間など、時間の無駄でしかないと。
しかしこういう時間も、必要なのではないか。先輩後輩と屋台の焼きそばを食べながらベンチで駄弁って、花火が始まるのを待っている時間が。佐賀は、ゆったりとした時間の中で、そう思った。
「楽しみですね」
佐賀が言った。椎名と福田はそれを聞いてニコ、と笑った。先輩二人にとっても、佐賀という真面目な後輩と接するのは、難しさを感じていた。だからこそ祭りに誘ったというのもある。二人にとって佐賀は、自慢で、尊敬の後輩だ。
打ち上げ花火が始まった。
去年も同じ会場で見たはずだし、それまでの人生で打ち上げ花火ぐらい、何度も目にしてきたはずだった。
しかしそのときはなぜか佐賀の目と耳と鼻、舌、へそ、足の指先、毛穴など、とにかく佐賀の五感の通うすべてにその打ち上げ花火が染み渡るような感慨が、佐賀の全身を包んだ。
凄い。
自分の中にグラスがたくさんあって、そこに無色透明な水が注がれていく。どんどん、満ちていく。佐賀はそんなイメージをした。きっと一年前よりも武術の深みに入って、感性が研ぎ澄まされている。
「凄いですね」
佐賀は隣の福田にそう言った。福田はそれを聞いて嬉しそうに「ああ、な」と言った。椎名は後ろに立っている。
チラ、と佐賀は振り返った。振り返る刹那の間に、錬太郎がポカンと夜空を見上げていたのが分かった。なに初めて見たみたいな顔してんだ錬太郎、と佐賀は思った。夢中で見上げている。
——綺麗ですね。
佐賀は後ろの椎名に向けて、そう言おうとした。しかしそこで佐賀は気づく。椎名は、花火とは逆方向に、後ろを見ていた。
佐賀はチラ、と両隣の福田、錬太郎に気を配る。二人は花火に見入ったままだ。そして椎名の方へ意識を戻す。
椎名がどこを見ているのか、何を見ているのか。佐賀は椎名の視線の先を探すが、それは椎名に隠れているのか、よく分からない。
——どうされたんですか?
佐賀がまさに、そう聞こうとしたときだ。椎名は、見ている方向へ急な速足で歩き出した。佐賀は、何か良くないことが起こるのではないか、そんな予感がして、隣で花火を見上げている二人には「トイレ行ってきます」と言っておいて、椎名の後を追った。
数秒して、すぐに分かった。椎名の行く先には、前髪のシュッとした高校生、五十嵐と、その仲間、そして、帽子を深く被って視線の見えない危険な雰囲気の男が、張りつめた空気の中にいた。
佐賀はそう思った。ジムに行くはずだったし、そもそもその日は、事前に五十嵐の誘いを断っているのだ。もし会場で五十嵐に遭遇したら「今日は稽古休みになったから」と説明しなければならない。それは面倒だ。だったら行かないほうが辻褄が合ってくれるのだが、
——じゃあせっかくだし、このまま祭りでも行くか!
椎名の提案に、そのとき横をチラ、と見ると、じっと立っていた錬太郎が意外に嬉しそうな表情をしていたので、
「いいですね」
とそこで佐賀が一人、断るわけにはいかなかった。結果として、昨年も今年も、不本意ながら二年連続で佐賀は、この祭りに来ることとなったわけだ。
「欲しかったら言ってくれよ。なんでも」
屋台がずらっと並んでいる道を、椎名、福田、佐賀、錬太郎の四人は歩いて行く。持って来ていた半袖短パンの着替えに着替えており、肩にエナメルバッグを掛けた筋肉質な四人は、きっと周りの目からは、「部活終わりの仲の良い先輩後輩」と映っていたに違いない。
「ありがとうございます」
佐賀は言いつつ、果たしてそれはありがたいことなのか、と自問する。まず屋台で売られている食べ物を、佐賀は嫌悪していた。揚げ物は使い古した汚い油で揚げられ、焼き物は焦げだらけの汚い鉄板で焼かれる。とにかく汚いという印象で、身体に悪い。
「焼きそばいいな。買うか」
「ありがとうございます」
「ありがとうございます!」
椎名に対して、佐賀と錬太郎は続けてそう答える。無邪気な錬太郎はきっと本心でそう言っていたが、少なくとも佐賀はこのとき、建前としてそう言っていた。いくらその焼きそばが佐賀の趣味趣向にそぐわなかったとしても、年上の先輩がそれを奢ると言ってくれているなら、喜んでそれを享受できるぐらいの愛想の良さぐらい持ち合わせていた。
屋台で焼きそばを四人分買い、たまたま空いていたベンチへ腰を下ろす。
「座れ座れ」
ベンチに四人座るのは難しく、椎名が財布をポケットに仕舞いながら三人にそう言う。
「いや、椎名さん座って下さい」
佐賀が割りばしと焼きそばパック片手に席を促すように言うと、「俺が立っとこうか」と、福田も割りばしと焼きそばパック片手に立ち上がる。
「いやいいって」
椎名がそう返す。幼い錬太郎は既に一人座って、そのやり取りをぼけっと見ている。
へんてこでどうでもいいような席の譲り合いの結果、「俺は立っとくのが好きだからよ」と椎名が言い出したので、福田と佐賀と錬太郎が座ることになった。
「うま」
椎名は前に立って立ち食いしながら、そう感想を漏らす。
「うまいですね」
佐賀も割と本心で、そう言う。過剰にソースがかけられていて味が濃くて身体に悪い、だからできるだけそういうものは口に入れたくないのだが、身体に悪いものはそう、得てしてうまいし、たまには、こういうのもいい。
「花火は何時からなんだ?」
椎名が言う。すると「ああ」と言って福田は、ちゃんとどこかでもらっていた祭りのパンフレットをポケットから出して広げる。
「八時あたりからみたいだな」
「じゃあともう少しか」
椎名はポケットから取り出したスマホを少し起動して時間を確認した。一瞬だけ椎名の顔面がブルーライトに明るくなり、消える。
花火か。
佐賀はふと、思った。空手しか考えていないこの頃、そういうものを見るのは必要のないことだと、歯牙にもかけてこなかった。花火が何時から始まるかワクワクして待つ、そんな浮かれた気持ちは必要のないものであり、花火を眺めている時間など、時間の無駄でしかないと。
しかしこういう時間も、必要なのではないか。先輩後輩と屋台の焼きそばを食べながらベンチで駄弁って、花火が始まるのを待っている時間が。佐賀は、ゆったりとした時間の中で、そう思った。
「楽しみですね」
佐賀が言った。椎名と福田はそれを聞いてニコ、と笑った。先輩二人にとっても、佐賀という真面目な後輩と接するのは、難しさを感じていた。だからこそ祭りに誘ったというのもある。二人にとって佐賀は、自慢で、尊敬の後輩だ。
打ち上げ花火が始まった。
去年も同じ会場で見たはずだし、それまでの人生で打ち上げ花火ぐらい、何度も目にしてきたはずだった。
しかしそのときはなぜか佐賀の目と耳と鼻、舌、へそ、足の指先、毛穴など、とにかく佐賀の五感の通うすべてにその打ち上げ花火が染み渡るような感慨が、佐賀の全身を包んだ。
凄い。
自分の中にグラスがたくさんあって、そこに無色透明な水が注がれていく。どんどん、満ちていく。佐賀はそんなイメージをした。きっと一年前よりも武術の深みに入って、感性が研ぎ澄まされている。
「凄いですね」
佐賀は隣の福田にそう言った。福田はそれを聞いて嬉しそうに「ああ、な」と言った。椎名は後ろに立っている。
チラ、と佐賀は振り返った。振り返る刹那の間に、錬太郎がポカンと夜空を見上げていたのが分かった。なに初めて見たみたいな顔してんだ錬太郎、と佐賀は思った。夢中で見上げている。
——綺麗ですね。
佐賀は後ろの椎名に向けて、そう言おうとした。しかしそこで佐賀は気づく。椎名は、花火とは逆方向に、後ろを見ていた。
佐賀はチラ、と両隣の福田、錬太郎に気を配る。二人は花火に見入ったままだ。そして椎名の方へ意識を戻す。
椎名がどこを見ているのか、何を見ているのか。佐賀は椎名の視線の先を探すが、それは椎名に隠れているのか、よく分からない。
——どうされたんですか?
佐賀がまさに、そう聞こうとしたときだ。椎名は、見ている方向へ急な速足で歩き出した。佐賀は、何か良くないことが起こるのではないか、そんな予感がして、隣で花火を見上げている二人には「トイレ行ってきます」と言っておいて、椎名の後を追った。
数秒して、すぐに分かった。椎名の行く先には、前髪のシュッとした高校生、五十嵐と、その仲間、そして、帽子を深く被って視線の見えない危険な雰囲気の男が、張りつめた空気の中にいた。