三.戦禍の記憶 三
文字数 4,203文字
マイスタの洩らした一言が、突っ立った俺の心を激しく戦慄かせる。
俺の魂のどこかが、このマルーグ峠という地名に共鳴し、俺の体まで激しく揺さぶり動かしているようだ。鼓動を忘れた心臓さえ、動悸しているかのような錯覚に襲われる。
沈降する意識に代わって、誰かの声がおぼろげに浮かび上がってくる。
『我が隊の情報は、全てアープ側に筒抜けになっています! 一体どこから……』
『畜生! あんたたちさえ来なけりゃ、俺たちは、ずっとアープと……!!』
『ああ、もはやこれまでかと……。このマルーグ峠が、我々の……』
幾つもの男の恨み言に囲まれた俺は、半ば朦朧としたまま、マイスタに問うていた。
「マルーグ、峠、何ガ、アッ、タ……?」
マイスタが両手で顔を覆う。抱えきれない疲労を全身の空気にまとわせて、彼が深淵にも似た、底知れない吐息をつく。
「ああー、マルーグ峠の戦いのことは、もう誰も口にしなくなったがねえ……。余りにも悲しい話だから……」
そのあとに続くはずの彼の言葉を一字一句聞き漏らすまいと、俺は意識の楔を鼓膜に打ち込む。そんな身構えた俺に、マイスタが真顔を向けてきた。今まで見たことがないほどに真摯で、すがるような眼差しだ。
「話してもいいけど、明日には全部、忘れてくれると約束してはもらえんか? わしもあんまり思いだしたくない話でね……」
この気のいいいつも穏やかなマイスタが、見せた深刻な顔。浅からぬ傷が、マイスタの中に刻まれているのだろう。
だがマルーグ峠で何が起きたのか、俺にとっても避け得ない話だ。俺は力を込めて、びきっとマイスタにうなずきかける。
「約束、スル……」
三秒間、俺の眼球を見返していたマイスタだったが、やがて小さくうなずいた。
「何が起きていたのか、わしも詳しいことは知らないんだが……」
マイスタがぽつぽつと語り始めた。
「マルーグ峠は、このルディアから北東へ二日ほど行った山間にあってねえ。このルカニアとアープの国境を通る街道脇にあるんだよ。その峠はアープの領土でね、街道を睨む城砦があるんだよ。ただ、そのマルーグ峠のある地域は、隣り合ったアープの山間集落とは、昔から仲が割とよくてねえー……」
……なるほど、それが『識別表』に書かれていたマルーグ城砦なのだろう。
マイスタが重い口調で続ける。
「それが、今から大体二年近く前かねえ。突然、首都のミロから国軍の中隊が一つ、ケルヌンノスの街に乗り込んできてね……」
俺の腐敗した舌が縮み上がった。
エステルの故郷だ。今はもう焼け落ちて、地図からも消された街、ケルヌンノス……。
絶句した俺をよそに、マイスタが吐息を入れた。
「マルーグ城砦を攻めるというんだよ。何か国の上の方で起きた、このルカニアとアープの悶着のせいらしいけどね。それで、中央から来た国軍の中隊と、そのケルヌンノスの街に昔から駐留していた部隊が合同で、マルーグ城砦を攻めたんだ」
「ドウ、ナッ、タ……?」
聞かずにはいられなかった俺に、マイスタが力なく首を横に振って見せた。
「ルカニアの軍は、マルーグ城砦の手前の峠道で、逆にアープ軍の奇襲を受けてね。激しい戦闘になって、ルカニアの部隊もアープの奇襲隊も、どちらもほとんど全滅したんだよ……」
マイスタが言葉を切った。俺も何も言えない今、サロンは完全な静寂に支配される。
だがそのつかの間の沈黙は、マイスタの弱弱しい苦笑で破られた。
「でも、事はそれで終わらなくてねえ……」
マイスタがわずかに鼻を啜る。
「この戦いの報告が中央に上がると、作戦を立てた参謀が激怒したらしくてね。『この作戦の失敗は、ケルヌンノスの部隊のせいだ』、ということにされて。マルーグ峠の戦いから半年くらい経ってから、ケルヌンノスの街は、謎の大火で丸ごと焼けてしまったんだよ。それはもう、いろんな噂が立ったけど……」
いかにもきな臭い話だ。きっと裏では、中央の暗躍があったのに違いない。復讐か、懲罰か……。
再びマイスタが顔を覆った。
「ケルヌンノスの住民たちは、何もかも、中には命さえ失った人もいてねえ。それで、ケルヌンノス一の豪商、マイリンク商会の会頭が、自分の手元に残った財産かき集めて、住民たちに分け与えてね……」
「ナ、ゼ……?」
俺が問うと、マイスタが枯れた指の間から、深く澱んだ息を吐き出した。
「中央から来た中隊に兵站を納めていたのが、マイリンク商会だったんだよ。かなりの儲けが上がってね。まあ大半は、今のアンフォラ商会を通したものだったんだけど、マイリンク会頭は、ケルヌンノスが焼けたことに物凄い責任を感じてねえ。だから儲けも私財も全部、住民たちにやってしまったんだよー」
マイスタが、がっくりとうなだれる。
「でも、それでも足りない分があってね。それを工面するために、エステルお嬢さまは、自分から身売りなさったんだ……」
……そういう訳だったのか。
ユディートからわずかに聞いてはいたが、エステルが娼婦になったいきさつが、少し理解できた。
豪商の娘から、この花街の娼婦へ。その決意と、そこへ至るまでの彼女の苦悩が、俺の心にも痛ましい。まるで俺の動かない心臓に、鉄条網が絡みついてくるようだ。
ふと俺は、壁へと歩み寄った。そこには、一枚の絵が掲げられている。俺がこの白鷺庵のサロンで最初に見た、木立の中の邸宅を描いた風景画だ。
やはり俺の目には、どこか懐かしく感じられる。
その絵に見入った俺の背中に、マイスタの声が聞こえてくる。
「それは焼ける前のケルヌンノスにあった、マイリンク家のお屋敷を描いた絵でねえ。お嬢さまの生家なんだよ」
マイスタの口調が、低く鈍くなった。
「お嬢さまには面識がなくて、名前も覚えていないようだけれど、ミロから来た中央の国軍中隊長は、何回かマイリンク家に来ていてねえ。やっぱりそこは、商売相手だからさー。それで、その中隊長の名前が……」
マイスタの悲しそうな眼差しが、俺を捉えた。
「『マノ大尉』、『ユステーヌ=ルッカヌス=マノ』というんだよ……」
数千の雷の束が、俺の脳天から爪先までを衝き抜けた。目の前も頭の中も、激しい振動ととともに目映い闇へと染め上げられる。
力を失い、垂れ下がるばかりの顎を晒して立ち尽くした俺に、マイスタがどことなく自嘲的な苦笑を交えて言う。
「いやー、だから初めてマノさんに名前を聞いた時は、ちょっとびっくりしちゃったよー。まさかマノ大尉本人の訳はないしねえー……」
「ナ、ゼ、ダ……?」
びくびくと痙攣し、卒倒しそうな腐った体に鞭打って、文字どおりの全霊で投げた問いへの答えは、俺が予期したとおりだった。
「ああ、それはマノ大尉も戦死した、と聞いてるからだよ」
マイスタが、ふうと大きなため息を容れた。
「あのマルーグ峠の戦いを生き延びたのは、ルカニア側とアープ側を合わせても、二、三人しかいないからねえ……」
マルーグ峠の戦い、想像を絶する凄惨な戦いだったのだろう。俺の内側に映される幻視の欠片だけでも、総身の毛が逆立つ思いだ。
眉間にしわを寄せ、マイスタが目を伏せる。
「兵隊もケルヌンノスの住人も、生き残った人たちは、みんな散り散りになってしまって。このルディアに移った人もいるみたいだけど、もうお互いに付き合いはないんだよ」
そこまで語ったマイスタが、よっと小さく声に出して、ソファーから腰を上げた。彼はサロンの奥の方へと足を向けながら、穏やかな中に悲哀の漂う眼差しを俺に注ぐ。
「さあさ、わしはもう少ししたら戸締りして寝るから。マノさんももう寝たらいいよー。病身に夜更かしは毒だでねー」
いつに変わらない調子で、それだけ告げたマイスタ。俺も小刻みな震えの残る歯の間から、彼に応える。
「ア、アリ、ガ、トウ……。オ、ヤス、ミ……」
そして俺は、腐って緩み、さらには衝撃でがたがたになった手足を藻掻くようにして、宛がわれた小部屋へと戻ってきた。
灯りもなく、夜と融け合った部屋の中で、俺はベッドの縁に腰を落とす。
物音一つしない夜闇に、俺の耳鳴りだけが、嵐のように響く。その轟轟とした幻聴に混じり、腐った脳の中に響き渡る、一つの言葉。
――贖罪――。
……そうだ。
マイスタの話が正しいなら、俺が本当にルカニア国軍のマノ大尉だったなら、俺は幾つもの罪業を重ねたことになる。
マルーグ峠の戦いで、俺は自分ばかりか部下もほとんど死なせてしまった。
あまつさえ、ケルヌンノスの街は焼失し、住民たちはすべてを無くしたのだ。
そしてエステルは、娼婦へと身を堕すこととなってしまった。
これが罪業でなくて、一体何だというのだ。
そしてこれが罪なら、さらに俺が、実は生きながらえたマノならば、俺はその罪を償わなければならない。
あのパペッタという女が俺を屍者に換えたのも、その贖罪のために他ならないのだから。
皮膚の剥がれかけた汚らしい両手で、俺は醜い顔を覆い隠す。
とは言うものの、俺は贖罪のために、何をすればいいというのだろう?俺が抱えた罪業は、一つの中隊どころか街一つの重さにも値する。何をどうすれば、その途方もない罪を償えるのだろうか?一命をもって贖おうにも、もう俺は死んだ体なのだ。
『贖罪はもう始まっている。苦悩とともに』
聖騎士ユディートは、俺に確かにそう語ってくれた。さらに『苦悩を負い切れなくなったら、わたしに言え』と、彼女は言った。
あの時は軽く流してしまったが、今、俺は自分が何者なのか、知りつつある。同時にそれは、俺が背負い、清算しなければならない因業が明るみに出ることでもあるのだ。
俺は自分の罪業の重さに耐えられるのだろうか?
その過重から解放されるための贖罪の道は、どこにあるのだろう?
全ての答えは、パペッタの許にあるのかも知れない。
今の俺には、パペッタが待つアリオストポリへ行くこと、それ以外の途は何もない。
逡巡の中に立ち往生したまま、夜は深々と更けていった。